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最近のツイートや覚書など2024年2月 ②

2024年03月23日 | 覚書
 最近のツイートや覚書など2024年2月 ②


2024/02/17
今日のNHKのニュースで、昨年のH3ロケット1号機は、「打ち上げ失敗」だったと何度も述べていた。ネットニュースでも一様に「打ち上げ失敗」だったと書いてある。技術者は姑息なことはしない言わないという印象を持っているが、幹部連中や周囲やマスコミが執拗に「打ち上げ中止」と言い張っていた覚えが

ある。ツイッターでもその援護者がいたと思う。そんなことを奥さんに言われて思いだした。部分的には「打ち上げ中止」でいいけど、全体としては「打ち上げ失敗」だよね、と当時思ったものだ。



2024/02/18
RT
判事「過ち認める能力持たず」 トランプ氏側に533億円支払い命令
毎日新聞 2024/02/17


判事は「被告らは過ちを認める能力を持たず、証拠に背を向け、見ざる、聞かざる、言わざるの姿勢を取った」と指摘。」また、CNNの記事では、判事は、トランプ氏や他の被告人について、「悔恨や反省のなさはほとんど病的な域に達している」と述べているという。驚くべき異例の発言。

トランプが、住民ウケしている西部劇の無法者だとすると、わが国に翻訳するとお調子者で粗暴なジャイアンということになろうか。一方、安倍晋三は、自民党の政治家やネトウヨや取り巻き文化人等に精神的・金銭的な燃料投下しながら無法なスネ夫を演じていた。

また、昔、モーニングショーで、田﨑史郎がとにかく安倍はなぜか選挙に強かったので党の支持も強かったと語っていたが、これは主に統一教会つながりによるパワーだった。安倍死後、ネトウヨのパワーは我に返ることもなく、「推し」を探し求めて目下迷走中のように見える。



2024/02/19
RT
私はこれが一番ピンときました
作家、高橋源一郎氏の現代語訳「教育勅語」が話題!!


これを読んでいて、吉本さんの「グラフト国家」ということを想い出した。「南島論」(A021 吉本隆明の183講演 テキストデータあり フリーアーカイブ)の中で語られている。例えば、クラスで生徒たちが校則について話し合っているとする。いろいろ話が出てまとまりそうな段階で、上からあるいは横合いから

先生がまとめや提案などを行うとする。これもわかりやすい「グラフト」(接ぎ木)の例だと思う。住民の上に小国家があり、他所からやって来た集団が横合いからその小国家の上に「グラフト」(接ぎ木)する、次第に継ぎ目が忘れられていく。「教育勅語」なども至極当たり前の顔をして下ってくる。



「ずっとさびしくて、ずっと平和。」谷川俊太郎×渡辺真理・対談202402 ほぼ日
    ― 谷川俊太郎さんに、PEANUTSの話を聞きに。
の最終回の今日の分「その7」を読んでいたら、吉本さんについてささいなことだけど初めて聞く話があった。

谷川
いやあ、やっぱり車椅子に乗ると、
そこまで楽しくないよね。
そんな意識はしないんだけど、
前に吉本隆明が車椅子になった時に、
彼は舞台上で話をしながら車椅子で
ぐんぐん、ぐんぐん回ってるんですよ、
舞台上を曲乗りみたいにして、けっこう上手くて。

真理
アクロバティック(笑)。

谷川
彼はそれが楽しいらしいんですよね。
それは、一つ自慢でもあって、
「俺は車椅子でもこんなことするんだぞ」みたいなね。
あれは、すごく印象に残ってますね。

吉本さんのほぼ最後の講演は、『芸術言語論 ――沈黙から芸術まで』(講演日時:2008年7月19日)で、昭和女子大学人見記念講堂であった。久しぶりの講演会だった。車椅子で檀上に上って話されていたけど、谷川俊太郎の語ったような場面は記憶にないから、別の講演会でのことだろうか。



2024/02/21
RT
荒川和久/独身研究家/コラムニスト@wildriverpeace
書きました。世界最高レベルの子育て支援のフィンランドでさえ出生率1.26。子育て支援では出生増につながらないのは明らかで、日本含め先進国のほとんどが出生減=20代の結婚減。若者が若者のうちに結婚や出生できなくなったという本質の課題に向き合わないといけない。


少子化問題は、最近亡くなった批評家の芹沢俊介が、割と内側から内在的に批評をしてきていたと記憶している。事実(統計)はわかった。とすれば、次は当然なぜそのような現象になっているのかという、現在の人々の主要な共同の意識・無意識と社会の有り様の批評になるだろう。

