大倉草紙

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【大阪】 高安山

2009年09月20日 21時08分10秒 | 旅 - 大阪府
9月19日(土)
当日の行程:【司馬遼太郎『大阪城公園駅』陶板レリーフ(JR大阪城公園駅)】 → (JR大阪城公園駅~鶴橋駅…近鉄・鶴橋駅~信貴山口駅) → 【高安山】 → (近鉄西信貴ケーブル・高安山駅~信貴山口駅…近鉄・信貴山口駅~大阪上本町駅…タクシー) → 【兵部大輔大村益次郎卿殉難報國之碑】


近鉄・信貴山口駅(11:35)
高安山は、大阪府と奈良県の境に位置する(三角点は大阪府)。
標高488メートル。
いつもより遅めの出発。
信貴山口駅がスタート地点。


信貴山口から、法蔵寺の前を通って登山口に向かう。
目の前には、高安山が見えている。
道の勾配はかなり急で、登山口に着くまでにかなりくたびれてしまった。


登山口入口(おお道)(11:48)
おお道を通るルートで登る。
登山口入口には、「イノブタに注意」という看板が立っている。
道は、つづら折りではなく、山の斜面に沿って山頂までのびていて、かなり険しい。


開運橋(12:23)
細く急な道を登っていくと、突然、開運橋が見える。
橋の下をくぐって、ぐるっと回り、今度はこの橋を渡る。


高安山気象レーダー観測所(12:35)
橋からほどなく、高安山気象レーダー観測所に着く。
観測所の前には、高安山城跡の碑が建っている。


高安山城跡の碑
「西暦六六七年天智天皇が対馬国金田城、讃岐国屋島城とともに築造された古代の山城、白村江の戦後、百済領に進出した唐の勢力の侵攻に備えたもの。
 当時畿内の田の税である籾と塩を倉庫に貯蔵した。城域は高安山から信貴山にかけての山地に広がる。
 大阪府側の急ながけは自然の防塁、高安山頂は高安烽跡、奈良県側の緩傾斜地には『高安城を探る会』によって昭和五十三年四月倉庫跡の礎石群が発見されている。   八尾市教育委員会」(碑文)


観測所から更に進むと、左手に小高い茂みが現れる。
写真は、振り返って撮ったものなので、観測所方面から見ると、左右は逆。
この茂みの中に、三角点がある。
登り口がなくて戸惑ったが、なんとかよじ登る。


三角点(12:43)

もとの道を「高安城倉庫跡」の標識に従って更に進む。
舗装された大きな道路を渡り、車止めのゲートを超え、山道に入る。
この道をまっすぐ行くと、信貴山に至るようだが、今日は倉庫跡まで行って引き返すことにした。


高安城倉庫跡の碑(13:04)


倉庫創造図(案内板より)


倉庫礎石
「高安城址倉庫礎石石群
 昭和五三年(一九七八)発見
 奈良県平群町久安寺字金ヤ塚 奈良時代前期
 西暦六六〇年、唐と新羅は連合して百済を攻め滅ぼした。救援を求められた斉明天皇や皇太子中大兄皇子は九州へ向かったが、天皇は九州で急死、百済へ向かった日本の水軍も白村江の戦いで唐の水軍に完敗した。
 この緊迫した状況のもと、天智天皇は六六七年、近江大津宮に遷都、そのいっぽう、ここ高安山に高安城を築いた。対馬の金田城、九州大宰府を守る天野城や基肄(きい)城、瀬戸内の屋島城などと並ぶ日本防衛のための大規模な古代山城である。
 この高安城を一三〇〇年たった今、高安城を探る会が倉庫跡礎石六棟分を発見、城の所在地を確認した。
 高安城には築城後、畿内の田税である穀と塩を蓄え、非常時に備えたが、六七二年の壬申の乱で倉庫は炎上、その後天武・持統天皇の時代に修築され、文武天皇の七〇一年に廃城となったと『日本書紀』や『続日本紀』に見える。
 この倉庫跡は六棟の内2号棟で、橿原考古学研究所が昭和五七年三月に発掘した。この時、礎石の下から平城京跡で発見されているものと同じ暗文入りの盤(大皿)や杯が多数出土した、この土器の年代から、これらの礎石は奈良時代前期、七二〇~七三〇年代のものと判明した。3号棟も昭和五八年三月に発掘され、同時期と判明した。ただ、ここでは礎石を取り巻く形に掘立柱列がめぐっているのが発見された。
  平成八年三月 高安城を探る会」(案内板より)


