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   桑原靖夫のブログ

時代の空気を伝える画家(4): 画家と母親

2023年10月13日 | L.S. ラウリーの作品とその時代


映画『ラウリーの母親と息子』予告編 タイトル 2019年

L.S.ラウリーという画家と作品を理解するには、作品だけを見ていても分からないことが多い。2000点を超える作品の画題も広く拡散し、画家の創作対象も大きく揺れ動いた。

厳しい家庭環境
ラウリーの生涯にわたる生活や家庭環境の変化とともに、制作にあたっての画家の心理状態も平静であるとは限らなかった。なかでも画家が独り立ちするまでの間、生活を共にしていた母親の存在は、大きな影響を残した。両親とひとり息子という家庭は、当初からさまざまな問題を抱えていた。父親が経済的にも困窮し、工場地域へと転居を迫られてもいた。しかし、ラウリーは屈することなく、工場やそこに働く労働者の日々の生活など、普通の画家は考えもしなかった対象を描くことに力を注いだ。

ラウリーの人生そして画業のあり方に大きな影響を与えたのは、母親エリザベスであったと言われている。決してプラスの影響ではない。母親は神経質で内向きであり、自分はピアニストになること、それも一流の演奏家になることを常に思っていたようだ。しかし、それが適わないこともあり、日々鬱屈していた。そして、画家になりたいという息子の願いには陰に陽に反対し、生前は画家として生きることをついに認めなかった。母親は息子の作品をほとんど見ることすらしなかったようだ。

しかし、画業への志を諦めきれなかったラウリーは、「本業を持ち、趣味として絵を描くのは仕方がない」というところまで母親を説得することにこぎつけた。それでも最後まで母親はラウリーの作品を評価することがなかったと言われる。ここまで厳しくされても、母親想いでもあったラウリーは反抗することなくそれに耐え、不動産会社の地代・家賃の集金人という下積みの会社員をしながら、画業を続けた。夜間には美術学校に通い、わずかな時間に制作するという日々であった。母親が寝静まった夜中に、絵筆をとっていた。

ラウリーはこうして神経質で執拗に考えを曲げることのない難しい母親と複雑な相互依存の関係にあった。そうした環境の中で創り出された彼の作品は長い間正当な評価を得ることができず、ロンドンなどの批評家たちが見慣れた作品とは大きく異なる、彼らにとっては、奇妙な表現に映る独特な作品の世界を再評価し始めたのはラウリーの晩年のことだった。

映画になった画家と母親
この画家と母親の関係は、コロナ禍発生の前年、2019年に『Mrs Lowry and Son』(「母親ラウリーと息子」)と題して、映画化された。作品は日本ではまだ上演されていないこともあって、筆者もまだ予告編しか観る機会がないが、この作品で画家ラウリーを演じたのはティモシー・スポール、母親役は名女優ヴァネッサ・レッドグレイヴであった。スポールは、この作品の前にマイク・リー監督による『ターナー、光に愛を求めて』において、国民的画家として知られるジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーを演じた。この画家としての役割を演じるために、ラウリーは3年間にわたり画業に励んだという。その成果は、ターナーに続き、ラウリーを演じる上で大きく寄与した。


上掲予告編 一場面
画家は本業としての不動産会社の地代・家賃集金人としての仕事を日々続けながら、その傍ら画業に専念していた。このような光景は、画家の写真として今日まで数多く残っている。

『Mrs Lowry and Son』は、エディンバラ映画祭で上演され、その後作品を観た人たちに大きな感動を与え、多数の観客がそのままラウリーの名をつけたペンドルベリーの文化施設に作品を観るために足を運んだといわれる。

L.S.ラウリー《画家の母親の肖像》1912
Portrait of the Artist's Mother (1912), oil on canvas, 46.1 x 35.9cm

ラウリーはこの肖像画制作に格別の努力をしたことがうかがわれる。

当時、画家の母親は長い病の床にあった。 彼女は以前から病気がちで、夫が死去する少し前から、6年以上病床にあった。ラウリーは唯一の家族として彼女を看護し続けてきた。そして、息子の作品がようやくロンドンの画壇で日の目を見る輝かしい時が来たことを知らされても、彼女は息子の努力を讃えることはなかった。エリザベスは1939年10月12日に亡くなった。

生前、母親は息子の成功を喜んではくれなかったようだ。ラウリーには他に家族はいなかったが、彼の家族をよく知るドラ・ホルムズは後に彼らのことを尋ねられ、こう話していた:「彼(ラウリー)は彼女[母親)のために生き、(作品を見て)微笑んでくれ、一言でも褒めてくれることを望んで生きていた」。この頃、ラウリーは「すべてが遅すぎた」All come too lateと繰り返し言っていたらしい。ロンドンの有名画廊からの個展開催オファーという「遅れてきた春」を喜ぶような心境ではなかったようだ。

ラウリーは作品が人気を得るにつれ、生活も安定し、何の心配もいらなくなっていた。しかし、この画家はいかなる名声も奢侈も望むことなく、ひたすら地域とそこに暮らす人々の生活を愛し、その日々を描くことに大きな喜びを感じて生涯を過ごした。画家ラウリーの作品は、彼が愛したイングランド北部の空気をさまざまに今日に伝えている。


REFERENCE
Shelley Rohde, L S LOWRY: A Life, London: Haus Books, 2007

続く
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