9月19日(土)
当日の行程:【司馬遼太郎『大阪城公園駅』陶板レリーフ(JR大阪城公園駅)】 → (JR大阪城公園駅~鶴橋駅…近鉄・鶴橋駅~信貴山口駅) → 【高安山】 → (近鉄西信貴ケーブル・高安山駅~信貴山口駅…近鉄・信貴山口駅~大阪上本町駅…タクシー) → 【兵部大輔大村益次郎卿殉難報國之碑】
近鉄・信貴山口駅(11:35)
高安山は、大阪府と奈良県の境に位置する(三角点は大阪府)。
標高488メートル。
いつもより遅めの出発。
信貴山口駅がスタート地点。
信貴山口から、法蔵寺の前を通って登山口に向かう。
目の前には、高安山が見えている。
道の勾配はかなり急で、登山口に着くまでにかなりくたびれてしまった。
登山口入口(おお道)(11:48)
おお道を通るルートで登る。
登山口入口には、「イノブタに注意」という看板が立っている。
道は、つづら折りではなく、山の斜面に沿って山頂までのびていて、かなり険しい。
開運橋(12:23)
細く急な道を登っていくと、突然、開運橋が見える。
橋の下をくぐって、ぐるっと回り、今度はこの橋を渡る。
高安山気象レーダー観測所(12:35)
橋からほどなく、高安山気象レーダー観測所に着く。
観測所の前には、高安山城跡の碑が建っている。
高安山城跡の碑
「西暦六六七年天智天皇が対馬国金田城、讃岐国屋島城とともに築造された古代の山城、白村江の戦後、百済領に進出した唐の勢力の侵攻に備えたもの。
当時畿内の田の税である籾と塩を倉庫に貯蔵した。城域は高安山から信貴山にかけての山地に広がる。
大阪府側の急ながけは自然の防塁、高安山頂は高安烽跡、奈良県側の緩傾斜地には『高安城を探る会』によって昭和五十三年四月倉庫跡の礎石群が発見されている。 八尾市教育委員会」(碑文)
観測所から更に進むと、左手に小高い茂みが現れる。
写真は、振り返って撮ったものなので、観測所方面から見ると、左右は逆。
この茂みの中に、三角点がある。
登り口がなくて戸惑ったが、なんとかよじ登る。
三角点(12:43)
もとの道を「高安城倉庫跡」の標識に従って更に進む。
舗装された大きな道路を渡り、車止めのゲートを超え、山道に入る。
この道をまっすぐ行くと、信貴山に至るようだが、今日は倉庫跡まで行って引き返すことにした。
高安城倉庫跡の碑(13:04)
倉庫創造図(案内板より)
倉庫礎石
「高安城址倉庫礎石石群
昭和五三年(一九七八)発見
奈良県平群町久安寺字金ヤ塚 奈良時代前期
西暦六六〇年、唐と新羅は連合して百済を攻め滅ぼした。救援を求められた斉明天皇や皇太子中大兄皇子は九州へ向かったが、天皇は九州で急死、百済へ向かった日本の水軍も白村江の戦いで唐の水軍に完敗した。
この緊迫した状況のもと、天智天皇は六六七年、近江大津宮に遷都、そのいっぽう、ここ高安山に高安城を築いた。対馬の金田城、九州大宰府を守る天野城や基肄(きい)城、瀬戸内の屋島城などと並ぶ日本防衛のための大規模な古代山城である。
この高安城を一三〇〇年たった今、高安城を探る会が倉庫跡礎石六棟分を発見、城の所在地を確認した。
高安城には築城後、畿内の田税である穀と塩を蓄え、非常時に備えたが、六七二年の壬申の乱で倉庫は炎上、その後天武・持統天皇の時代に修築され、文武天皇の七〇一年に廃城となったと『日本書紀』や『続日本紀』に見える。
この倉庫跡は六棟の内2号棟で、橿原考古学研究所が昭和五七年三月に発掘した。この時、礎石の下から平城京跡で発見されているものと同じ暗文入りの盤(大皿)や杯が多数出土した、この土器の年代から、これらの礎石は奈良時代前期、七二〇~七三〇年代のものと判明した。3号棟も昭和五八年三月に発掘され、同時期と判明した。ただ、ここでは礎石を取り巻く形に掘立柱列がめぐっているのが発見された。
平成八年三月 高安城を探る会」(案内板より)
道を戻って、高安山駅へ。(13:24)
帰りはケーブルカーで。
トラの絵がかわいい。
信貴山のトラは、聖徳太子が寅の年の寅の日の寅の刻に、寅と共に現れた毘沙門天を感得し、それを祀ったという言い伝えに由来するそうだ。
当日の歩数:17,823歩
