大倉草紙

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【大阪】 大坂の陣ゆかりの地⑲ 大念佛寺

2009年06月26日 21時00分00秒 | 旅 - 大阪府
2月1日(日)
当日の行程:(車) → 【博労淵】 → 【野田城跡】 → 【木邨長門守重成表忠碑】 → 【備前島】 → 【大長寺】 → 【若宮八幡大神宮】 → 【鴫野古戦場跡】【大坂城(秀頼・淀殿ら自刃の地)(淀君並殉死者三十二名忠霊塔)】 → 【本町橋】 → 【三光神社】 → 【真田丸跡あたり】 → 【史蹟岡山又御勝山】 → 【増福寺】【安居神社】【一心寺】【四天王寺】【今宮戎神社】【志紀長吉神社】 → 【真田幸村休憩所跡】【全興寺】【大念佛寺】【杭全神社】【安藤正次墓所】 → 【樋ノ尻口地蔵】 


大念佛寺は、大治2年(1127年)に良忍上人が鳥羽上皇の勅願によって開創した。
日本最初の念仏道場といわれる。
また、徳川家康公は大坂の陣の際、第三十六世道和上人に帰依し、治国の要を教わったという。


本堂
昭和13年(1938)再建。
本尊・十一尊天得阿弥陀如来画像が安置されている。


円通殿(観音堂)
元禄6年(1693)建立。
本尊は木造聖観音立像で、伝教大師の手によるものと伝わる。


地蔵堂
弘化元年(1844)再建。


鐘楼
文化3年(1806)に改築、鐘はその時期に改鋳されたもの。
朝、昼、夕(入相)に鐘が撞かれる。


霊明殿
「正門、回廊、奉安所、修法堂から成る。
創建は保元元年(一一五六)、第三世明應上人のときと伝える。
 良忍上人の念仏勧進を助け、自らも融通念仏に深く帰依された鳥羽上皇の零牌と御真影を祀るために建てられた。その後、寛永年中(一六二四~一六四三)、第三十八世法覚上人は徳川家康公を合祀するため、権現造りの社殿を再建した。それ以後ここを『権現さま』『お宮』と称した。家康公は大坂冬の陣(慶長十九年 一六一四)、夏の陣(元和元年 一六一五)において、第三十六世道和上人に帰依し、治国の要を教わり、国家安穏の祈祷を乞い、日課念仏を誓約した。さらに両度の戦役で被災した大念佛寺を、天海僧正立ち会いのもと、青銅五百貫文を弁済し、庫裡を再建し、御回在念仏勧進の許可を与えるなど融通念仏の弘通に貢献した。
 今日まで修理を繰り返し、正門と回廊は江戸時代の遺構を残しているが、奉安所と修法堂は明治二十五年頃火災で焼失し、その後、北花田、澤池正信氏と柄谷善弘氏の寄進により昭和五年に旧形のまま建て替えられた。平成二十年、大修復を施し、新たに後小松天皇を合祀するようになった。後小松天皇は融通念仏勧進帳の序文(重文)をしたため、広く念仏を弘められた方である。」
(案内板より)


一茶句碑
「春風や巡礼共がねり供養」
寛政7年(1795)、小林一茶が大念佛寺を詣でた際に詠んだ句。


大念佛寺の御朱印