9月21日(月)
当日の行程:(車) → 【竹田城】 → 【出石】 → 【英賀】
歴史小説を読んでいて、土地勘があるのとないのとでは、面白みの度合いが全く違ってくると思う。
手もとに、『司馬作品と戦国フィールドミュージアム』という地図がある。
司馬遼太郎記念館で購入したもので、関西では、これをたよりにあちこちを旅した。
今思えば、夢のような週末だった。
最後に残った場所が、英賀だった。
出かける前の下調べは、たいてい私がする。
いつものようにカーナビに入れる住所や電話番号のリストを持って出たのだが、車の中で、夫との会話がかみ合わない。
しきりに「城」という私と、「海」という夫。
私は、英賀といえば「英賀城」だと思っていたが、夫は「英賀の浦」に行きたいと思っていたらしい。
なるほど、『司馬作品と戦国フィールドミュージアム』にはこう書いてある。
「英賀の浦『播磨灘物語』天正4年(1576)年 毛利軍がこの浦に上陸、黒田官兵衛の姫路城を圧迫」
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/26/e7/6e6db37b4132492c2506faa357eb2b41.jpg)
市立英賀保小学校の隣の清水公園の地図を参考に、暗くなるまで数ヶ所を回る。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/52/d2/159ca5114d09c71a3c4dd58a342dfe7b.jpg)
芝の口之跡
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/08/b4/507752e38b91936be80e37bcd40d51cb.jpg)
英賀城本丸之跡
「英賀城(あがじょう)
岩繋城(いわつぎじょう)ともいう。南は海、西は夢前川、東は水尾川に面し、北は湿地帯で、守るのに大変つごうのよい城であった。
鎌倉時代には、とりでが造られていたが、室町時代になると播磨の守護大名であった赤松氏の一族が守った。しかし嘉吉の乱(一四四一年)によって勢力を失った後、三木氏が城主となって城をさらに整えた。
天正八年(一五八〇年)秀吉に滅ぼされるまで約一四〇年間三木氏は、的形から室津の間を中心にその周辺を支配し一大勢力を誇っていた。城内には本丸・二の丸をはじめ、一族がそれぞれ大きな屋敷を構えた。また英賀御坊をはじめ多くの真宗寺院、商家や住宅が建てられ、交易の盛んな港のある城下町(四十九町・約九百軒)として大いににぎわった。
昭和十三年ごろまでは図に示したように土塁が残っていたが、今では英賀神社と英賀薬師(城主の墓所・法寿寺跡)の北側だけに残っている。また英賀御坊跡は昭和十三年ごろ夢前川の付替工事により消滅した。その時、瓦・礎石や日常使用していた器などが出土した。」(案内板より)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/63/4c/b8052c95ba5291045980607b1f06fb2d.jpg)
英賀城本丸跡近くの川
毛利水軍5000人が上陸したのは、どこかこのあたりに違いないと思い、写真を撮ってみた。
帰宅後調べたところ、英賀の浦は、この川の西にある田井ヶ浜のことのようだ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/68/85/47884731764ae7fdf39c48a263effd80.jpg)
英賀城跡公園にある野中口之跡の碑
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0f/cd/69984722e77e02f1a01eb8075e68f277.jpg)
英賀城跡公園内に復元された石塁
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/75/d5/03f09e3e352f46dc8d5825584720525f.jpg)
英賀神社は、英賀城跡公園の隣
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/72/2a/58829023d0786992ac3f92988969e57a.jpg)
本殿
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/00/ea/564c523f60f552920304a1713bcc0b1c.jpg)
英賀神社の境内には、英賀城の土塁が残っている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2a/a9/01894121161a5ab9b9d47f467d11ff95.jpg)
本殿のすぐそばに建てられている播磨灘物語の碑
連休中で、帰りの道はひどい渋滞。
用事がある夫は姫路駅から電車。
ひとりで運転をしながら、あれやこれやと思いを巡らす。
再びこのあたりを車で走ることはあるのだろうか。
きっとこの日を懐かしく思うことだろう。