当日の行程:【司馬遼太郎『大阪城公園駅』陶板レリーフ(JR大阪城公園駅)】 → (JR大阪城公園駅~鶴橋駅…近鉄・鶴橋駅~信貴山口駅) → 【高安山】 → (近鉄西信貴ケーブル・高安山駅~信貴山口駅…近鉄・信貴山口駅~大阪上本町駅…タクシー) → 【兵部大輔大村益次郎卿殉難報國之碑】
近鉄・信貴山口駅(11:35)
高安山は、大阪府と奈良県の境に位置する(三角点は大阪府)。
標高488メートル。
いつもより遅めの出発。
信貴山口駅がスタート地点。
信貴山口から、法蔵寺の前を通って登山口に向かう。
目の前には、高安山が見えている。
道の勾配はかなり急で、登山口に着くまでにかなりくたびれてしまった。
登山口入口(おお道)(11:48)
おお道を通るルートで登る。
登山口入口には、「イノブタに注意」という看板が立っている。
道は、つづら折りではなく、山の斜面に沿って山頂までのびていて、かなり険しい。
開運橋(12:23)
細く急な道を登っていくと、突然、開運橋が見える。
橋の下をくぐって、ぐるっと回り、今度はこの橋を渡る。
高安山気象レーダー観測所(12:35)
橋からほどなく、高安山気象レーダー観測所に着く。
観測所の前には、高安山城跡の碑が建っている。
高安山城跡の碑
「西暦六六七年天智天皇が対馬国金田城、讃岐国屋島城とともに築造された古代の山城、白村江の戦後、百済領に進出した唐の勢力の侵攻に備えたもの。
当時畿内の田の税である籾と塩を倉庫に貯蔵した。城域は高安山から信貴山にかけての山地に広がる。
大阪府側の急ながけは自然の防塁、高安山頂は高安烽跡、奈良県側の緩傾斜地には『高安城を探る会』によって昭和五十三年四月倉庫跡の礎石群が発見されている。 八尾市教育委員会」(碑文)
観測所から更に進むと、左手に小高い茂みが現れる。
写真は、振り返って撮ったものなので、観測所方面から見ると、左右は逆。
この茂みの中に、三角点がある。
登り口がなくて戸惑ったが、なんとかよじ登る。
三角点(12:43)
もとの道を「高安城倉庫跡」の標識に従って更に進む。
舗装された大きな道路を渡り、車止めのゲートを超え、山道に入る。
この道をまっすぐ行くと、信貴山に至るようだが、今日は倉庫跡まで行って引き返すことにした。
高安城倉庫跡の碑(13:04)
倉庫創造図(案内板より)
倉庫礎石
「高安城址倉庫礎石石群
昭和五三年(一九七八)発見
奈良県平群町久安寺字金ヤ塚 奈良時代前期
西暦六六〇年、唐と新羅は連合して百済を攻め滅ぼした。救援を求められた斉明天皇や皇太子中大兄皇子は九州へ向かったが、天皇は九州で急死、百済へ向かった日本の水軍も白村江の戦いで唐の水軍に完敗した。
この緊迫した状況のもと、天智天皇は六六七年、近江大津宮に遷都、そのいっぽう、ここ高安山に高安城を築いた。対馬の金田城、九州大宰府を守る天野城や基肄(きい)城、瀬戸内の屋島城などと並ぶ日本防衛のための大規模な古代山城である。
この高安城を一三〇〇年たった今、高安城を探る会が倉庫跡礎石六棟分を発見、城の所在地を確認した。
高安城には築城後、畿内の田税である穀と塩を蓄え、非常時に備えたが、六七二年の壬申の乱で倉庫は炎上、その後天武・持統天皇の時代に修築され、文武天皇の七〇一年に廃城となったと『日本書紀』や『続日本紀』に見える。
この倉庫跡は六棟の内2号棟で、橿原考古学研究所が昭和五七年三月に発掘した。この時、礎石の下から平城京跡で発見されているものと同じ暗文入りの盤(大皿)や杯が多数出土した、この土器の年代から、これらの礎石は奈良時代前期、七二〇~七三〇年代のものと判明した。3号棟も昭和五八年三月に発掘され、同時期と判明した。ただ、ここでは礎石を取り巻く形に掘立柱列がめぐっているのが発見された。
平成八年三月 高安城を探る会」(案内板より)
道を戻って、高安山駅へ。(13:24)
帰りはケーブルカーで。
トラの絵がかわいい。
信貴山のトラは、聖徳太子が寅の年の寅の日の寅の刻に、寅と共に現れた毘沙門天を感得し、それを祀ったという言い伝えに由来するそうだ。
当日の歩数:17,823歩