大倉草紙

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【大阪】 大坂の陣ゆかりの地⑱ 樋ノ尻口地蔵・全興寺ほか 

2009年06月25日 21時00分00秒 | 旅 - 大阪府
2月1日(日)
当日の行程:(車) → 【博労淵】 → 【野田城跡】 → 【木邨長門守重成表忠碑】 → 【備前島】 → 【大長寺】 → 【若宮八幡大神宮】 → 【鴫野古戦場跡】【大坂城(秀頼・淀殿ら自刃の地)(淀君並殉死者三十二名忠霊塔)】 → 【本町橋】 → 【三光神社】 → 【真田丸跡あたり】 → 【史蹟岡山又御勝山】 → 【増福寺】【安居神社】【一心寺】【四天王寺】【今宮戎神社】【志紀長吉神社】 → 【真田幸村休憩所跡】【全興寺】【大念佛寺】【杭全神社】【安藤正次墓所】 → 【樋ノ尻口地蔵】 

【樋ノ尻口地蔵】


大阪市平野区平野東2丁目の平野公園の西北隅にある。
「大阪夏之陣の元和元年(一六一五)五月七日、徳川家康の樋ノ尻口通過を予測した真田幸村は、この地蔵堂内に地雷を仕掛け大坂城へ引き揚げた。予想通り家康が来て、ここで休息したが、ちょっと座を外したときに地雷が爆発し、危うく命拾いしたという伝説があり、現在全興寺に祀られている首地蔵は、このときの爆発で吹き飛んできた樋ノ尻地蔵の首と伝えられている。」
(案内板より)


【安藤正次墓所】

安藤正次墓所は、樋ノ尻口地蔵と道を挟んで向かい側にある。
「安藤次右衛門尉正次は禄高二千石の旗本で、大坂夏之陣には御旗奉行として徳川秀忠に直属し、元和元年(一六一五)五月七日の大坂城落城直前、秀忠の使者として前田利常、本多康紀両軍に、敵陣へ肉薄するようとの命令を伝えた。
 そのとき、数騎の敵兵に出会い、単身馬を進めて戦い豊臣方の首級をあげたが、自らも深傷を負い、家来に助けられて戻った本陣で、秀忠から高名したと賞され、宿所である平野の願正寺に送られて、傷の療養に努めていたが、再起不能を悟り、十九日自刃した。享年五十一、浄徳院釈了栄とおくり名された。
 五輪の墓塔は世子正珍が、平野郷を囲む環濠の土居上に建て、願正寺を菩提寺とした。
 元禄十四年(一七〇一)に曽孫定房が寄進した盥盤(くわんばん)は背面に正次の伝記体を刻した、他に例をみない珍しいものである。」
(案内板より)


【全興寺】

今から1300年前に聖徳太子が平野の野中の地に小宇を建立し、薬師如来像を安置したのが全興寺のはじまり。
樋ノ尻口地蔵(上述)の首は、約300メートル離れた全興寺まで飛んできたという。


商店街のアーケードから直通の入口もある。


本堂
樋ノ尻口地蔵の首は、こちらの本堂に安置されている。
8月23、24日にご開帳。


駄菓子屋さん博物館
全興寺は、個性的なお寺だ。
境内に、へんてこりんなものがたくさん建っている。
駄菓子屋さん博物館には、昭和20年代~30年代に駄菓子屋さんにあったおもちゃが展示されている。


「この石の穴に頭を入れると地獄の釜の音がきこえます」とある。


鬼の案内板


地獄堂
入口に「極楽度・地獄度チェック」をする機械がある。
スタートボタンを押して答えを選択していく。




地獄堂の内部は、オドロオドロシイ。


ほとけのくに


ほとけのくにの内部
周囲には、四国八十八カ所霊場各寺院の本尊と弘法大師の石仏が並ぶ。
中央のステンドグラスは曼陀羅になっている。


全興寺の御朱印