Junction Street, Stony Brow,
Ancoats, Manchester
1929
Pencil on paper
28 x 38.3cm
presented by Miss Margaret Pilkington to the Rutherston Collection, 1930
『ジャンクション・ストリート坂上 マンチェスター、アンコーツ』
一見すると、とりたてて観る人を惹きつけるなにかが描かれているとは思えない。茶褐色の鉛筆によるモノトーンな色彩で、何の変哲も無い風景に見える。描かれた対象は石畳の坂道である。その坂道もかなり頂上に近い。上り坂は間もなく終わるようだ。両側には壁があり、坂を上り終わる所には街灯が描かれている。さらに良くみると 坂の上の先の方には丘陵のような一部と建物の屋根のようなものが見える。しかし、その他にこの作品を特徴づけるようなものはほとんど描かれていない。坂道は遠近法で描かれ、観る人を明らかにどこかへ導こうとしている。しかし、どこへ導かれるのか一切分からない。しかし、その茶褐色の単色が与える暗い雰囲気とともに、観ていると、なんとなく引き込まれる。「不思議な力が働いている」と感想を述べた批評家もいた。
2013年、テート・ブリテンで開催された初めてのL.S.ラウリー回顧展で、話題を呼んだ作品の一枚がこれである。かつて最初にこの画家の作品に出会った時から気になってもいた。この画家の風景画は多数あり、色彩も多く使われた作品もあるのだが、この単色の作品にはなんとなく惹きこまれてしまい、その気持ちは今日でも変わらない。そして、今回の展示作品の中でも、多くの人々の注目を集めた。
画家はなにを考えていたか
よく見ると、簡素な画題の反面、画家がかなりの配慮をもって制作したことが分かってくる。あの『窓辺の花』もそうであったが、全体の印象とは逆に、細部にわたって、丁寧に描かれている。まず、石畳の道、敷石も微妙に描かれ、道の中央部には古くなり、割れているような部分もある。左右の壁もそれぞれ微妙に異なる。特に左側は大きな壁材を集め、接合したかのようにも見える。ラウリーは自ら油彩を最も好むと言っていたが、ある時期には鉛筆による作品を多数残してもいる。それには、画家の経験した時代背景、そして画家自身の心象変化が反映している。ラウリーも鬱状態にあった時期があった。
この場所は画家が想像で描いた架空の場所なのだろうか。そう思いたい気持ちもある。しかし、画題につけられたJunction Street (文字通り訳せば、交差する所の道、今は Jutland Street と名前は変わっているようだ) は、マンチェスターのこの地域に住む人たちなら知らない人はいないといわれる場所なのだ。実際に、この場所では Store Street と Ducie Street という地域の主要な道路をつないでいる。そして、この交差点には、イギリス史をめぐって知る人ぞ知るロッチデール運河とアシュトン運河を交差させる橋が架けられている。独立問題に揺れるスコットランドも遠くない、イングランド北西部マンチェスター地域の画家ラウリーが画題とした地名の場所は、ここ以外にないと地域の人々ならば考える。その街路の名前を聞いただけで、この作品と同様なイメージを思い浮かべるともいわれる。
地域の人にそれほど知られている場所なら、画家はあえてなにを描いてみせようとしたのだろう。なにも説明なく、もし絵の色彩がもっと明るかったとすると、こうした作品を見た日本人ならば、司馬遼太郎の「坂の上の雲」のような状況を連想する人もいるかもしれない。上り坂はしばしば未来への広がりを想起させる。「青い山脈」なども、青春の将来へのつながりを暗示する。しかし、この絵にはそうしたことを思い起こさせるような雰囲気はほとんどない。坂の上には雲らしきものも描かれているが、茶褐色の薄暗い色調で、全体が不気味とも思える陰鬱な雰囲気を漂わせている。時は夕方なのだろうか。坂の上が平坦な道になるならば、前方の建物なども、全容を現しているはずだ。しかし、それは見えない。坂はもう頂上近くだから、間もなく終わり、下り坂に入ることを暗示している。しかし、その先に見える空は、夕暮れを思わせる薄暗さだ。
