大倉草紙

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【京都】 壬生の新選組ゆかりの地

2009年09月29日 21時00分00秒 | 旅 - 京都府
6月27日(土)
当日の行程:(JR嵐山駅~亀岡駅) → 【保津川下り】 → (阪急・嵯峨嵐山駅~松尾駅) → 【松尾大社磐座登拝】 → (阪急・松尾駅~大宮駅) → 【光縁寺】 → 【旧前川邸】 → 【八木邸】 → 【壬生寺】

【光縁寺】

光縁寺の創建は、慶長18年(1613)頃。
智恩院の末寺である。


寺紋は、丸に右離れ三つ葉立ち葵。
新選組の総長・山南敬助の家紋と同じで、このことから交流が始まったといわれる。


写真の左から、
松原忠司、櫻井勇之進、小川信太郎、市橋鎌吉、田内知ら12名の合同墓、
大石造酒蔵の墓、
山南敬助ら5名の合同墓、
沖田氏縁者の墓。


沖田氏縁者の戒名は「眞明院照誉貞相大姉」、
沖田総司(お墓は元麻布の専称寺)の戒名は「賢光院仁誉明道居士」、
二人の戒名が似ていることから、光縁寺に葬られている女性は、沖田総司の内縁の妻であるといわれている。


【旧前川邸】

ここは、文久3年(1863)から二年間、新撰組の屯所であった。
また、新選組発祥の地でもある。
隊士たちは、前川邸を中心に、八木邸、南部邸、新徳寺に分宿していた。

池田や事件の発端になった枡屋喜右衛門こと古高俊太郎が取り調べられた蔵、近藤勇が落書きした雨戸、山南敬助が切腹した部屋などが残っているという。
公開されていないので、内部は見ることができない。


前川邸の一部は、現在、新選組関連のグッズを売るお店になっている。


【八木邸】

「新選組発祥の地跡
 ここは、幕末の頃、京都の浪士取締りや治安維持に活躍した新選組の宿所があったところである。
 文久三年(一八六三)春、将軍家茂の上洛警護のため、清河八郎の率いる浪士組が入洛したが、その宿舎の一つとして使われたのが、当時壬生郷の郷士宅であった当屋敷であった。浪士組は、在京二十日余りで再び江戸に戻ったが、当所に分宿していた、芹沢鴨、新見錦、近藤勇、土方歳三らは、引き続き京都の警備のため残留し、京都守護職松平容保の支配に属して『新選組』と名のった。
 当初、新選組は、当屋敷に『新選組宿所』の標札を掲げ、隊員はわずか十数名で発足したが、次第に隊員が増加し、付近の農家にも分宿した。以後、市中の治安維持に努め、元治元年(一八六四)の池田屋事件で一躍その名を轟かせた。
 翌年の慶応元年(一八六五)四月、屯所は西本願寺に移された。  京都市」(案内板より)


隊士腰掛の石
かつては、本屋敷と表屋敷の間、新選組の道場あたりにあった石で、隊士たちもこの石に腰をおろして休んでいたという。


「八木家住宅
 八木家は、壬生村きっての旧家で、かつて壬生郷士の長老をつとめていた。また、幕末には新選組の近藤勇、土方歳三らの宿所となり、旧壬生屯所として知られている。
 建物は、長屋門が東に開き、その奥に主屋が南面して建つ。当家に残る普請願から長屋門は文化元年(一八〇四)、主屋は文化六年の造営と知られる。
 主屋は、西端に土間を奥まで通し、土間に沿って居室を三室ずつ二列に配する。入口は土間部分に開くほか、東南隅に式台を備えた本玄関を配し、その北に仏間、奥座敷を一列に並べて格式ある構成をとっている。長屋門の外観は、腰に下見板を張り、与力窓や出格子窓を開くなど、昔のおもかげをよく残している。(以下略)  京都市」(案内板より)

内部は撮影禁止。
ガイドによる解説を受けながら見学する。
芹沢鴨、平山五郎らが斬殺された時の刀傷が鴨居に残っている。
そばに、芹沢鴨が躓いたと伝わる文机もあった。


見学後、隣接している「京都鶴屋・鶴寿庵」で、屯所餅と冷たいお抹茶をいただく。


新徳寺
八木邸の斜め向かいに、「新徳禅寺」がある。
こちらが、かつて新選組の本陣だった新徳寺。
非公開。


【壬生寺】

壬生寺は、正暦2年(991)、快賢僧都によって創建された。
新選組ゆかりの寺として知られている。


阿弥陀堂
このお堂の奥に、壬生塚がある。


『あゝ新撰組』の歌碑
三橋美智也のヒット曲なのだそうだ。
100円を入れると歌が流れる仕組みになっている。


新選組隊士慰霊塔


新選組顕彰碑


近藤勇の像


近藤勇遺髪塔


芹沢鴨と平山五郎の墓


阿比原栄三郎、田中伊織、野口健司、奥沢栄助、安藤早太郎、新田革左右衛門、葛山武八郎の合同墓


河合耆三郎の墓


本堂


千体仏塔


壬生寺の御朱印