当日の行程:(車) → 【竹田城】 → 【出石】 → 【英賀】
歴史小説を読んでいて、土地勘があるのとないのとでは、面白みの度合いが全く違ってくると思う。
手もとに、『司馬作品と戦国フィールドミュージアム』という地図がある。
司馬遼太郎記念館で購入したもので、関西では、これをたよりにあちこちを旅した。
今思えば、夢のような週末だった。
最後に残った場所が、英賀だった。
出かける前の下調べは、たいてい私がする。
いつものようにカーナビに入れる住所や電話番号のリストを持って出たのだが、車の中で、夫との会話がかみ合わない。
しきりに「城」という私と、「海」という夫。
私は、英賀といえば「英賀城」だと思っていたが、夫は「英賀の浦」に行きたいと思っていたらしい。
なるほど、『司馬作品と戦国フィールドミュージアム』にはこう書いてある。
「英賀の浦『播磨灘物語』天正4年(1576)年 毛利軍がこの浦に上陸、黒田官兵衛の姫路城を圧迫」
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/26/e7/6e6db37b4132492c2506faa357eb2b41.jpg)
市立英賀保小学校の隣の清水公園の地図を参考に、暗くなるまで数ヶ所を回る。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/52/d2/159ca5114d09c71a3c4dd58a342dfe7b.jpg)
芝の口之跡
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/08/b4/507752e38b91936be80e37bcd40d51cb.jpg)
英賀城本丸之跡
「英賀城(あがじょう)
岩繋城(いわつぎじょう)ともいう。南は海、西は夢前川、東は水尾川に面し、北は湿地帯で、守るのに大変つごうのよい城であった。
鎌倉時代には、とりでが造られていたが、室町時代になると播磨の守護大名であった赤松氏の一族が守った。しかし嘉吉の乱(一四四一年)によって勢力を失った後、三木氏が城主となって城をさらに整えた。
天正八年(一五八〇年)秀吉に滅ぼされるまで約一四〇年間三木氏は、的形から室津の間を中心にその周辺を支配し一大勢力を誇っていた。城内には本丸・二の丸をはじめ、一族がそれぞれ大きな屋敷を構えた。また英賀御坊をはじめ多くの真宗寺院、商家や住宅が建てられ、交易の盛んな港のある城下町(四十九町・約九百軒)として大いににぎわった。
昭和十三年ごろまでは図に示したように土塁が残っていたが、今では英賀神社と英賀薬師(城主の墓所・法寿寺跡)の北側だけに残っている。また英賀御坊跡は昭和十三年ごろ夢前川の付替工事により消滅した。その時、瓦・礎石や日常使用していた器などが出土した。」(案内板より)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/63/4c/b8052c95ba5291045980607b1f06fb2d.jpg)
英賀城本丸跡近くの川
毛利水軍5000人が上陸したのは、どこかこのあたりに違いないと思い、写真を撮ってみた。
帰宅後調べたところ、英賀の浦は、この川の西にある田井ヶ浜のことのようだ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/68/85/47884731764ae7fdf39c48a263effd80.jpg)
英賀城跡公園にある野中口之跡の碑
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0f/cd/69984722e77e02f1a01eb8075e68f277.jpg)
英賀城跡公園内に復元された石塁
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/75/d5/03f09e3e352f46dc8d5825584720525f.jpg)
英賀神社は、英賀城跡公園の隣
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/72/2a/58829023d0786992ac3f92988969e57a.jpg)
本殿
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/00/ea/564c523f60f552920304a1713bcc0b1c.jpg)
英賀神社の境内には、英賀城の土塁が残っている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2a/a9/01894121161a5ab9b9d47f467d11ff95.jpg)
本殿のすぐそばに建てられている播磨灘物語の碑
連休中で、帰りの道はひどい渋滞。
用事がある夫は姫路駅から電車。
ひとりで運転をしながら、あれやこれやと思いを巡らす。
再びこのあたりを車で走ることはあるのだろうか。
きっとこの日を懐かしく思うことだろう。