ニュージーランド移住記録:日記「さいらん日和」

2004年に香港からニュージーランドに移住した西蘭(さいらん)一家。子育て終了、仕事もリタイア。好きに生きる記録です。

ラッセル&ケリケリ行3回目:ポンパリエ・ハウス前編

2015-11-09 | 旅行
開き直ってちんたらやっている、
8月の(強調)ラッセル&ケリケリ旅行記です。


19世紀前半までのNZはオーストラリアに比べ資源も土地も乏しいゆえ
海千山千の怪しげな男たちが世界中から集まっていたにもかかわらず
実質的な統治者のいない無法地帯として乱れに乱れ、その中心だった
ラッセルは「太平洋の災難」として恐れられていたそうです。
(※前回のこの話はコチラで)


今のラッセルはこんなに静かな場所だというのに



ビーチも当時は捕鯨船の船乗りたちがひしめき

マオリとの物々交換でごった返していたんでしょう。


対岸のパイヒアに渡る埠頭と



フェリー

今回は見るだけ。


海岸線の豪華な別荘を見ながら



やってきたのは

ポンパリエ・ハウス
前回はたまたま閉まっていて入れませんでした。


1840年にワイタンギ条約が締結された2年後に完成した2階建てで
フランスはリヨン出身のカトリック宣教師ポンパリエが建設した

なんと印刷所


文字すら持たなかったマオリにとって、印刷技術は晴天の霹靂

手紙しかない時代にインターネットが来るぐらいのインパクト?
いやもっとか????


なにせ何もない場所。
高級木材のカウリも交易が進んで高値になって、手が出せません。

そこで版築(ピセ・ド・テール)と呼ばれる古代から伝わる工法を採用。
木で枠を造り、そこに土や砂利を何層にも詰めて固めて壁を作ります。
水を混ぜた土や砂利をコンクリ代わりに使ったと思えばいいのかも


渇いて固まったら枠を外します。

大変分厚い壁です。
この工法はナポレオン戦争の後、木材不足に陥ったフランスで
たまたま復活していたため、宣教師たちに知識があったんだそうです。
しかも、近くで土砂崩れがあったところで材料には事欠きませんでした。


版築壁に囲まれた1階の印刷工場とマリア像



この印刷機はフランスから運び込まれ

高価なだけでなく芸術品のような美しさ
多くの知識をマオリに広め、まるで意思が宿るかのよう。


当時はフランスから持ち込む以外、何もなかったので

宣教師たちは技術を学んで釘まで自前で作っていたそうです!
大工や左官屋だけでなく、鍛冶屋もやるわけです。


西洋文明や宗教的価値観に興味を持つマオリが大勢集まり

彼はそんな訪問者の1人だったそう。


日々の作業は2階で始まります。

ポンパリエがマオリ語で書いたものを部族の首長がチェック


その後、活字を組んでいきます。

左右逆さまのアルファベット


気の遠くなるような作業です。



これを型にはめて紙を置いていわば文字の版画



印刷した紙を本にすべくギュッと挟んで薄くします。



一つ一つ麻糸でかがり



本らしくなってきました。


全て手作業です。



当時の紙は大変高級品で全てフランスからの輸入品

紙が盗まれないよう見張台まで作って、自衛していたそうです。


外からだとこんな感じ。

非常口でもあった?


2階で忙しくしている頃、1階もまた忙しい作業が続いていました。


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(つづく)

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