道を戻って、高安山駅へ。(13:24)


帰りはケーブルカーで。
トラの絵がかわいい。
信貴山のトラは、聖徳太子が寅の年の寅の日の寅の刻に、寅と共に現れた毘沙門天を感得し、それを祀ったという言い伝えに由来するそうだ。


当日の歩数:17,823歩

【京都】 山名宗全邸宅跡

2009年09月19日 21時00分00秒 | 旅 - 京都府
5月31日(日)
当日の行程:(阪急・茨木市駅…阪急バス・阪急茨木市駅~千提寺口) → 【クルス山】 → 【キリシタン遺物史料館】 → (阪急バス・千提寺口~阪急茨木市駅…阪急・茨木市駅~高槻市駅) → 【高槻カトリック教会】 → 【野見神社】 → 【高山右近天主教会堂跡】 → 【高槻市立しろあと歴史館】 → 【高槻城跡の碑】 → 【城跡公園】 → 【高槻市立歴史民俗資料館(旧笹井家住宅)】 → (阪急・高槻市駅~烏丸駅…京都市地下鉄・四条駅~今出川駅) → 【相国寺】【相国寺金閣銀閣名宝展-パリからの帰国-(相国寺承天閣美術館)】【薩摩藩邸跡】【俵と龍のコレクション-屋号にちなんだ菓子意匠と茶道具-(京菓子資料館)】【藤井右門宅跡】【室町幕府跡】【山名宗全邸宅跡】 


山名宗全邸宅跡が分からず、西陣会館でお尋ねしたら、丁寧に教えて下さった。
邸宅跡は、ごくごく普通の町並みの中にあった。

「山名宗全は応永十一年(一四〇四)に生まれ、名を持豊といい、後に宗全と号したが、赤ら顔であったので赤入道ともいわれた。但馬をはじめ数ヶ国を領し、強大な勢力を持っていた。
 子供がなかった将軍足利義政は、弟義視を後嗣にしようとしたが、その後、義政の夫人富子に義尚が生まれたため、将軍職をめぐる後継者争いが起こり、応仁の乱に発展した。
 義尚を擁する宗全は、この邸宅を本陣として、室町今出川の花の御所に陣を置く義視方の細川勝元と東西に分かれて十一年間に及ぶ戦いを繰り広げた。このため、京都の町の大半は焦土と化した。
 なれや知る都は野辺の夕雲雀
   あがるを見ても落る涙は
    (飯尾彦六左衛門尉常房)
 この地にあった山名家代々の邸宅も焼失し、宗全は文明五年(一四七三)、陣中で没した。
 このあたり一帯を西陣と呼ぶのは、宗全が幕府の西に陣を敷いたことによる。  京都市」(案内板より)

【京都】 室町幕府跡

2009年09月18日 21時00分00秒 | 旅 - 京都府
5月31日(日)
当日の行程:(阪急・茨木市駅…阪急バス・阪急茨木市駅~千提寺口) → 【クルス山】 → 【キリシタン遺物史料館】 → (阪急バス・千提寺口~阪急茨木市駅…阪急・茨木市駅~高槻市駅) → 【高槻カトリック教会】 → 【野見神社】 → 【高山右近天主教会堂跡】 → 【高槻市立しろあと歴史館】 → 【高槻城跡の碑】 → 【城跡公園】 → 【高槻市立歴史民俗資料館(旧笹井家住宅)】 → (阪急・高槻市駅~烏丸駅…京都市地下鉄・四条駅~今出川駅) → 【相国寺】【相国寺金閣銀閣名宝展-パリからの帰国-(相国寺承天閣美術館)】【薩摩藩邸跡】【俵と龍のコレクション-屋号にちなんだ菓子意匠と茶道具-(京菓子資料館)】【藤井右門宅跡】【室町幕府跡】【山名宗全邸宅跡】 


室町幕府跡を探す。
なかなか見つからない。


今出川駅の近くの地図に載っているかも、と思って駅まで戻る。
地図上の今出川駅のほんの少し上のほうに「室町幕府址碑」とある。
行けば、上の写真のような小さな碑が建っていた。
「従是東北 足利将軍室町第趾」と刻まれている。

