2月1日(日)
当日の行程:(車) → 【博労淵】 → 【野田城跡】 → 【木邨長門守重成表忠碑】 → 【備前島】 → 【大長寺】 → 【若宮八幡大神宮】 → 【鴫野古戦場跡】 → 【大坂城(秀頼・淀殿ら自刃の地)(淀君並殉死者三十二名忠霊塔)】 → 【本町橋】 → 【三光神社】 → 【真田丸跡あたり】 → 【史蹟岡山又御勝山】 → 【増福寺】 → 【安居神社】 → 【一心寺】 → 【四天王寺】 → 【今宮戎神社】 → 【志紀長吉神社】 → 【真田幸村休憩所跡】 → 【全興寺】 → 【大念佛寺】 → 【杭全神社】 → 【安藤正次墓所】 → 【樋ノ尻口地蔵】
仁王門
一心寺は、文治元年(1185)、法然上人が四天王寺の管長・慈鎮和尚(慈円)の招きでこの地を訪れたのがはじまり。
大坂の陣では、徳川家康の陣が一心寺に置かれていた。
仁王門は、平成9(1997)年に完成したもの。
仁王像は、素手で裸形。
武器を持たず悪に立ち向かい、人々の邪心を戒める姿を表しているのだという。
本堂
納骨堂
一心寺では年中無休で施餓鬼法要を行い、宗派を問わず納骨を受け入れているためか、境内は参詣者が驚くほどに多い。
とくに、納骨堂のあたりは混み合っていた。
開山堂
本多出雲守忠朝の墓
大坂夏の陣の天王寺・岡山の戦いで討死した本多忠朝の墓がある。
大阪冬の陣のとき、お酒を飲んでいたために敗退した本多忠朝は、家康に叱責されたという。
そこで、夏の陣では汚名を晴らすために奮戦戦死したといわれる。
死に臨んで酒弊を悔い、「戒むべきは酒なり。今後わが墓に詣でる者は、必ず酒嫌いとなるべし」と言い残したことから「酒封じの神」となり、禁酒を誓う人が墓を詣でるようになったそうだ。
一心寺の御朱印
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仁王門
一心寺は、文治元年(1185)、法然上人が四天王寺の管長・慈鎮和尚(慈円)の招きでこの地を訪れたのがはじまり。
大坂の陣では、徳川家康の陣が一心寺に置かれていた。
仁王門は、平成9(1997)年に完成したもの。
仁王像は、素手で裸形。
武器を持たず悪に立ち向かい、人々の邪心を戒める姿を表しているのだという。
本堂
納骨堂
一心寺では年中無休で施餓鬼法要を行い、宗派を問わず納骨を受け入れているためか、境内は参詣者が驚くほどに多い。
とくに、納骨堂のあたりは混み合っていた。
開山堂
本多出雲守忠朝の墓
大坂夏の陣の天王寺・岡山の戦いで討死した本多忠朝の墓がある。
大阪冬の陣のとき、お酒を飲んでいたために敗退した本多忠朝は、家康に叱責されたという。
そこで、夏の陣では汚名を晴らすために奮戦戦死したといわれる。
死に臨んで酒弊を悔い、「戒むべきは酒なり。今後わが墓に詣でる者は、必ず酒嫌いとなるべし」と言い残したことから「酒封じの神」となり、禁酒を誓う人が墓を詣でるようになったそうだ。
一心寺の御朱印