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「つけまつける」の歌の言葉の走法

2019年03月22日 | 批評

「つけまつける」の歌の言葉の走法



 古代に、従来の話し言葉の倭語を新たに〈書き言葉の世界〉に載せるとき、古代の律令制度で中国の土地制度や法制度を借りてきて模倣したように、漢文そのものを借りて済ませるわけにはいかなかったのだろう。漢語を借りて、万葉仮名と呼ばれる〈書き言葉〉を生み出した。土地制度や法制度の場合には、それまでに中国の制度から見たら貧弱に見えるかもしれない土地制度や法制度などがあったかもしれない。しかし、万葉仮名の場合は、たぶんそれまでの長い助走があったとしても、まったく新たに作らざるを得なかった。万葉仮名は、漢字の音のみ借りているが、読み取る側からすれば錯綜としている。例えば、地名がそうだが、ほとんどが語の漢字の意味は地名の意味と無関係なことが多い。しかし、漢字というものに慣れて地名に相対する側はどうしてもその表意性を持つ漢字に惑わされやすい。

 きゃりーぱみゅぱみゅが歌い踊る「つけまつける 」を、古代に万葉仮名を生み出さざるを得なかったような言葉の問題として取り上げてみる。もちろん、その規模の違いはとても大きい。しかし、その言葉の問題は、互いに相似であるように思われる。

 この場合、万葉仮名が従来の話し言葉の倭語を新たに〈書き言葉の世界〉に載せるために生み出されたのと対応させれば、この時代に生きる新しい感覚を今までにはなかった形で、すでにある〈音楽の世界〉に載せるために「つけまつける」の歌の言葉の走法はあったと言うべきである。それはどのようなものであろうか。

 きゃりーぱみゅぱみゅの「つけまつける 」という歌については一度取り上げたことがある。( 「きゃりーぱみゅぱみゅ「つけまつける」の歌を観て、聴いて。」2016年6月  https://blog.goo.ne.jp/okdream01/e/270f7268dee387f39e01e55dfa834d0f )ここでは、「つけまつける 」という歌の歌詞を言葉の表現のもんだとしてのみ取り上げてみる。


 つけまつけま つけまつける
 ぱちぱち つけまつけて
 とぅ CAME UP とぅCAME UP つけまつける
 かわいいの つけまつける
 (「つけまつける」の第一連 )



 ここで、「とぅCAME UP とぅCAME UPつけまつける」の部分は、この歌を聴いてみると分かるが、(とぅけいむあっぷ)→(とぅけいまあ)→(つけま)というように、外国語としての英語も意味は関係なく(歌としては表れることはないが、歌詞としては「come up」のやって来るや上るなどの意味も掛詞のように意識しているかもしれない)音で織り込んでいく。そうすると「つけま」と聞こえるようになっている。

 この部分は、第四連でもくり返され、最終の第七、八連でもこれと似た表現になっている。すなわち、この第一連の部分がこの歌の中心部分を成している。この歌を意味として受け取れば、つけまつげするのっていいなかわいいなということにすぎない。しかし、意味としてはつけまつげに限らず誰もが何らかの形で体験するようなもので単純に見えても、その心的世界は豊かなものとしてイメージされている。その少女たちの豊かな内面のイメージがこの第一連の部分に集約されている。その豊かな内面のイメージを担うのは、言葉のリズムと身体からあふれるリズムである。その心の躍動は、歌だけでは十分でなく、やはりダンスも必須な気がする。

 この「つけまつける」の歌は、「同じ空がどう見えるかは 心の角度次第だから」のような旧来的な意味性も付加されてはいるが、倭語に万葉仮名を当てるように、少女たちの豊かな内面のイメージ世界に言葉のリズムや身体のリズムを当てようとしたのだと思う。

 このような歌に類例を探してみると、小さい子が、特に気に入った何らかの場面でリズムはあるがあんまり意味もない言葉を自然に発しながら踊り出す所作が浮かんでくる。これは小さい子には一般的なものである。さらにこれを言葉の表現の段階として考えてみると、遙かな太古の表現性を持っているように見える。わかりやすく言えば、それらは幼児性(あるいは歴史の幼児的な段階)ということになるが、わたしたちの誰もが内に持っているものであり、そこから発掘したと言うべきである。


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