アメリカの中間選挙も目前に迫ったが、最大争点のイラク問題を別にして、経済分野では移民問題とともに最低賃金率の引き上げも注目を集めている。とりわけ民主党は連邦最低賃金率の引き上げをかなり重要視している。
下院民主党の有力議員ナンシー・ポロシは、もし民主党が中間選挙で勝利し、議会のコントロールができれば、彼女は連邦最低賃金を時間当たり$5.15から$7.25へと引き上げる法律を議会活動で公式発言できる100時間以内に実現させたいとしている。他方、州レベルでもオハイオとミズーリを含む6州が、連邦賃率に加算する部分を積み上げる投票を行うと決定している*。
民主党は最低賃金に力を入れることで投票にはずみをつけることができると考えているようだ。イギリス労働党が政権を獲得した時のように、政治的には意味がある戦略である。というのは、多くのアメリカ人は連邦最低賃金率の引き上げに賛成である。ある世論調査では回答者の85%が賛成と回答している。移民問題よりも対立点が少なく、進歩性をアッピールしやすい。
最低賃金の引き上げには、経済的にも意味あるとする人たちが多い。The Policy Institute (EPI) は、どちらかというと左よりの調査機関だが、5人のノーベル経済学者を含む650人以上の経済学者が賃率引き上げを支持するアッピールに署名した。連邦最低賃金は1997年に引き上げられたのが最後だが、その後実質価値は大きく低下してきた。今は1951年の水準以下である。
最低賃金という制度は、ともすれば賃金率を上げると、雇用をかなり減少させるのではないかという印象が強いのだが、導入している国の実態を見る限り、その懸念は少ない。それだけに、セフティネットの機能が顕著に弱化している今日、この制度を強化する必要がある。なによりも財政支出を伴わないことが大きな利点となる。
最低賃金率のある程度の引き上げは、雇用に「少し、あるいはほとんど影響を与えない」が、貧困と戦うには有効であると考える経済学者が多い。しかし、経済学者の間でも必ずしも意見は一致していない。
初級レベルの経済理論で明らかだが、最低賃金を引き上げると、使用者は雇用を手控える。これが従来から合意があった見方であった。しかし、理論を具体化してゆくにつれて、さまざまな問題が生まれてくる。1990年代には一連の実証研究が行われ、ニュージャージーとペンシルヴァニア2州のファースト・フード店の著名な分析で有名なカードとクルーガー David Card (Berkley) and Alan Kluger (Princeton) は、この合意に挑戦的な結果を示した。言いかえると、ファーストフード店の雇用は、最低賃金引き上げの後、なかば常識となっていた想定とは逆に、現実には増加したとの結果を示した。
他方、ニューマークとワッシャー David Newmark (Califorunia at Irvine ) and William Wascher (Federal Reserve) は、これとは逆の発見を示した。というわけで、実証研究の結果はどちらが正しいともいえない状況にある。これは、「他の条件が変化しないとすれば」という難しい理論的前提、標本の選び方、理論モデルと現実との関係など、多くの難しい問題が含まれているためだが、「常識的な判断」に従えば、よほど大きな引き上げをしないかぎり、最低賃金の現状程度の引き上げでは、雇用にはほとんど影響しないとみるのが妥当といえよう。
もう少し経済理論に即していえば、今日の経済学者の合意は、もし影響があるとすれば最低賃金を上げれば、最悪の場合でも少し雇用を減少させる程度であるという範囲に大方収まっている。
なお、ローレンス・カッツ Lawrence Katz (Harvard) は、上記のEPIのアッピールに署名している一人だが、「ほとんどの合理的に行われた推定では、最低賃金率の引き上げは、ティーンエイジャーについては雇用に小さなマイナス効果がある」としている。この点はイギリスの最低賃金制度導入時に、ひとつの例外措置が講じられた。その他の問題についても、アカデミックな次元では色々と論争はあるが、机上の空論に近く、あまり生産的なものとは思えない。
ただ、ほとんどの経済学者が同意することは最低賃金が高くなっても貧困を救済することにはあまり貢献しないということである。
これにも色々と理由はあるが、主たる理由は最低賃金レベルで働く労働者の多くは真に「貧困者」ではないことである。そして、労働力のわずか5%(約660万人)が最低賃金上昇で直接影響を受けるにすぎない。そして、そのうちの30%はティーンエイジャーであり、かれらの多くは貧しい家庭の成員ではない。
最低賃金引き上げは貧困者を増やすという計測結果を示した経済学者もいる。この点についても議論は分かれており、要するに貧困減少にはあまり効果がないということである。こうした最低賃金にあまり期待は出来ないが、財政支出を伴わないのだから、セフティ・ネットの一つとして最低賃金率を引き上げよという言い分は十分通りやすい。そして、切れ切れになりそうなセフティ・ネット補修のためにも必要である。
最低賃金より貧困減少に有効であると考えられる手段は、 いわゆる「マイナスの所得税」earned-income tax credit (EITC) であり、アメリカでは1970年代に導入され、これまで4回、拡張されてきた。
現在は給付は子供のある家族に焦点が当てられている。単身者はETTCからは得るところが少ない。経済学者の中には最低賃金の上昇とEITCの充実の双方を主張している。しかし、最低賃金と違ってEITCの大きな拡充は納税者の税金と関連するので政治的に簡単ではない。そのため、他の経済学者は次善の策として最低賃金を支持するという筋書きである。
それにしても、日本では使用者もほとんど答えられないほど複雑化、形骸化している制度をいつまで続けるつもりなのだろうか。
* 中間選挙に際して、ネバダなど6州は最低賃金の引き上げの可否を問う住民投票を示威し、全州で可決。これらの州では年明け移行、現行比で20-30%前後,最低賃率が引き上げられる。民主党は、今回の圧勝を背景に連邦最低賃金の引き上げを目指す。
Reference
“ A blunt instrument” The Economist 28th 2006