6月22日(日)
当日の行程:(JR長浜駅) → 【長浜城(長浜市長浜城歴史博物館)】 → (JR長浜駅~彦根駅) …(車) → 【彦根城】 → 【安土城跡と見寺】 → 【園城寺(三井寺)】 → 【近江大津宮錦織遺跡】 → 【露国皇太子遭難之地】
天智天皇の崩御後、大友皇子(天智天皇の子、弘文天皇)と大海人皇子(天智天皇の弟、天武天皇)の皇位継承争い、いわゆる壬申の乱が勃発する。
壬申の乱に敗れた大友皇子の皇子である大友与多王は、父親の霊を弔うために「田園城邑」を投じてお寺を創建した。
そして、天武天皇から「園城」という勅額を賜わり、「長等山園城寺」と称したのが園城寺の始まりとされている。
仁王門(重要文化財)
宝徳4年(1452)、甲賀郡石部町の常楽寺に建てられたのち、秀吉によって伏見城へ移され、更に慶長6年(1601)に、家康の寄進により園城寺へ移築されたもの。
釈迦堂(重要文化財)
釈迦堂の御朱印
室町初期の建立とされる。
本尊は、清涼寺式釈迦如来像。
「園城寺境内古図」には、現在、釈迦堂が建っている位置に食堂が描かれていることから、当初は食堂として移築されたものともいわれる。
金堂(国宝)
「国宝園城寺金堂保存修理工事」のため、金堂の周りはシートで覆われていて、金堂の中へ入ることはできても、外側から建物を見ることはできなかった。
現在の金堂は、慶長4年(1599)豊臣秀吉の北政所によって再建されたもの。
本尊・弥勒菩薩像は秘仏。
これは、天智天皇が信仰していた霊像だといわれる。
金堂の御朱印
三井の晩鐘 堂前灯籠
鐘楼(重要文化財)は、慶長7年(1602)に再建されたもの。
梵鐘は近江八景のひとつ、「三井の晩鐘」で知られている。
また、「日本の音風景百選」にも認定されているそうだ。
平等院、神護寺の梵鐘と共に日本三銘鐘にも数えられる。
さて、その音は……1撞き300円で聞くことができる。
ところで、近江八景って? と思って調べてみると、「石山の秋月」「勢多(瀬田)の夕照」「粟津の晴嵐」「矢(八)橋の帰帆」「三井の晩鐘」「唐崎の夜雨」「堅田の落雁」「比良の暮雪」らしい。
金堂前には灯籠が建っている。
大化の改新で蘇我氏を滅ぼした天智天皇が、その罪障消滅のため、自らの薬指を切り、この灯籠の台座下に納めたと伝えられる。
閼伽井屋(重要文化財)の彫刻
三井の霊泉
金堂の西側に閼伽井屋が建っている。
慶長5年(1600)の建立。
工事中の金堂の足場とシートの陰になっているせいか、暗く、よく見えなかった。
建物の正面上部に施された龍の彫刻は、左甚五郎作。
閼伽井屋の中には、天智、天武、持統の三天皇が産湯に用いたとされる霊泉が湧いている。
このことから「御井(みい)の寺」と呼ばれるようになったのが「三井寺」という名の由来だという。
弁慶の引き摺り鐘(重要文化財) 弁慶の汁鍋
霊鐘堂には、弁慶の引き摺り鐘と弁慶の汁鍋が納められている。
弁慶の引き摺り鐘は、奈良時代の梵鐘で、田原藤太秀郷が三上山のムカデ退治のお礼に琵琶湖の龍神より授けられたものと伝わる。
また、延暦寺との争いで、弁慶がこの鐘を比叡山へ引き摺り上げて撞いたところ、 関西弁で「帰りたい」を意味する「イノー・イノー」と響いたので、弁慶は怒って鐘を谷底へ投げ捨ててしまったという。
鐘には、弁慶が投げ捨てたときについたといわれる傷痕や破目が残っている。
弁慶の汁鍋は、弁慶の引き摺り鐘の隣に置かれている。
