紫陽花の季節です。
テクノへの道すがらにも、あちこちに色とりどりの紫陽花が咲いています。
花言葉は、「移り気」「浮気」「冷淡」「無情」などなど。
色が変化していくこと、紫や青などの寒色が多いことからきているのでしょう。
アルカリ系の土壌では赤やピンク色になり、フランスでは「元気な女性」という花言葉も。
また、咢が集まっていることから「家族の結びつき」もあります。
バッグからカメラを取り出してガクアジサイの写真を。
スーツ姿のおじさんが、「きれいに咲いていますね」と声をかけて通り過ぎていきました。
ガクアジサイの花言葉は、たしか「謙虚」でした……。
わたしが持っているカメラの画素数は16百万画素です。
これに比べて、人の眼はおよそ100万画素、すなわち網膜からの視神経の数がそのくらい。
その割には、目に映る像は実になめらかで、カメラ以上の解像度に思えます。
これは、不連続な部分は脳が補っているから、とモノの本で読んだことがあります。
平面の網膜に映る像がなぜ立体的に見えるのかも不思議。
これも、脳が記憶で補っているからだといいます。
鳥などは人よりはるかに写真のように記憶するようです。
人の記憶は仮に写真のようだとしても、かなりピンボケに近い状態。
つまり人の記憶は相当あいまいなものみたいです。
でも、その曖昧さが人の応用力につながります。
ある時、紫陽花を見て、それを写真のように精密に記憶した。
それだと、別な時、色も形も違う紫陽花を見ても、同一の花には思えないということ。
何度も何度も違う紫陽花を見るという体験をする。
そうすることで、紫陽花に共通する要素を無意識のうちに人は学習する。
同一のものは何一つ無い具象の世界から、共通する要素を見つけ出すことが抽象化。
具象は個別と1対1に張り付いているから応用は利かず、それっきりの世界である。
応用力は、言い換えれば抽象化力なのかもしれない。
と考えれば、曖昧さにもそれなりの効用があるのでしょう。