わたしがよく訪れるブログの「『初期ノート』解説」 (2016-12-10) ( http://d.hatena.ne.jp/syoki-note/20161210 )にシモーヌ・ヴェイユの「匿名の領域」に関わる言葉が引用されている。
人間だれでも、なんらかの聖なるものがある。しかし、それはその人の人格ではない。それはまた、その人の人間的固有性(ヴェルソンヌ・ニメーヌ)でもない。きわめて単純に、それは、かれ、その人なのである。(ヴェイユ「人格と聖なるもの」)
これは『ロンドン論集とさいごの手紙』というヴェイユの本に収められている文章らしい。吉本さんのヴェイユに関する文章やネットの文章で何度かその言葉に出会ってきたけれど、ヴェイユの「それは、かれ、その人なのである。」という言葉や「匿名の領域」というこがよくわからなかった。しかし、「『初期ノート』解説」(2016-12-26)( http://d.hatena.ne.jp/syoki-note/20161226 )の文章の次の辺りを読んでいて、あ、なんかわかりそうだという気になってきた。
吉本はヴェイユの「匿名の領域」という考え方につながるものとして、「存在倫理」という概念を晩年に提出しています。充分な展開をしないまま吉本は亡くなってしまいましたが、「存在倫理」という考え方には吉本の生涯の思想の重量がこもっていると思います。
「そこに『いる』ということは、『いる』ということに影響を与えるといいましょうか、生まれてそこに『いる』こと自体が、『いる』ということに対して倫理性を喚起するものなんだ。そういう意味合いの倫理」というように吉本は「存在倫理」を説明しています。これは「その人の人格ではない。それはまた、その人の人間的固有性(ヴェルソンヌ・ニメーヌ)でもない。きわめて単純に、それは、かれ、その人なのである」というヴェイユの「匿名の領域」の考え方につながるものだと思います。 (『初期ノート』解説」2016-12-26)
吉本さんの「存在倫理」という言葉とヴェイユの「匿名の領域」の考えの説明に当たる「それは、かれ、その人なのである」という言葉が、あるつながりあるものとして並び置かれていて、「それは、かれ、その人なのである」という言葉がなんかわかったような気がしてきた。
人は人間界に生まれ落ちて最初の内は世話をしてもらわないと生きてはいけない受動的な存在だったが、次第に育っていって自力というものも身につけ、人格や固有性を身にまとってわたしたちの普通に活動する状態になっていく。その最初の無力な受け身の状態、すなわち人格や能力などと呼ばれる固有性を身に付ける以前の状態を「基底状態」とすると、人格や能力などと呼ばれる固有性を身にまとって普通に活動、生活する状態はそこから一次元くり上った状態で「励起状態」と見なすことができる。
わたしたちは、成長し「基底状態」を通り過ぎてきて、もはやそれとは無縁のように「励起状態」を日々生きているが、「基底状態」はまさしくわたしという人間存在の初源的な「基底」として、あんまり気づかれにくい態様で「励起状態」を生きるわたしにも浸透しているはずである。つまり、「基底状態」そのものを通り過ぎてきてしまったけれど、わたしたちは、「基底状態」を内包しつつ「励起状態」を前景とするような、ある幅を生きているのではないだろうか。
「植物人間のような状態になっている人」も「深い認知症の老人」(註.いずれも『初期ノート』解説」2016-12-26の中の言葉より)も、あるいはまた、重度の障害を抱えている人々も、吉本さんの「存在倫理」やヴェイユの「匿名の領域」という概念が関わり合う、人間の「基底状態」に近い「人」そのものを生きていることになるのではなかろうか。つまり、わたしたちの中から内発的に湧き上がったのではなく、いくぶんかは人類の活動する歴史性が踏まえられているのかもしれないが、いつの間にかどこからか舞い降りてきて現在の社会に流通して、わたしたちに無意識的な部分にまで及ぶ力(強制力を及ぼしている、能力や競争や成果などの現在のイデオロギーは、そのような人々には無縁である。無縁であるということは、先の障害者施設での殺傷犯のようにそのイデオロギーに憑かれてしまえば、無用ということになってしまうのだろうが、それはその現在のイデオロギーが偏狭なのであり、人類史の知恵をねじ曲げているのである。したがって、その様な人々は、現在的な社会の主流の活動性とは無縁かもしれないが、現在的な人間というものの存在の幅の中にしっかりと在り、その「基底状態」を日々生きているのである。
わたしが、吉本さんの「存在倫理」やヴェイユの「匿名の領域」を語る言葉がなんとなくわかったような気になったということは、現在の私の理解によればあらゆる人間の存在をそのような幅として、その幅の中のスペクトラム(連続体・分布範囲)として見なすということである。
(ツイッターのツイートに少し加筆訂正しています)
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