時代の心象風景
この作品が制作された時代背景を推測してみよう。制作年は1929年、いうまでもなくニューヨークのウオール街に端を発した大恐慌の年にあたる。この時、画家が住んでいたサルフォード(現在のマンチェスターの一部)の状況も貧困さを歴然と示していた。市の調査では950戸の中で94戸には小さな庭yard もなく、67戸は屋外の水道に頼り、152戸はボイラーがなく、129戸はトイレを共用していた(Clark & Wagner 2013, p.211)。
時代を覆ういい知れぬ不安と暗さが、画家の制作に際しての心理にも反映していたと考えられる。ある批評家によると、ラウリーは土地の人たちより、この地域の細部に詳しかったとされる。それは、この画家は、不動産会社の集金主任で自らも集金係を定年まで勤めていた。画業で有名になり、作品が次々と売れ、生活面でも裕福になっても、65歳の定年まで集金掛で働いていた。いくつかの自叙伝でも、画家はそのことをあまり詳しく語ってはいない。画家になることを母親から反対され、「趣味としてなら仕方がない」と言われていたラウリーにとっては、母親の死後も思うことがあって、集金掛をしていたのだろう。母親の言葉をまっとうしたともいえる。
イギリスの工業化のまっただ中にあったマンチェスター近傍の地域は、工場に雇われ働く外に生活の道がない労働者家族が多数住んでいた。画家は、日々、こうした人々の生々しい日常に接して生きていた。
その後20年ほどして、ラウリーはこの坂を下った場所、カナル橋の状況を描いている。この作品が制作された前年、1948年、画家は長らく住んだサルフォードを離れ、より工業化されていない Mottram という場所へ移住した。どういうわけか、画家はこの新しい土地を好まなかったようだ。この年はイギリス政治経済史上、画期的な National Health Service が生まれ、労働党が多くの重要産業を国営化する方向へ動いていた。産業革命の発祥の地として、世界をリードしていたマンチェスターの繁栄の時はすでに終わっていた。
The Canal Bridge
1949
Oil on canvas
71 x 91cm
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工業化の衰退
1950-55年にかけて、ラウリーはイギリスの工業的衰退を象徴する一連の大型の作品を制作した。1950-60年代のマンチェスターは、大規模な都市再開発が展開し、産業革命以来の古い工場、事業所、家屋などが撤去され、逐次高層の建物へ建て替えられていった。
上に掲げた『カナル橋』 と題された作品は、その再開発が始まる直前の光景を描いていると思われる。手前に見えるのは、ロッチデール運河とアシュトン運河にかかるカナル橋と推定される。前方には衰退途上に入った工業都市の光景が遠望できる。近くには化学工場や木綿の漂泊工場の跡などが残っている。ラウリーは工業化という大きな動きが、自分たちが住む環境や生活を大きく変化させていることを重視してきた。普通の画家たちならば、関心を抱くこともなく、避けて通ったような、工業化がもたらした暗い、薄汚れた変化の場面を描き続けた。確かに「工業化の光景」industrial landscapes は多くの人々にとって、美しいものではないかもしれない。しかし、その中に生きた画家にとっては、すべてが描くべき重要な対象だった。
世界に先駆けて、産業革命を展開したイギリス、そしてその中心に近い場所に住み続けた画家にとって、工業化がもたらす明暗入り乱れた光景を、可能なかぎり描き続けることは、自ら定めた生き方だったのだろう。そのことによって、後世のわれわれは、工業化が生みだした光と影のさまざまな場面、そこで人生を過ごした人々の喜怒哀楽の光景を、写真とは異なった人間味溢れた描写として共有することができる。そのことは、もはや進歩しているとは素直に受け入れにくくなったこれからの世界が、いかなるものであるかを考えるについて、手がかりを与えてくれる気がする。
続く