2009年5月31日(日)
(大阪府高槻市野見町2-33)
藤井竹外(1807-1866)
桃花水暖送軽船
背指孤鴻欲没頭
雪白比良山一角
春風猶未到江州
「幕末の漢詩人藤井竹外は、文化4年(1807)、高槻藩士藤井沢右衛門の長男として生まれた。
藩の教育機関である菁莪堂(せいがどう)で学び、鉄砲の名手でもあった竹外は、青年期から詩作に傾倒、頼山陽を師と仰いだ。旅を好み、酒をくんでは詩作に没頭し、七言絶句を得意としたため『絶句の竹外』とも呼ばれたという。
嘉永7年(1854)刊行の『竹外二十八字詩』(前編)には、215首の詩が収められており、中でも『花朝下澱江』『花井』『芳野』なとは彼の代表的な作品として知られている。
慶応2年(1866)、病により60歳で世を去ったが、門下の高階春帆や市村水香らが明治時代に『竹外吟社』を結成、竹外の作風の継承と発展に努めた。竹外の墓は乾性寺(天神町二)にあり、大手町の本行寺にも、自然石に刻まれた『竹外藤井先生之墓』がある。
この地は、北大手門内の旧藤井竹外邸跡であり、詩碑は、昭和52年10月に生誕170年を記念して建てられたものである。
昭和63年6月 高槻市教育委員会」(案内板より)
(大阪府高槻市野見町2-33)
藤井竹外(1807-1866)
桃花水暖送軽船
背指孤鴻欲没頭
雪白比良山一角
春風猶未到江州
「幕末の漢詩人藤井竹外は、文化4年(1807)、高槻藩士藤井沢右衛門の長男として生まれた。
藩の教育機関である菁莪堂(せいがどう)で学び、鉄砲の名手でもあった竹外は、青年期から詩作に傾倒、頼山陽を師と仰いだ。旅を好み、酒をくんでは詩作に没頭し、七言絶句を得意としたため『絶句の竹外』とも呼ばれたという。
嘉永7年(1854)刊行の『竹外二十八字詩』(前編)には、215首の詩が収められており、中でも『花朝下澱江』『花井』『芳野』なとは彼の代表的な作品として知られている。
慶応2年(1866)、病により60歳で世を去ったが、門下の高階春帆や市村水香らが明治時代に『竹外吟社』を結成、竹外の作風の継承と発展に努めた。竹外の墓は乾性寺(天神町二)にあり、大手町の本行寺にも、自然石に刻まれた『竹外藤井先生之墓』がある。
この地は、北大手門内の旧藤井竹外邸跡であり、詩碑は、昭和52年10月に生誕170年を記念して建てられたものである。
昭和63年6月 高槻市教育委員会」(案内板より)