ノリの東京の友人の生きる糧(福岡編)

日々のちょっとした楽しみや悲しみを徒然に語ります。

過去の城めぐり6 ~ 長野・群馬編 ~ (その2)

2008年03月27日 | 歴史もの
 (その1からの続き)

 上田城は駅から歩いて10分くらいの場所に全国各地の城と同様に公園として存在していた。公園内に入ると大きな駐車場のある市民会館があり、高校生の団体がブラスバンドの練習をしていて朝の静けさとは無縁の場所だった(その後の上田城見学はその練習音をBGMに歩くことになった)。

 ちなみに上田城は主家の武田家が滅んだ翌年(信長が死んだ年)の1583年に真田昌幸が築城した城なのだが築城した理由はあまりわかっていないようで、それまでの居城の戸石城(上田城から歩いて2時間くらいの距離らしい)から移ってきて真田家の本城にしたようだ(上田城以前の真田家の本城に関しては諸説あってはっきりしない)。

 上田城は1585年と1600年の2回の徳川との戦に真田が勝利したことで有名な城なのだが、関が原の戦いで西軍が負けた後に徹底的に破壊されたようで、真田家は徳川の恨みをかなり買っていたようだ(昌幸と幸村親子は九度山に流されて上田領は長男の信幸が相続したのだが城の再築の許可は出なかったようだ)。

 1622年に信幸が松代(長野県)に転封した後は、豊臣秀吉の家来の仙石秀久(漫画「センゴク」の主人公)の息子の忠政が城主になって3代続いた後、1706年から松平家が統治して明治維新に至ったとのこと。ちなみに城の再築は仙石忠政が徳川家の許可を得ておこなったようだが天守閣はなくて小さな櫓(やぐら)が7つあっただけのようで、上田城は最初から最後まで天守閣がなかった城との事だ。

 市民会館からクネクネ200mくらい歩くと25mくらいの幅の水堀が出現。その先に南櫓と北櫓に挟まれた東虎口櫓門が出現した。門のそばの石垣には信幸が転封の時に持っていこうとして動かせなかった「真田石」と言われている3mくらいの巨大な石が説明看板と一緒にあった(この石は上田城の名物のようだが、石垣を見慣れている俺には正直イマイチだった)。

 門をくぐって南櫓の石段を登るとそこは簡単な展示場になっていてボランティア風の親父2人に250円払って2階建の櫓の中にスリッパに履き替えて入った(その入場券で城内にある博物館と美術館にも入館できる)。
 木製の古い櫓は大して広くなくて俺のアパートと同じくらいの広さだったが、明治時代の上田城の写真や付近の真田家ゆかりの城の写真が飾っていて興味深いものだった(なんと南櫓と北櫓は一時期民間で払い下げられていて遊郭として使われていたとの事。罰かぶりな話だ)。

 南櫓を見学した後は、つながっている東虎口櫓門と北櫓に移動して展示されている松平家の最後の殿様(松平忠礼)の洋装の写真や藩士の様式訓練の写真を見て櫓を後にした。南櫓を出る際に上田市立博物館発行の「真田氏資料集」を1000円で購入すると受付の親父さんが凄く喜んでくれたのは印象的だった(よっぽど売れていないのか?。初版が昭和58年で買ったのが第10版だったので結構売れている感じなのだが・・)。
 親父さんが喜んでいたので俺も調子に乗って「この後、沼田城や岩櫃城に行くんですよ。真田家の城めぐりですよ。」と言ったのだが全く関心がないみたいで、自分の領地の上田城以外は興味がないようだった。残念。

 南櫓を降りるとさっきまで聞こえていなかった奇妙でけだるい60年代のムード音楽のような感じの音楽が聞こえてきた。どうやら南櫓のそばにある「真田神社」の売店から流れてきているようだ(よくよく音楽を聴くと歌詞に「千曲川っ~」なんて言葉が入っていたので御当地ソングか何かだろう)。
 「真田神社」は「知恵の神社」と言われているらしく、武田神社と同じように人間である真田昌幸と幸村が神として祭られていた(神社と言っても小さな物で、小さな鳥居をくぐって30mくらい歩くと本堂があり、その横の売店でお札とかを売っていたのだが、売店と言うよりは誰かが住んでいる普通の家のようだった)。

