世態迷想・・抽斗の書き溜め

虫メガネのようであり、潜望鏡のようでも・・解も掴めず、整わず、抜け道も見つからず

残像(1)霞の向こうに記憶の断片

2018-03-19 | 記憶の切れ端

 

 

新京の残像-

1941年の春、私は新京(長春)で生まれ、4歳までここで育った。

(中国東北部、かつての満州国の首都)

 

道幅の広い大通りを花電車が走っていた。

初めて花電車というものを見た。

正面をいっぱいの花で飾った路面電車が通りすぎていく。

それを横目に、大通り沿いの大きな病院の玄関をくぐった。

産まれたばかりの弟を見に連れて来られたのだ。

病院の廊下は長く暗かったが、逆光で床が光っていた。

前を行く家族の後ろ姿の陰を追うように、僕と妹は手をつないで歩いていった。

 

満人の穴居

鍋底のような形で、高さ4メートルぐらいだろうか、

小さな小さな山のような土盛り住居である。

何処かに空気が抜ける穴があるのだろうが、

見えていた出入り口はひとつだけ。

幅が半間ほど、高さは人が不自由なく通れる大きさだった

と思う。幼かったので記憶はとてもぼんやりだ。

その前を通ったとき、入り口に綿入りのマント状の中国服を着た弁髪の男が立ってい

て、こちらを睨んでいるように思えた。彼の中国服は汚れて黒光りしていた。

 

自転車部隊

父は満映でニュース映画の制作に携わっていた。

ボクの家族は新京市の郊外に住んでいた。

2階建て2戸続きに石作りの同じ家が連なり、

コの字型に住宅棟が並んだ集合住宅である。 

住民の大半は日本人家族であった。

その住宅地前の大きな道路を、

日本軍の自転車部隊が通り過ぎて行くのを遠目に見た。

そんな部隊が実在したのか分からないが、僕にはそう見えた。

 

結婚式

この集合住宅域に満州人も住んでいたのだと思う。或るとき、

住宅地内の道路に赤い敷物が敷かれ、

その上を華やかに進んでくる花嫁さんの行列を見た覚えがある。

 

母の外国語?

在留5年?ほどの新京の生活で 母は流暢に中国語を話していたような気がする。

子供心にそう思えただけかもしれない。

片言の日常用の中国語だったろうか。

 

父の出征

敗戦の色濃い終戦の数ヶ月前、父が最も遅い徴集を受け、出兵した。

路面電車の安全地帯で、出征する父を母たちと見送った。

ほどなく敗戦、 捕虜となった父はシベリアに抑留され、

復員したのは昭和23年だった。

徴兵されが、小隊全員に銃がゆきわたったことなど一度も無かったと言っていた。

とっくに日本軍の兵站は崩壊していたのだ。

 

防空壕

コの字型住宅団地の広場に大きな防空壕があった。

空襲でその中に潜った、入り口には扉の代わりに厚くて黒っぽく汚れた布団がかけられていた。

 

ロシア兵

敗戦直後、僕らの住宅地にもロシア兵が沢山来た。

そこにいた日本の大人達は強奪や暴行の恐怖で一杯だったと思うが、

4歳ほどの僕がそれを知ることもなく、兵士達を怖れた記憶もない。

一人のロシア兵が僕の弟を抱き上げてあやしていた。

1歳にも満たぬ弟が怖がるはずもなかった。

その兵士は腕に腕時計を何個も付けていた。略奪品のようだ。

僕は何でたくさん腕時計がいるのかと不思議がったら、7つ年上の姉が、

ロシア兵は止まった時計のネジの巻き方を知らないから、幾つも欲しがるのよ、

と言うので、僕は納得した。

 
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残像(2)弟の死

2018-03-19 | 記憶の切れ端

 

 一歳の弟が結核性脳膜炎でなくなった。

中国北部から縁戚の女性が避難して来て、我が家に居候していた。

その女性が結核を患っていたことを僕の家族は気づかず、乳飲み児の弟の子守をして貰っていた。

弟はすぐ感染した。しかも弟の初期症状の時、医師が風邪と誤診した事も響いて、

手遅れになってしまった。

母たちが弟の亡骸をきれいにして納棺する様子を、

妹と家の外から窓越しに笑いながら見ていた。

満州から引き揚げる時、

母は亡くなった次男の遺骨をどうしても日本に連れて帰りたかった。

混乱時に土葬の国で遺骨にするには大変な費用がかかったという。800円だ。

引き揚げを目前にした家族にはとても大きな出費であった。

 