【京都】 藤井右門宅跡

2009年09月17日 21時00分00秒 | 旅 - 京都府
5月31日(日)
当日の行程:(阪急・茨木市駅…阪急バス・阪急茨木市駅~千提寺口) → 【クルス山】 → 【キリシタン遺物史料館】 → (阪急バス・千提寺口~阪急茨木市駅…阪急・茨木市駅~高槻市駅) → 【高槻カトリック教会】 → 【野見神社】 → 【高山右近天主教会堂跡】 → 【高槻市立しろあと歴史館】 → 【高槻城跡の碑】 → 【城跡公園】 → 【高槻市立歴史民俗資料館(旧笹井家住宅)】 → (阪急・高槻市駅~烏丸駅…京都市地下鉄・四条駅~今出川駅) → 【相国寺】【相国寺金閣銀閣名宝展-パリからの帰国-(相国寺承天閣美術館)】【薩摩藩邸跡】【俵と龍のコレクション-屋号にちなんだ菓子意匠と茶道具-(京菓子資料館)】【藤井右門宅跡】【室町幕府跡】【山名宗全邸宅跡】 


「この地に江戸中期の尊王論者藤井大和守直明(右門)の居宅があった。
 右門は播磨赤穂藩の遺臣の子で、享保五年(一七二〇)富山県小杉町の生れである。京都に出て竹内式部らと交わり、皇学所教授となって公家に尊王論を説いた。宝暦八年(一七五八)幕府が右門ら尊王論者を弾圧した宝暦事件がおこり、右門は江戸に逃れて山縣大弍のもとに身を寄せ、その塾で尊王論や兵学を講義した。しかし、幕府は盟和三年(一七六六)ある事件にかこつけて右門と大弐をとらえ処刑した(明和事件)。享年四十八才。それから約百年、右門らがさきがけとなった尊王論は多くの志士の心をとらえ、明治維新の思想の主流となった。末孫九成、多門らもその遺志をついで勤王家として活躍した。
 右門の旧宅は、現同志社大学の地に薩摩藩屋敷があった関係から、志士たちの会議連絡場所としても活用され、明治維新の史跡としても忘れがたい。屋敷は大正十一年(一九二二)区画整理のため取りこわされたが、大正十二年(一九二三)、右門の顕彰碑が建てられた。  京都市」(案内板より)

【大阪】 うまい屋

2009年09月16日 21時00分00秒 | 

天五中崎商店街のうまい屋。
看板に偽りなく、うまい店。


いつもは持ち帰るが、今日は店内で。
こんな風にお皿に盛られて出てくる。
8個で320円。
外側はカリッとしていて、中がもっちりという感じ。
何も付けずに食べるのがおいしい。

たこ焼きは、小麦粉を水で溶いた生地にタコを入れて焼いたものだと実に長いこと思っていた。
実際、そんなたこ焼きしか知らなかったし、たこ焼きの味といえば、ソースとマヨネーズの味でしかなかった。
出汁がきいたたこ焼きのおいしさを知ったのは、大阪に住むようになってからだ。

たこ焼きの味だけでなく、5枚切の食パン、自転車の傘立てスタンド、インゲンならず三度豆、春菊ならず菊菜、ヒレ肉ならずヘレ肉、メンチならずミンチ、駐車場ならずモータープール……違いを知るのは面白い。
間もなく引越し。
なので、少し感傷的になる。

【京都】 薩摩藩邸跡

2009年09月15日 21時00分00秒 | 旅 - 京都府
5月31日(日)
当日の行程:(阪急・茨木市駅…阪急バス・阪急茨木市駅~千提寺口) → 【クルス山】 → 【キリシタン遺物史料館】 → (阪急バス・千提寺口~阪急茨木市駅…阪急・茨木市駅~高槻市駅) → 【高槻カトリック教会】 → 【野見神社】 → 【高山右近天主教会堂跡】 → 【高槻市立しろあと歴史館】 → 【高槻城跡の碑】 → 【城跡公園】 → 【高槻市立歴史民俗資料館(旧笹井家住宅)】 → (阪急・高槻市駅~烏丸駅…京都市地下鉄・四条駅~今出川駅) → 【相国寺】【相国寺金閣銀閣名宝展-パリからの帰国-(相国寺承天閣美術館)】【薩摩藩邸跡】【俵と龍のコレクション-屋号にちなんだ菓子意匠と茶道具-(京菓子資料館)】【藤井右門宅跡】【室町幕府跡】【山名宗全邸宅跡】 


