大倉草紙

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【大阪】 大坂の陣ゆかりの地⑬ 大阪市内の史跡その1

2009年06月16日 21時00分00秒 | 旅 - 大阪府
2月1日(日)
当日の行程:(車) → 【博労淵】 → 【野田城跡】 → 【木邨長門守重成表忠碑】 → 【備前島】 → 【大長寺】 → 【若宮八幡大神宮】 → 【鴫野古戦場跡】【大坂城(秀頼・淀殿ら自刃の地)(淀君並殉死者三十二名忠霊塔)】 → 【本町橋】 → 【三光神社】 → 【真田丸跡あたり】 → 【史蹟岡山又御勝山】 → 【増福寺】【安居神社】【一心寺】【四天王寺】【今宮戎神社】【志紀長吉神社】 → 【真田幸村休憩所跡】【全興寺】【大念佛寺】【杭全神社】【安藤正次墓所】 → 【樋ノ尻口地蔵】 

【博労淵】

博労淵は、木津川の中州・狗子島の東側。
写真の場所は、大阪市西区の伯楽橋の近く。
大坂冬の陣のとき、博労淵の戦いがあったのはこのあたりだと思われる。


【野田城跡】

大坂冬の陣の野田・福島の戦いの中心地はこのあたり。
野田城跡の碑は、大阪市福島区玉川のマンションの前に建っている。


【木邨長門守重成表忠碑】

大阪市立東洋陶磁美術館(大阪市北区中之島1−1−26)のそばに建っている。
木邨長門守重成表忠碑は、かつてこのあたりにあった豊國神社の境内に建てられた。
現在、豊國神社は大阪城の二の丸に遷座したが、この碑だけはここに残されたのだという。


【備前島】

このあたりが備前島。
大坂冬の陣で、徳川方はここから大砲で大坂城を攻撃した。


【大長寺】

大長寺は、慶長10年(1605)、鯰江備中守が、外祖父である毛利備前守の冥福を祈り建立したといわれる。


鯉塚
「『鯉塚』縁起
 寛文八年(一六六八)綱島の猟夫が、現在の淀川で六尺有余の大鯉を格闘数刻の上生獲って背に紋様があり、物珍しくて見世物になった。間も無く死に当寺に葬り第八代住西和尚が回会した処、其の晩夢枕に一人の武士が現れ『吾れは元和の合戦にて徳川勢と戦い討死した』との由 哀れを感じ和尚は『瀧登鯉山居士』と戒名を授け明方まで読経を続けた。と云う。」
(案内板より)

ほかにも、小春・治兵衛の比翼塚で知られているらしい。

「享保5年(1720)10月14日、天満の紙屋の主人治兵衛と曽根崎新地の遊女小春が大長寺で心中しました。近松門左衛門がさっそくこれを浄瑠璃にしたてたのが名作『心中天網島(てんのあみじま)』で、人々が2人をあわれんで建てたのがこの比翼塚です。大長寺はもと網島(現在の藤田美術館敷地内)にありましたが、明治42年いまの場所に移転し、それとともに塚も移されました。」
(案内板より)


【若宮八幡大神宮】

若宮八幡大神宮は、大阪市城東区蒲生に鎮座している。


大坂夏の陣の鴫野・京橋口の戦いで、徳川方の佐竹義宣は若宮八幡大神宮に本陣を置いて、豊臣方の木村長門守重成と戦った。


佐竹義宣の軍兵は、境内の楠の大木を倒して篝火にしていた。
その楠は明治20年頃に衰え、伐採されたので、現在も境内にある楠は当時のものではない。
戦いの後、楠を切った贖罪のため、佐竹家から若宮八幡大神宮に矢が献納されたという。
この矢は、明治18年の洪水で流失してしまったそうだ。


【鴫野古戦場跡】

鴫野古戦場跡の碑は、大阪市城東区の城東小学校の校門を入ったところに建っている。
門の外からも碑を見ることはできる。
「鴫野古戦場跡
古代の鴫野周辺は、上町台地を回り込むような河内潟の中に位置する低湿地であったが、堤防の造成などの治水工事が行われるにつれて開発が進み、中世にはいくつかの荘園が設けられていた。『熊野詣日記』に〈しきののわたり〉、『天文日記』に〈シキノツツミ〉とその名がみえる鴫野の地は、大和川や猫間川、平野川などいくつかの川が交錯することから、水上交通の拠点となっていた。慶長十九年(一六一四)の大坂冬の陣に際しては、大坂方が防御のための柵をこのあたりに建設し、これをめぐって、佐竹義宣、上杉景勝らの東軍と後藤基次、井上頼次らの西軍が激しい戦闘をくりひろげたという。一説によると、この戦いが木村重成の初陣であるとされている。なお大正九年(一九二〇)十一月には、鴫野古戦場跡を顕彰するため、大阪朝日新聞などで新聞記者をつとめた小説家、漢学者である西村天囚による記念碑が建立されている。
平成七年三月大阪市教育委員会」