引き揚げ-1   土葬のまんじゅう 

新京を出た満鉄の引き揚げ列車は、眼を遮るものがない中国東北部の平原を数日間、

果てしなく走り続けた。混乱期でダイヤ通りに走れる状況ではなかったが、

日本海を望む港まで1000kmを進まなければ、引き揚げ船に乗れない。

引揚家族で溢れたこの列車は、無蓋車は言うに及ばす屋根付き車両も全て貨車だった。

誰しも乗り心地なぞ問う状況でなく一刻も早くこの地を離れ、

日本に帰りつきたい一心である。

どこまでも景色が変わらず延々と続く荒野のまっただ中を、

引き揚げ列車が進んでは止まりを繰り返していた。

ときおり、通り過ぎる荒野の風景のなかにポツン、ポツンと土盛りが目に映った、

土葬の後だ、こんなに辺鄙な不毛の荒野を訪れる人があるとは思えなかった。

埋められた人間も、埋めた人間さえ、どんな記録にも残らないのだろう。

土を盛られておしまい。さようならだ。寂しい風景だった。

 

引揚げ-2  映画館

何かの事情か一旦列車を降ろされ、大勢の日本人集団は雨宿りをかねて映画館に入った。

家族を引き連れている大人たちにスクリーンを見る気持ちの余裕などあるはずもなく、

列車に戻る合図を待ってまんじりともせず、皆立ったままだった。

僕はその大人たちの暗い隙間で、母の袖を掴んでただぼうっと立っていた。

混雑の中しっかり手をつなぐことだけが唯一の安心だった。

敗走に近い状況であるから、引き揚げ団が確実なスケジュールを組めるはずもなく、

どの引き上げ集団が効率良く移動が出来るのか、大人達は成り行きにハラハラしていた

に違いない。

先を急ぐ引き揚げ集団のうえにどんな事態が降りかかってくるか、

敗戦による混乱と脱出の焦り、大陸側のどんな集団に襲われるかも知れない。

どれ程の効果があるのか分からないが、

成熟した日本女性の殆どは頭髪を男のように短くしていた。母もそうしていた。

 

引揚げ船

興安丸だったと思う。甲板さえ、所狭しと引き揚げ家族がいっぱいだった。

何日かかって佐世保に接岸出来たのか僕は知らない。

僕は生まれて初めての海と船に好奇心いっぱいで、船の甲板のへりを身軽に歩いたり、

船内をはしゃぎ廻って母をハラハラさせていたという。

大人たちの深刻な思いは知らず、いつにない出来事の毎日を楽しんでいた。

 

* 長春からの引き揚げ状況について、

  僕らより遅く、長春を脱出した引き揚げ者たちの様子を、

  遠藤誉氏が克明に著している。(1984年発刊「チャーズ」)

  日本軍の敗走後、激化した毛沢東軍と蒋介石軍の苛烈な戦い

  に挟まれた引き揚げ団が身動きできないまま、過酷な状況に

  置かれた悲惨な事実をこの本で知る。

 

佐世保-1

下船の時、全員がDDTをかけられ頭髪が真っ白になっていた。

大人の男性は下半身を丸出しにして、陰部の皮膚病などを検診させられていたような

光景を覚えているのだが、ボクの記憶違いだろうか。

 

佐世保-2

接岸した佐丗保ではきれいな海にクラゲがいっぱい泳いでいた。

上陸した引き揚げ者が入る収容所に着くまでに、幾人もの子供の浮浪者を目にした。

戦災児に違いないと思えた。

ひとまず腰を下ろしたのはだだっ広い倉庫のような場所で、

大きな桶のような物が置いてあり、

味噌汁らしい物がたっぷり入っていたように覚えている。

 
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残像(3)長浜のあんしゃんの家

2018-03-19 | 記憶の切れ端

 

 

福岡県八女郡の祖母の兄の家に落ち着いた。

隣町に自宅があったが、満州に移住している間は貸家にしてあり、

明け渡しに数ヶ月かかったようだ。

祖母の兄一家はこの地で標準的な農家で、牛馬、犬もいて、みそ醤油も自家製で、

土間には大きな筵織り機があった。

当時の農作業で使われた機具類が殆どそろっていた。

到着した頃は、ボクには九州弁が全く理解できず、

祖母や母が自由に話す姿を不思議に思った。

 