私は、「少子化」を必ずしも「悪」(負、よくないもの)と見なしてはいない。例えば、物価が上がりすぎれば人々は買い控えで対応する。経済政策等で物価が緩和されれば消費はまた元に戻るだろう。「少子化」という現象もそんなものなのか。社会条件の緩和がそれを緩ませることは部分的にはあるかもしれない。

どうもそうではなく、近代以降の社会の変貌と対応するように個の意識が尖鋭化し成熟してきた必然の結果のような気がする。それは統一教会-自民党などの退行的な家族の重視などではどうにもならない奔流となっている。だから、大きな歴史の流れで揺り戻しなり、内省なりで動向は決まるような気がする。



2024/02/26
↓RT  「わかりやすく、おもしろく、偏りなく」。経済や投資の話をお伝えしています。・・・という後藤達也氏の経済から。彼のことは「ほぼ日刊イトイ新聞」での対談から知った。最初、noteの有料会員3万人(月500円)を知った時、直ぐに計算してしまった。

現在は、やる気さえあればそんなことも可能にしている。この方はしっかりした見識を持ち、研鑽を重ねている様に見えるが、いろんなジャンルの人々が、心優しい読者に助けられて、表現≡経済活動をしているように見える。従来の表現の定型(企業)はまだ存続しているが、こんなひとり表現≡経済活動も開花してる。



2024/02/27
『徒然草』第百九段に、学校の古文の教科書にも出て来たことのある「高名の木登り」の話がある。木登り名人が下から指図して、弟子に木に上らせて梢を切らせたとある。使えば便利だと思う、弥生時代には存在したというハシゴの記述はない。仕事を終えてもう少しで地上だという時こそ心せよと名人はいう。

緊張が解けてほっと気を抜くと油断するから危ういという。それは現在にも通じる合理的な判断・心理に属している。これは現在の庭師のような仕事だろうか。また、仕事にかかる前に、昔、山に入る時祈りを捧げたような、そんなことはしなかったのだろうか。思い巡らせば、いろんなことがよくわからない。



2024/02/29
覚書2024.2.29
先日二週にわたって放送された『鬼滅の刃』(特別編集版の『「鬼滅の刃」遊郭潜入編』と『「鬼滅の刃」遊郭決戦編』)のビデオを見た。遊郭編の長篇は、以前見たことがあるけど続篇かななど思いながら見た。しかし、ずいぶん見た後、敵の女鬼が放つ鋭い破壊力の布切れは見たことがあった。

また、その女鬼の中からだったか別れ出てきた兄の鬼の粘り着くような独特なしゃべり方には以前に出会った覚えがあった。決定的なのは、二つ目の決戦編で、柱や炭次郎らと鬼との決戦の最中に挿入された回想の場面の、その柱の一族の墓の前で、柱とその若い三人の妻たちとの会食の場面であった。

それは確かに以前見た遊郭編の長編に出てきたのを覚えていた。ドラマでも小説でも、見た読んだ現場から離れ時間が経つと記憶も印象も薄らいでいく。たいていは、ほとんど覚えていないということになるのが一般的だろう。
表現されたものを前にして、わたしたちはその現場で何をしているのだろうか。

作者は、作品へと表現することで、生産≡消費(解放感など)を同時的にしているのであり、観客や読者は、その世界の中に入り込み、物語の起伏や人物たちの振る舞いや感じ考えを見る聞くたどることによって、生産(精神的な活動の活性化や内省)≡消費(解放感など)を同時的にしているのではないだろうか。

いろいろ言われ尽くされてきたことをまとめてみると、そんなことになりそうに思う。

ところで、鬼は、先の大戦では「鬼畜米英」であり、戦争する敵の国家やその下の国民を指していた。昔の説話の鬼は何だろうか。少なくとも、こちらの集落や地域(説話の作者)からは異類と見なされている人々のことだろう。もちろん、「鬼」と見なされている人々は自身を鬼とは思っていないだろう。

ここでの鬼とは何だろうか。とても長い柱や炭次郎らと鬼たちとの決戦の後、負けた鬼の兄と妹との過去が回想される。容貌の醜かった兄は何かと軽んじられ痛めつけられる。遊郭という場でさえ居場所のない不遇の兄妹は肩寄せ合い生きていたが、あることがきっかけで鬼になって強大な力を手にする。

『鬼滅の刃』は、派手な目まぐるしい決戦の描写や時々挿入される茶目っ気のある子供っぽさの描写などがウケている要素で大きいのかもしれないが、おおざっぱに見てきた限りでは、うつ病になったり犯罪を犯したりなどの、「普通」から外れて「鬼」になった人々の魂の救済を目指す物語かもしれない。


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