 本堂の横の小道を抜けると「真田井戸」と西櫓が出現。「真田井戸」は井戸と言うよりも城外への抜け道の入り口との事で、北の太郎山麓や城下町につながっていたと言う伝説があるそうだ(井戸は完全にふさがれているので抜け道を試すことはできないのだが、抜け道を再現して通れるようにすれば良い観光名所になると思うのだが無理なのかな?。上田市観光局に検討をお願いしたい。善光寺の暗闇通路のように有名になるぞ)。

 井戸のすぐ近くの西櫓は仙石家の統治していた時代から現存する唯一の建物との事で長野県宝に認定されているとのことだったが、残念ながら入ることはできなかった。外から見る限り南櫓や北櫓よりもかなり古そうなので仕方ないのかもしれない。

 井戸と西櫓を見終わったので本丸跡を出て城の周囲を一周することにしたが、本丸跡と堀を隔てて存在している幅10mくらいの砂利道ではジョギングをしている親父、散歩をしている老夫婦、虫取り網を担いで自転車に乗って楽しそうな親子連れくらいしかすれ違わなかった。やはり土曜日の朝に来るような場所ではないのかもしれない。
 ただし、隣接している運動場(400mトラックがある)では高校生くらいの学生がたくさん走っていたし、プールにも学生がいたので、市民会館の吹奏楽部も含めて上田城跡の公園は学生の部活の場所としては十分機能しているようだ(公園には地元の名士の銅像がやたら立っていた。こんなに銅像が多い公園は初めて。あとは城跡によくある戊辰戦争や日露戦争の碑もいくつか建っていた)。

 10分くらいで本丸跡を一周して南櫓に戻った時に思ったのは「上田城は平地にあって広くもないのに、なぜ2回も徳川に勝てたのだろう?」と言うことだった。よほど真田昌幸が戦上手だったのか、徳川が戦下手だったのか判らないが、今まで全国回った城の中では最も攻めやすそうな城だった(こんなに汗をかかずにまわった城は初めて。完全な平地で急な上り坂等は全くない珍しい城だ)。

 と言うような事を考えているうちに10時になっていたので、隣接している博物館と美術館に入ることにした(上田城撤退予定時間は10時30分)。

 博物館の1階に真田家、仙石家、松平家に関係する展示物、2階に上田地区(千曲川近辺)の縄文時代からの文化関連の展示物を飾ってあったが、そんなに大きな博物館ではなく閑散としていた(南櫓にいた親父の1人が受付に移って来ていた。ジョブローテーションのようだ。客は俺と親子連れの合計3名だけだった)。
 鎧等の展示物を期待していたのだが、真田家関連の鎧は松代の真田博物館に数多くあるせいか真田家ゆかりの物は少なくて仙石秀久の鎧があるくらいだった。あとは写真がかなり多く展示されていて、養蚕が盛んだった頃の上田地方の写真がたくさんあったのは印象的だった。

 美術館の方は上田に住んでいた洋画家&版画家の山本鼎(やまもとかなえ)と言う人の記念館で、この人の作品を数多く飾っていた。この人はロシアの農民の手芸品を参考に日本の農民向けに「農民美術」なる物を考えた人で、「農民にこんなことをやらせましょうよ。」と父親に書いた農民美術発案の手紙が展示されていて面白かった(要約すると冬の農民は酒を飲むくらいしかやる事がないので、人形とかの工芸品を作らせてそれを売りましょうと言う手紙。農民の意識改革の意味もあった模様)。

 と言った感じで、博物館も美術館も軽く流して予定時間になったので上田城を後にすることにした。少し歩いた所に「池波正太郎の真田太平記館」なる物があるようだったが今回はパスして上田駅に向かった(翌週の土曜日は「上田わっしょい」と言う祭りのようなイベントがあるようだったので、1週間ずれていればにぎやかな上田を体験できていたようだ。俺は人が多いのは嫌いだけどね)。

 上田駅に10時40分くらいに着いて10時43分発の新幹線にあわてて乗車(長野新幹線の東京行きは20分に1本くらい)。高崎駅経由で名胡桃城のある後閑(ごかん)駅に向かった。わずか2時間くらいの長野滞在だったが有意義な上田訪問だった。

(その3に続く)
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