時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

この地は訪れただろうか

2010年10月23日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

 

 

Georges de La Tour. Magdalene with a document.c.1630-1635 (or 1645-1650)
 Signed, 78 x 101, private (Houston).
 この作品、ほとんど公開の企画展などに出展されたことがない。長らくフランスの個人、そして今は海を越えてアメリカの個人の所蔵になっているためである。アメリカでもなかなか見られない。2005年の東京展でご覧になった方はきわめて幸運であった。

  単に描かれた作品の表面を眺めているかぎり、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールという画家はどんな世界に生きていたのか、ほとんど知る由もない。この画家はしばしば「昼と夜の画家」、「光と闇の画家」などの形容句で知られるが、実際には昼を描いたと思われる作品でも、背景にはほとんどなにも描かれていないし、「夜」の作品でも侍女の掲げる松明や机の上の燭台、どこから射し込んでいるとも分からない光などがあって、かろうじて夜ではないかと思うにすぎない。

  さらに、わずかな手がかりなしには画家がいつの時代にどこで生き、なにを目指したかについてすら困難を感じるほどだ。その意味で時代も空間も明かにされていない。しかもこの画家は自ら進んでそうした設定をしている。時代と空間を超越しているのだ。作品イメージはきわめて古典的に思えるが、上掲の作品のように、現代の画家が描いても不思議でないような目を奪うような新しさを感じさせる作品もある。後世の美術史家たちから 「現実
(主義)」の画家と評価されながらも、画家は自分が最低限必要と思った部分しか描いていない。やや時代は下るが画家フェルメールが、室内の調度や人物を最大限、精緻に描き込んでいるのと対照的だ。

  わずかに残る断片的史料、それも画家本人のものではない者のいわば映画のワン・ショットに近いような史料の切れ端のような部分から、文書の欄外に記された誰かのメモなどから、この画家はしばしば世俗の世界では横暴、強欲な人物のように評価もされている。しかし、画家の深い精神的沈潜に充ちた作品とそうした評価の間に横たわる断絶はあまりに遠く離れ、結びつけて理解するには、作品を見る側が目を閉じて大きな断崖を跳ばねばならない。埋められるべきものは、あまりに多い。

  画家がその生涯で確実に訪れた場所も、残された史料で判断するかぎり、生まれ育ったヴィック=シュル=セイユという小さな町、その後工房を置いて活動したと思われるのリュネヴィル、主として戦火を避けたナンシー、そしてパリぐらいなのだ。しかし、修業時代、戦禍や悪疫を逃れて彷徨した地は恐らくそれだけに限られていなかったはずだ。優れた騎馬の使い手であった画家は、修業時代を含め、実際にはロレーヌを拠点にかなりの範囲を旅して見聞を広めていると思われる。しばしば戦火や疫病に追われ、家族ともども逃げ惑ったこともあった。いつ襲ってくるともしれない外国の軍隊や悪疫の恐怖に落ち着かない時を過ごしながらも、当時のヨーロッパの画壇の流れを知る上でも、この希有な画家はかなり多数の他の画家の作品に接し、学び、自らの思索を深めたはずだ。

 

アルザス・ロレーヌ、ヴォージュ地方、ラ・ブレッセの町(かつては繊維産業で栄えた)。

Photos: Courtesy of  me. G.J.


コメント (4)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 林を抜けて、里の秋 | トップ | すぐに忘れる国 »
最新の画像もっと見る

4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
あっという間に冬… (G.J.)
2010-10-25 22:19:18
なんでもない谷合の小さな町でしたが、緑が綺麗だったので撮ってみました。
思いがけずブログに載せて頂いて、大変嬉しいです。 
今はまだ秋だと思って思っていましたが、天気予報によると既にヴォージュには雪が舞ったようです。
冬に行ったことはありませんが、このラ・ブラッセの町は冬はスキー客でとても賑わうようです。
返信する
冬近し (old-dreamer)
2010-10-26 00:53:14
昔を思い出し、少し古い写真を使わせていただきました。ヴォージュ山塊のスキーはクロス・カウントリーをしている友人から聞いたことがあります。素晴らしい林間走が楽しめそうですが・・・。
返信する
絵を超えた絵 (arz2bee)
2010-10-27 19:27:14
 この絵は詩や小説のように画像だけではない物語と言うか思索というか一つの全体を伝えてきますね。この女性は何を見つめているのでしょうか。二の腕から肩まで露わになって若いことが分かりますが、何を着ているのでしょうか。この時代の侍女の生活や装いを知りませんが、よく見られた光景ではないような感じを受けます。
、画家が目指したかどうかは不明ですが静謐な印象の中に象徴的黙示的な意味合いも感じます。乱暴強欲の人の作品としたら、それも人間の不思議さなのでしょうか。
返信する
画家の心底にあるもの (old-dreamer)
2010-10-28 15:00:14
arz2beeさん

この作品は画家が自らの重要なジャンルのひとつとしていた「悔悛するマグダラのマリア」シリーズのひとつとされています。マグダラのマリアが対しているどくろは現世の虚しさ、つかの間の生を暗示していると考えられています。他の構図と異なり、この作品の女性は衣服をほとんど身につけていない異例の構図であるにもかかわらず、官能性がほとんど感じられません。聖女の容貌は髪に隠されて窺い知れませんが、深い神秘性と思索への沈潜が伝わってきます。蝋燭の焔に舞い上がった聖書の一頁など静謐な中に比類無き美しさを秘めています。
現代アフガニスタンのごとき荒涼たる精神風土にも耐えて生きた希有な画家の心の内は明かされることがないままに、われわれに突きつけられているように思われます。
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋」カテゴリの最新記事