牛、馬、犬、納屋と蛇

はじめて馬の手綱を持ったとき、僕が、歩くといつまでも馬が付いて来るので、

ボクは次第に恐くなって慌て始めた。泣き顔になっていたかもしれない。

そんな光景を見て祖母の兄はボクをからかい、面白がっていた。

何かの拍子に叱られて納屋に閉じ込められた。蛇がいるぞと脅された。

納屋の中は、

土臭く、黴の匂いのような、もろもろ乾燥したような特別の空気が感じられた。

祖母の兄は寡黙だったが、いつも優しい目をしていた。

 

月とリヤカー

自宅に引っ越した後も、祖母は食料を得るためにたびたび兄の家を訪れた。

祖母とその兄は仲が良かった。

行くたびにボクと妹は祖母の引くリヤかーに乗っていた。

今思えば、3キロちょっとの道のりだが、小学一年前後のボクには遠かった。

帰りはいつも夜で、眠たさもあり、空にある月がいつまでも離れないので、

帰り道をいっそう遠く感じたものだ。

 

市場の花屋

父は出征したままシベリアに抑留されていたので、

生計のために母は露店の花屋を始めた。

町の中ほどにある神社の境内が急造の市場になると、その一角で小さな花屋を続けた。

あの困難時代になぜ花屋だったのかわからない。花の卸屋に知り合いでもいたのか? 

花の売れ行きはわからないが、母はきわめて社交的で楽しく市場生活をしていたように思う。

この市場はボクの遊び場でもあった。

ある初夏、神社の樹木に毛虫が異常発生し、無数の毛虫が地上をも這い回り、

とても気味が悪かったことを記憶している

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残像(4) ばあちゃんのまんじゅう、船焼き

2018-03-19 | 記憶の切れ端

 

戦後しばらくの間、子供のおやつなど気の利いたものなど有る分けない。

根っからの百姓女だったばあちゃんは、

腹を空かした孫たちにあれこれおやつを作ってくれた。

さつまいを輪切りに小麦粉の衣を着せて蒸かした芋まんじゅうや、

薄めに溶いた小麦粉に少し塩味をつけ、フライパンに薄く円形に伸ばしただけの、

ふな焼きと呼んでいた。具がない素朴なクレープだ。

 

ばあチャンのおっぱい

ボクは小学校の低学年の頃まで、

ばあちゃんのおっぱいをしゃぶっていたような記憶がある。

甘えん坊ではなかったはずで、なんでそんな大きくなってもと

自分のことながら思い出すたびに不思議に思える。

幼年時に欠かせない肉親との接触欲を祖母の胸で満たしていたのだろう。

 

ばあちゃんのキュウリと小菊

小学校低学年の頃だったと思うが、ボクの右肘にイボが出来た時、

ばあちゃんが庭の隅の畑からキュウリをモギって二つに切ると、

一方の切り口をボクの肘のイボにしばらくこすりつけた後、

切ったキュウリをもとの通りくっつけて、畑の土にキュウリの頭を少し出す格好で埋め

てしまった。こうするとイボが取れるというのだ。もちろんイボは取れなかった。

別には、

丸坊主のボクの頭髪の色が薄めだと言って、庭のひな菊を何本かひねって来ると、

その葉をちぎってもみ始めた。

ばあちゃんは、べちゃついたその葉っぱと汁をボクの頭にたっぷりと塗り付けた。

うーん、これも効果があったとは思えない。

ほかにも、ばあちゃんが知っていたおまじないがたくさんあったようにおもう。

 
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残像(5)走ることが・・

2018-03-19 | 記憶の切れ端

 

小学校時代、僕は走ることに劣っていた。

幼児のころ罹ったひどい百日咳の予後が響いて、体力が充分でなかった。

記憶にあることで言えば、

4年生になったころでも運動場を一周する走りができなかった。

後年、高校生になってその頃の僕を知る友達に会ったとき、

すっかり登山好きになっていた僕を見て、非常に驚いていた。

心肺力に劣っていたと思うが、

敏捷な動きとか、鉄棒やマット運動などは人より得意だったので、

劣等感を持つようなことはなくてすんだ。

しかし、持続的に走れるようになったのはずっと後になってからだ。

 