「現同志社構内の敷地一帯は、幕末に薩摩(鹿児島)藩邸があった所である。京都薩摩藩邸がはじめに置かれたのは中京区錦東洞院であるが、そこが手狭なため、文久二年(一八六二)にここに大きな藩邸を設けたのである。敷地の広さ、五千八百五坪(約一万九千平方メートル)、九棟の建物と多くの土蔵が立ち並んでいた。
 薩摩藩は鎌倉時代以来の名家島津氏を藩主とする外様の雄藩で、石高は約七十七万石。幕末に藩政改革に成功してから中央政局に発言力を強め、公武合体運動を展開、ついで長州藩と同盟して武力討幕に転じ、幕末、維新の政局の主導権を握った。藩邸はこうした活躍の根拠地であった。 京都市」(案内板より)

碑は、同志社大学西門前に建っている。
ここを訪れる前に参拝した相国寺は、素晴らしいお寺で心安らかになったのだが、周囲を見渡して気になったことがひとつだけある。
それが同志社大学の建物、というのは、私だけかなあ。

【京都】 相国寺

2009年09月14日 21時00分00秒 | 旅 - 京都府
5月31日(日)
当日の行程:(阪急・茨木市駅…阪急バス・阪急茨木市駅~千提寺口) → 【クルス山】 → 【キリシタン遺物史料館】 → (阪急バス・千提寺口~阪急茨木市駅…阪急・茨木市駅~高槻市駅) → 【高槻カトリック教会】 → 【野見神社】 → 【高山右近天主教会堂跡】 → 【高槻市立しろあと歴史館】 → 【高槻城跡の碑】 → 【城跡公園】 → 【高槻市立歴史民俗資料館(旧笹井家住宅)】 → (阪急・高槻市駅~烏丸駅…京都市地下鉄・四条駅~今出川駅) → 【相国寺】【相国寺金閣銀閣名宝展-パリからの帰国-(相国寺承天閣美術館)】【薩摩藩邸跡】【俵と龍のコレクション-屋号にちなんだ菓子意匠と茶道具-(京菓子資料館)】【藤井右門宅跡】【室町幕府跡】【山名宗全邸宅跡】


相国寺の開基は室町幕府三代将軍の足利義満で、開山は夢窓疎石。
五山の上位に列せられる。


鐘楼
天保14年(1843)再建。
一名洪音楼ともよばれる。


経蔵


法堂(重要文化財)
慶長10年(1605)、豊臣秀頼によって再建されたもの。


庫裏


方丈



方丈前の庭園


裏方丈庭園


浴室


浴室内部


相国寺の御朱印

【兵庫】 だまし絵 -アンチンボルドからマグリット、ダリ、エッシャーへ- (兵庫県立美術館)

2009年09月13日 21時00分00秒 | 美術館・博物館・記念館・資料館

騙されるのが好きなのか、はたまた騙されないぞーと挑んでいくのが好きなのか、自分でもどちらなのかは分からないが、兎にも角にも、だまし絵を見るのは楽しい。
チラシは、アンチンボルドの有名な『ウェルトゥムヌス(ルドルフ2世)』。
なんと34種類もの花や野菜で構成されていて、それぞれの花や野菜が顔のどの部分に使われているのかを示す図が作品の隣に置かれていた。
いやー豊作ですな。


チラシの裏側の文字は、だまし絵ならず「だまし文字」になっている。

「だまし絵」と聞いて真っ先に頭に浮かぶのは、

エッシャーの『滝』のような作品とか、

マグリットの『白紙委任状』のような作品。
あれ?この人どこにいるの?

作品が置かれる空間に溶け込むように事物を本物そっくりに描き、見る者の目を欺くようなものもだまし絵なのだそうだ。

例えば、ヘイスブレヒツの『トロンプルイユ』のような作品。
額に入れないまま部屋の壁に飾られていたら、うっかり騙されてしまうだろう。
いくつもの大きな部屋だとか、高級家具だとか、屋内プールだとか……わが家の壁にも飾ってみようか。

日本のものもあった。

歌川芳藤『五拾三次之内猫之怪』
国芳のものや、広重の『即興かげぼしづくし』もあり、愉快。
京都高島屋グランドホールで観た「浮世絵ベルギーロイヤルコレクション展」を思い出した。

