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覚書2020.9.29―読書ということ

2020年09月29日 | 覚書

 覚書2020.9.29―読書ということ


 今のところ、わたしはネットの何人かの文章を追いかけて読んでいる。十分に読みこなせないなという思いがある。それは、何人かのものが次々に公表されてくるというせいもあるが、何かに急かされているようでゆったりと読むということが難しいということである。このことは、現在の社会を生きるわたしたちに社会の現在がもたらす心的な加速感や加圧感から来ているような気がする。もちろん、その心的な加速感や加圧感は、例えばゲーム世界などではわたしたちに快や多幸感をもたらしているという面も持っている。だから、そのこと自体を退行的に批判したり解消できると思うことはできない。複雑な機構になっている。ただし、わたしたちにやってくる心的な加速感や加圧感を一時でも解除するスイッチというべきものを創出・装備することはできる。社会がそういうものを創出・装備してくれれば手っ取り早いのだが簡単には望めそうにはないから、その解除の具体性についてはわたしたちひとりひとりが知恵を絞るしかない。

 そんな現在を生きるわたしたちには、なぜか〈ゆったりと〉ということが、もう過ぎ去ってしまった牧歌的なものに見えてしまう。学校を流れる時間の密度が少し緩和されることはいいことだろうと思っていた「ゆとり教育」も廃止されてしまい、社会の流れに対応したもとの加速度的な流れに戻っている。これは病的な流れを突き進んでいるではないかという思いは、現在のわたしたちの生活感の内省と対応している。つまり、この流れは全社会的な流れなのだ。わたしたちに社会のもたらす心的な加速感や加圧感を一時でも解除するスイッチというべきものを創出・装備しなくてはならない所以(ゆえん)である。

 書くということにおいてわたしの場合は、まずメモを取り、少し書き出して、しばらく寝かせたり、そうしてやっと一気に書き上げたりするという形が多い。そんなにあくせく急がないでもいいさという思いもあるが、ネットの表現の場合、ごく少人数の読者であったとしても、何らかの思いを持って読みに来てくれているのだろうなという思いが一方にある。だから、それに応える意味でも割りと定期的な公表のリズムを心がけている。このことは、現在の社会の割りとすばやい速度の流れに浸かっているわたしたちの感受や行動や生活感覚とその中での倫理ということと対応しているように思える。例えば、会社や役所内のあることで過度に責任(感)を突き詰めて自死に至る場合がときどき社会に事件として浮上してくる。自分の生存の根っこがさらわれるような場合は、投げ出しても仕事をやめてもいいんだよと外からは思えても、渦中の倫理やその後の生活不安からなかなかそこへと解除できないで、自死に至ってしまう。社会を裏面から眺めれば、わが国では年間の自殺者も多く、ひとりひとりが生きのびることが社会的なテーマになるような病的な領域に入り込んでいるような気がする。ちなみに、本日のツイッター(午後2:09 2020年9月28日)で坂口恭平は、「僕は生き延びることだけ考えてる。もちろん、楽しく、という条件で。」とツイートしていた。

 読むことは、吉本さんの言う「自己慰安」でもあると思う。すなわち、これまた吉本さんが『言葉からの触手』で触れていたと思うが、食べ物を食べるように文章を読むことは精神の栄養を摂取することになるのだろう。そうして、精神の栄養を摂取することは自己を癒すと同時に、考えを巡らす、内省をすることでもある。吉本さんは、この二つを含めて「自己慰安」(フーコーの言う「自己への配慮」)と語っていた。(『データベース 吉本隆明を読む』「言葉の吉本隆明②」項目662「自己慰安 ②」を参照)

 ところで、自分があることについてすでに考えを巡らせていて、そのことについてだいたいわかっているなら、そのことについて触れた本を読む必要はない。また同じく、ある物語作品と同じようなモチーフを持ち、同じようなイメージとして織り上げた物語世界を持っているなら、他者の物語作品を読む必要はない。しかし、同時代の共通するマス・イメージに浸かって、同じ大気を呼吸していても、ひとりひとりイメージしたり考えたりする世界は違っている。だから、わたしたちは自分にないものや自分の知らない世界に出会うために、
読書するのだ。読書を通して他者に会いに行くのだ。ほう、こんなことを考えている人がいる、このイメージやふんい気はなんとなく新しくていいな、などなど、わたしたちは読書で新しい他人に会いにいくのだ。


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