弁慶をはじめ、僧兵たちが汁を作って飲んだと伝えられる鍋。
かなり大きい。
一切経蔵(重要文化財)
八角輪蔵
一切経蔵は、慶長7年(1602)に毛利輝元により、国清寺(山口市)から移築されたもの。
一切経蔵の中には、八角輪蔵があり、ここに高麗版一切経が納められている。
一切経蔵の南側に、三重塔が見える。
大師堂、潅頂堂(かんじょうどう)、三重塔などがあるここ唐院は、開祖・智証大師円珍和尚の廟所であり、園城寺で最も神聖な場所とされる。
三重塔(重要文化財)
もとは比蘇寺(奈良県)にあった東塔を、秀吉が伏見城へ移築し、その後、慶長6年(1601)に家康によって寄進されたもの。
室町初期に建立されたものとされる。
潅頂堂(重要文化財)
寺流の密教を伝承する道場で、大師堂の拝殿としての役割を備えている。
村雲橋
唐院の四脚門を出て石段を下ると、村雲橋がある。
この橋には、次のような伝説があるそうだ。
開祖・智証大師円珍和尚がこの橋を渡っているとき、長安の青竜寺が焼けていると感知したので、閼伽水を撒くと、橋の下から村雲が湧き起こり、長安のほうへ飛び去った。
翌年、青竜寺から、鎮火のお礼の使者が来たという。
微妙寺
微妙寺の御朱印
村雲橋から南へ行くと、微妙寺がある。
微妙寺は、園城寺五別所のひとつ。
園城寺五別所は、延暦寺が比叡山内の堂塔のほかに五別所として寺院を置いたことに対抗して設けられた。
「常在寺」「水観寺」「尾蔵寺」「微妙寺」「近松寺」の5つである。
現存するのは近松寺のみ。
ここ微妙寺と後述する水観寺は園城寺内にお堂を移築したため、寺名が残っている。
微妙寺の本尊は十一面観音(重要文化財)、この像は、廃絶した尾蔵寺の本尊だったともいわれる。
湖国十一面観音霊場の第一番札所。
毘沙門堂(重要文化財)
毘沙門堂は、極彩色を施した唐様式の建造物。
元和2年(1616)の建立。
園城寺五別所のひとつである尾蔵寺にあったものを、明治42年(1909)に園城寺に移築したもの。
現地に置かれたのは、昭和31年(1956)だという。
毘沙門堂の前の石段を登ると、観音堂がある。
西国三十三所観音霊場の第十四番札所。
広場のような境内に、観音堂、観月舞台等が建っている。
観音堂
観音堂は、貞享3年(1686)に焼失し、元禄2年(1689)に再建された。
本尊・如意輪観音像(重要文化財)は秘仏で、33年ごとに開扉される。
観月舞台
観月舞台の傍らには、謡曲『三井寺』を解説する札が立っていた。
行方知らずになった我が子を探す女が、霊夢を得て三井寺へ来る。
中秋の名月の夜、鐘楼に登り、鐘を撞きながら功徳をうたい、子を求めて心乱れる母親を、寺僧と月見に来ていた我が子に見出され、共に故郷に帰ることが出来たという物語である。
ここ観音堂は、園城寺の境内のなかでも高台に位置している。
眺めが良く、空も近い。
観月舞台から観る月は、美しいのだろうな。
観音堂の前の景色
この写真を撮ったあと、すぐに雨が降ってきた。
お天気が悪いのが残念だが、観音堂の前からの景色はすばらしい。
琵琶湖が見える。
観音堂のてぬぐい 観音堂の御朱印
水観寺
水観寺の御朱印
観音堂から石段を下っていくと、水観寺がある。
園城寺の五別所のひとつ。
本尊は薬師如来像。
西国薬師霊場の第四十八番札所となっている。
護法善神堂
護法善神堂の柘榴の木
護法善神堂では、鬼子母神を祀っている。
お堂の前には、柘榴の木が植えられていた。