それから、「描表装」もだまし絵と捉えることができるというのには、新鮮な感じがした。
呉春・松村景文『柳下幽霊図』、河鍋暁斎『幽霊図』、清水節堂『幽霊図』と、幽霊を題材にしたものが多い。
描表装は内と外の境界線をあいまいにするということで、幽霊がぴったりくるらしい。
清水節堂の幽霊は、とりわけ恐ろしい。
風帯が揺れ、幽霊の足元が一文字を跨ぐように描かれている。
『リング』で貞子が画面から現れる恐怖は、これに似ている。

そして、一番びっくりしたのが、こちら。

パトリック・ヒューズ 『水の都』
右から左へ、左から右へ。
こうやって平面で観ると分からないが、実物を前にすると、自分が動くたびに風景も変わるのだ。
近くで観ているのに、何が起こっているのか分からない。
騙されるのが楽しくて仕方ない。
実は、この作品は立体で、四角錐の頂部をカットしたものが、底面を壁にして3つ並んでいる。
頂部の断面には建物と建物の間の小さな空間(一番奥まって見えるところ)が、四角錐の左右の側面には建物、上には空、下には水面がそれぞれ描かれている。
けれど、立体であることすら感じさせない。
これには参った。
自分でも作ってみたくてたまらない。

帰り道、思い出したのはナナフシ。
カメレオンよりだまし絵の才能があると思う。

【大阪】 高山右近ゆかりの地

2009年09月12日 21時00分00秒 | 旅 - 大阪府
5月31日(日)
当日の行程:(阪急・茨木市駅…阪急バス・阪急茨木市駅~千提寺口) → 【クルス山】 → 【キリシタン遺物史料館】 → (阪急バス・千提寺口~阪急茨木市駅…阪急・茨木市駅~高槻市駅) → 【高槻カトリック教会】 → 【野見神社】 → 【高山右近天主教会堂跡】 → 【高槻市立しろあと歴史館】 → 【高槻城跡の碑】 → 【城跡公園】 → 【高槻市立歴史民俗資料館(旧笹井家住宅)】 → (阪急・高槻市駅~烏丸駅…京都市地下鉄・四条駅~今出川駅) → 【相国寺】【相国寺金閣銀閣名宝展-パリからの帰国-(相国寺承天閣美術館)】【薩摩藩邸跡】【俵と龍のコレクション-屋号にちなんだ菓子意匠と茶道具-(京菓子資料館)】【藤井右門宅跡】【室町幕府跡】【山名宗全邸宅跡】

【高槻カトリック教会】

カトリック高槻教会(高山右近記念聖堂)は、高槻城主でキリシタン大名の高山右近臨終の地。


教会の敷地内には、高山右近像がある。


【野見神社】

宇多天皇の時代(887ー897年)に疫病が流行した時、ご神託に従って社殿を造り、牛頭天皇を祀ったのが野見神社の起源。
当時は牛頭天皇社といった。
高山右近が城主となった時、神殿は破壊、社領は没収された。
時の神職は御神体を石清水八幡宮に避難させたそうだ。
元和5年(1619)、城主となった松平紀伊守は、牛頭天皇社を新造し、社領を寄進し、再興する。


社殿


永井神社
永井神社は、野見神社の摂社。
寛政5年(1793)、9代藩主永井直進が初代藩主の直清を祭神として創建。
鳥居の奥の唐門(高槻市有形文化財)が美しい。


永井公碑


野見神社の御朱印


【高山右近天主教会堂跡】

「高山右近高槻天主教会堂跡
 戦国時代末期、高槻は近畿地方におけるキリスト教布教の中心地でした。
 宣教師ルイス・フロイスの記録によると、天正2年(1574)に高槻城主高山右近(ジュスト)と父親の飛騨守(ダリオ)は、古社の位置に池や庭園をともなった教会堂を建立し、この教会堂を拠点にキリスト教布教に力を注ぎました。
 高山右近の明石転封の後、しばらくして古社は元の場所に復帰したと伝えられていることから、当地周辺に教会堂があったと推定されています。
 高槻市教育委員会が平成10年(1998)におこなった高槻城三の丸跡発掘調査で、蓋に十字架を墨書した木棺を含むキリシタンの墓地が発見され、教会堂に付属した墓地の一端が明らかとなりました。(以下略)
  平成11年7月27日
      大阪府教育委員会
      高槻市教育委員会」(案内板より)
現在は、商工会議所になっている。


