2009年2月1日(日)
(大阪市平野区平野東2丁目・平野公園内)
「戦国時代の平野郷は、俗に『環濠集落』と呼ばれる形態をもち、周囲には自治と自衛のため濠がめぐらされていた。
濠のあいだには大小十三の木戸があり、八尾・古市・堺などへの道路が放射状にのびていた。
樋之尻口門は、八尾久宝寺につながるもので木戸としては大きい方であった。門のそばにはいずれも地蔵堂や遠見櫓、門番屋敷があったといわれるが、当公園一角に現存する地蔵堂は当時のなごりである。郷から外に出るときは一身の加護を祈り、外からの変事はこの入口で退散させようとした祈願のあらわれであろう。
少し東方の平野川に『樋之尻橋』の名がとどめられている。
平野区役所」(案内板より)
平野地蔵尊
大坂夏の陣で、徳川家康が樋ノ尻口を通ると予測した真田幸村は、この地蔵堂内に地雷を仕掛けたという。
大坂の陣ゆかりの地の記録はこちら。
(大阪市平野区平野東2丁目・平野公園内)
「戦国時代の平野郷は、俗に『環濠集落』と呼ばれる形態をもち、周囲には自治と自衛のため濠がめぐらされていた。
濠のあいだには大小十三の木戸があり、八尾・古市・堺などへの道路が放射状にのびていた。
樋之尻口門は、八尾久宝寺につながるもので木戸としては大きい方であった。門のそばにはいずれも地蔵堂や遠見櫓、門番屋敷があったといわれるが、当公園一角に現存する地蔵堂は当時のなごりである。郷から外に出るときは一身の加護を祈り、外からの変事はこの入口で退散させようとした祈願のあらわれであろう。
少し東方の平野川に『樋之尻橋』の名がとどめられている。
平野区役所」(案内板より)
平野地蔵尊
大坂夏の陣で、徳川家康が樋ノ尻口を通ると予測した真田幸村は、この地蔵堂内に地雷を仕掛けたという。
大坂の陣ゆかりの地の記録はこちら。