当日の行程:(JR長浜駅) → 【長浜城(長浜市長浜城歴史博物館)】 → (JR長浜駅~彦根駅) …(車) → 【彦根城】 → 【安土城跡と見寺】 → 【園城寺(三井寺)】 → 【近江大津宮錦織遺跡】 → 【露国皇太子遭難之地】
天智天皇の崩御後、大友皇子(天智天皇の子、弘文天皇)と大海人皇子(天智天皇の弟、天武天皇)の皇位継承争い、いわゆる壬申の乱が勃発する。
壬申の乱に敗れた大友皇子の皇子である大友与多王は、父親の霊を弔うために「田園城邑」を投じてお寺を創建した。
そして、天武天皇から「園城」という勅額を賜わり、「長等山園城寺」と称したのが園城寺の始まりとされている。
仁王門(重要文化財)
宝徳4年(1452)、甲賀郡石部町の常楽寺に建てられたのち、秀吉によって伏見城へ移され、更に慶長6年(1601)に、家康の寄進により園城寺へ移築されたもの。
釈迦堂(重要文化財)
釈迦堂の御朱印
室町初期の建立とされる。
本尊は、清涼寺式釈迦如来像。
「園城寺境内古図」には、現在、釈迦堂が建っている位置に食堂が描かれていることから、当初は食堂として移築されたものともいわれる。
金堂(国宝)
「国宝園城寺金堂保存修理工事」のため、金堂の周りはシートで覆われていて、金堂の中へ入ることはできても、外側から建物を見ることはできなかった。
現在の金堂は、慶長4年(1599)豊臣秀吉の北政所によって再建されたもの。
本尊・弥勒菩薩像は秘仏。
これは、天智天皇が信仰していた霊像だといわれる。
金堂の御朱印
三井の晩鐘 堂前灯籠
鐘楼(重要文化財)は、慶長7年(1602)に再建されたもの。
梵鐘は近江八景のひとつ、「三井の晩鐘」で知られている。
また、「日本の音風景百選」にも認定されているそうだ。
平等院、神護寺の梵鐘と共に日本三銘鐘にも数えられる。
さて、その音は……1撞き300円で聞くことができる。
ところで、近江八景って? と思って調べてみると、「石山の秋月」「勢多(瀬田)の夕照」「粟津の晴嵐」「矢(八)橋の帰帆」「三井の晩鐘」「唐崎の夜雨」「堅田の落雁」「比良の暮雪」らしい。
金堂前には灯籠が建っている。
大化の改新で蘇我氏を滅ぼした天智天皇が、その罪障消滅のため、自らの薬指を切り、この灯籠の台座下に納めたと伝えられる。
閼伽井屋(重要文化財)の彫刻
三井の霊泉
金堂の西側に閼伽井屋が建っている。
慶長5年(1600)の建立。
工事中の金堂の足場とシートの陰になっているせいか、暗く、よく見えなかった。
建物の正面上部に施された龍の彫刻は、左甚五郎作。
閼伽井屋の中には、天智、天武、持統の三天皇が産湯に用いたとされる霊泉が湧いている。
このことから「御井(みい)の寺」と呼ばれるようになったのが「三井寺」という名の由来だという。
弁慶の引き摺り鐘(重要文化財) 弁慶の汁鍋
霊鐘堂には、弁慶の引き摺り鐘と弁慶の汁鍋が納められている。
弁慶の引き摺り鐘は、奈良時代の梵鐘で、田原藤太秀郷が三上山のムカデ退治のお礼に琵琶湖の龍神より授けられたものと伝わる。
また、延暦寺との争いで、弁慶がこの鐘を比叡山へ引き摺り上げて撞いたところ、 関西弁で「帰りたい」を意味する「イノー・イノー」と響いたので、弁慶は怒って鐘を谷底へ投げ捨ててしまったという。
鐘には、弁慶が投げ捨てたときについたといわれる傷痕や破目が残っている。
弁慶の汁鍋は、弁慶の引き摺り鐘の隣に置かれている。