【高槻市立しろあと歴史館】

高槻城三の丸跡に建っている。
高槻城やその城下町に関する資料などがある。
三十石船の展示もあった。
「淀川三十石船船唄」が興味深い。

【高槻城跡の碑】

「高槻城が記録に登場するのは、14世紀前半、入江左近将監春則が居城としてからである。
 永禄12年(1569)には和田惟政が城主となったが、元亀4年(1573)、その子惟長と対立した高山飛騨守・右近父子が、和田氏を滅ぼして城主となった。キリシタンであった右近は、場内に天主教会堂を建てるなど布教に努め、天正9年(1581)には、イタリアの巡察師ヴァリニァーノを迎えて盛大な復活祭を催している。
 その後は豊臣氏、徳川氏の直轄となり、大坂夏の陣(1615)後、内藤・土岐・岡部など譜代大名が城主となった。そして慶安2年(1649)、永井直清が3万6千石をもって入城、明治時代までの13代約230年にわたり、永井氏の藩政が続いた。
 明治7年(1874)の鉄道敷設に伴って高槻城は破却され、今では城跡公園となり、市民の憩いの場となっている。(以下略)
  昭和63年6月   大阪府教育委員会  高槻市教育委員会」(案内板より)


【城跡公園】

城跡公園は、よく整備されている。


高山右近像
像の上に乗っているのは、本物の鳩。


工兵第四聯隊跡の碑
明治42年から昭和20年まで、ここには工兵第四聯隊が置かれていた。


【高槻市立歴史民俗資料館(旧笹井家住宅)】

城跡公園内にある。
江戸時代の商家・笹井家住宅を復元したもの。
当時の生活用品や農具が展示されている。


【兵庫】 赤穂 ③ 赤穂城など

2009年09月11日 21時00分00秒 | 旅 - 兵庫県
5月6日(水)
当日の行程:(車) → 【黒田與一郎・中島太郎兵衛顕彰之碑】 → 【平野國臣捕縛地】 → 【養父神社】 → 【大川藤蔵捕縛地】 → 【山口西念寺】 → 【山口護国神社】【生野銀山】【井筒屋】 → 【生野書院】 → 【延應寺】【息継ぎ井戸】 → 【花岳寺】【大石神社】 → 【大石良雄宅跡の長屋門】【赤穂城跡】 → 【赤穂市立歴史博物館】 

【赤穂城跡】
「赤穂城は、正保2年(1645)に浅野長直が常陸国笠間藩から入封し、近藤三郎左衛門正純に築城設計を命じ、慶安元年(1648)より13年に亘る歳月を費やし、寛文元年(1661)に完成した甲州流軍学の海岸平城である。
 本丸は、中央に藩主の屋敷(本丸御殿)、南東部には天守台、南に庭園などがあり、本丸門、刎橋門、厩口門の3門をもつ。天守台には天守閣は当初から築かれず、4箇所の櫓大のうち東北隅櫓台のみ隅櫓が築かれ、ほかは横矢枡形として配されていた。
  平成10年3月  赤穂市教育委員会」(案内板より)

本丸門


本丸門の上から
左手に天守台が見える。


大池泉


刎橋(はねばし)門跡


天守台


天守台から本丸門方面を望む


厩口(うまやぐち)門跡


東北隅櫓台


二の丸門跡
「ここは二の丸門のあった場所である。
 浅野長直に仕えていた軍学者山鹿素行が承応二年に赤穂へ来て、虎口の縄張りの一部を変更したことで知られている。
 赤穂城の二の丸の面積は一万七、二五九坪あり、二の丸門は櫓門で、口幅三間一歩、高さ二間、建坪九坪の大きさであった。
 また、文久二年(一八六二年)十二月九日に、赤穂藩主森家の国家老主税が、藩政に対して意見の異なる藩士たちに暗殺されたのがこの付近である。いわゆる『文久事件』である。この事件は、明治四年(一八七一年)二月の、日本最後の仇討ち『高野(こうや)の仇討ち』(和歌山県高野山)の導火線ともなった。
 ここに置かれている半畳くらいの二つの大きな石は、小石を持って叩くと『かんかん』という音をたてることから、誰言うとなく『かんかん石』と呼ばれている。
   赤穂義士会」(案内板より)


山鹿素行の像


【赤穂市立歴史博物館】

赤穂市立歴史博物館は、赤穂城米蔵跡に建てられている。


裏に回ると、土蔵風な建物になっている。
赤穂の塩、赤穂城や赤穂義士について展示されている。
城下町に上水道が整備されていたことには驚き、またそのしくみは興味深かった。