弁慶をはじめ、僧兵たちが汁を作って飲んだと伝えられる鍋。
かなり大きい。
一切経蔵(重要文化財)
八角輪蔵
一切経蔵は、慶長7年(1602)に毛利輝元により、国清寺(山口市)から移築されたもの。
一切経蔵の中には、八角輪蔵があり、ここに高麗版一切経が納められている。
一切経蔵の南側に、三重塔が見える。
大師堂、潅頂堂(かんじょうどう)、三重塔などがあるここ唐院は、開祖・智証大師円珍和尚の廟所であり、園城寺で最も神聖な場所とされる。
三重塔(重要文化財)
もとは比蘇寺(奈良県)にあった東塔を、秀吉が伏見城へ移築し、その後、慶長6年(1601)に家康によって寄進されたもの。
室町初期に建立されたものとされる。
潅頂堂(重要文化財)
寺流の密教を伝承する道場で、大師堂の拝殿としての役割を備えている。
村雲橋
唐院の四脚門を出て石段を下ると、村雲橋がある。
この橋には、次のような伝説があるそうだ。
開祖・智証大師円珍和尚がこの橋を渡っているとき、長安の青竜寺が焼けていると感知したので、閼伽水を撒くと、橋の下から村雲が湧き起こり、長安のほうへ飛び去った。
翌年、青竜寺から、鎮火のお礼の使者が来たという。
微妙寺
微妙寺の御朱印
村雲橋から南へ行くと、微妙寺がある。
微妙寺は、園城寺五別所のひとつ。
園城寺五別所は、延暦寺が比叡山内の堂塔のほかに五別所として寺院を置いたことに対抗して設けられた。
「常在寺」「水観寺」「尾蔵寺」「微妙寺」「近松寺」の5つである。
現存するのは近松寺のみ。
ここ微妙寺と後述する水観寺は園城寺内にお堂を移築したため、寺名が残っている。
微妙寺の本尊は十一面観音(重要文化財)、この像は、廃絶した尾蔵寺の本尊だったともいわれる。
湖国十一面観音霊場の第一番札所。
毘沙門堂(重要文化財)
毘沙門堂は、極彩色を施した唐様式の建造物。
元和2年(1616)の建立。
園城寺五別所のひとつである尾蔵寺にあったものを、明治42年(1909)に園城寺に移築したもの。
現地に置かれたのは、昭和31年(1956)だという。
毘沙門堂の前の石段を登ると、観音堂がある。
西国三十三所観音霊場の第十四番札所。
広場のような境内に、観音堂、観月舞台等が建っている。
観音堂
観音堂は、貞享3年(1686)に焼失し、元禄2年(1689)に再建された。
本尊・如意輪観音像(重要文化財)は秘仏で、33年ごとに開扉される。
観月舞台
観月舞台の傍らには、謡曲『三井寺』を解説する札が立っていた。
行方知らずになった我が子を探す女が、霊夢を得て三井寺へ来る。
中秋の名月の夜、鐘楼に登り、鐘を撞きながら功徳をうたい、子を求めて心乱れる母親を、寺僧と月見に来ていた我が子に見出され、共に故郷に帰ることが出来たという物語である。
ここ観音堂は、園城寺の境内のなかでも高台に位置している。
眺めが良く、空も近い。
観月舞台から観る月は、美しいのだろうな。
観音堂の前の景色
この写真を撮ったあと、すぐに雨が降ってきた。
お天気が悪いのが残念だが、観音堂の前からの景色はすばらしい。
琵琶湖が見える。
観音堂のてぬぐい 観音堂の御朱印
水観寺
水観寺の御朱印
観音堂から石段を下っていくと、水観寺がある。
園城寺の五別所のひとつ。
本尊は薬師如来像。
西国薬師霊場の第四十八番札所となっている。
護法善神堂
護法善神堂の柘榴の木
護法善神堂では、鬼子母神を祀っている。
お堂の前には、柘榴の木が植えられていた。