身体の弱い子のクラス

小学生の前半、僕は身体が弱い子のクラスに入れられていた。

6クラスあって、内1クラスがそうなっていた。

同じクラスのほかの友達の体の具合がどうだったのか全く覚えていないし、

特別にそうした意図のクラスでなかったかもしれない。

とにかく、ぼくはそう思い込んでいた。

そして思い出すのが、太陽灯の部屋だ、

正しくはどういう名前が付いていたのだろうか。

学校の一隅に六角形の形をした建物があって、窓はなく中は8畳ほど、

壁に沿ってぐるりと座れるように

なっていた。座ると間もなく電灯が紫色の光りに変わるのだ。

その紫光線に満ちた中で30分ぐらい座るのだ。

僕をいれて数名が週に2回ほど定期的にその光線を浴びていた。

あれはオゾンか紫外線だったのだろう、どんな効果があったのか、

親がオプション費用らしいものを払っていたのか、

なぜあんな設備があの小学校にあったのか、不思議でならない。

このことは一部の生徒しか経験していないので、

かつての同級生で記憶している人がいないだろう

 

太陽と布団と屋根の上

僕の家は二階屋で、表を国道に面し、

真裏は庭と祖母が手を入れている小さな畑があった。

庭に張り出した台所の屋根は、

二階から布団を出して干すのに具合のいいスペースだった。

めいっぱい陽射しを吸い込んでいる屋根の上のフトンに、僕はよく大の字になった。

フトンに顔を沈めると、太陽の温かさを吸った匂いがほんわりと包んでくれる。

堪らなく気持ちがいい。

なんと優しく、安らぐ時間であることか。

大の字を空に委ねると、遠い青い空と白い雲の流れに気持ちが溶けこんでいく。

もう頭は呆然として、思考は消え、ただただほんわりと浮遊する

 
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残像(6)こどものけんか

2018-03-19 | 記憶の切れ端

 

体力が弱めの僕だったけど、思い出せるケンカが二つある。

小学校2年ころ。

近所の子たちと道路で輪になって、パッチ(メンコ)に興じている時に、

ちょっと評判の良くない一つ年下の子がズルをした。

我慢できなくてぼくは強い文句を言った。

その子の反応はしばらく後にやってきた。

地面のゲームの成り行きに夢中であるから、皆下を向いてる。

僕もそうだった。その子は両手で抱えるほどの石で、僕の頭をガンと殴ったのだ。

あれは痛かった。

そんなスキをつかれるとも、そんなに怒ってるとは思ってもいなかった。

当時、そんな卑怯な攻撃は誰もやらなかったから、よく憶えている。

 

けんかと下駄

もうひとつは、小学校の運動場の片隅での出来事だ。

僕ら何人かと一つ上級生の何人かと、場所の取り合いでもめたことがあった。

大げさに言えば、集団ケンカの場面である。

小学生にとって1年違いは、とても大きい。敵わない相手である。

その時、彼らの一人の言うことをとても腹立たしく感じたのだろうか、

体力のない僕がとても我慢できずに、上級生に向かってしまった。

当然上級性有利である。

何を思ったか僕はとっさに自分の下駄を脱いで、

思いっ切り相手の頭を殴ってしまった。

子供のけんかに下駄はいわば定番、最強の武器であった。

相手が泣き顔になり、形勢が逆転、上級生たちはひるんで、なし崩しに散って行った。

仕返しされるかもしれないと思いながらも、なんだと思ったものだ。子供の喧嘩だ。

 
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残像(7) 長馬(ながうま)

2018-03-19 | 記憶の切れ端

7)裸足の小学生

 

凍えた足先

冬になると、子供の手足はしもやけになっていた。

破れた足袋や手袋が当たり前の時代。

教室の暖房なんてあるわけない。

しもやけになった手や足の指がかゆい。

寒い日の教室では、陽のあたる場所に集まっては、

寄り添って踵だけで足踏みしていた。

 

寒い期間、男子生徒が夢中になったのが長馬だ。

休み時間になると運動場に飛び出し、参加者を2分し、一方の一人が、

校舎の壁とか立ち木を背に、脚を広げた立姿になる。

その生徒の股ぐらに同じチームの誰かが首を突っ込み馬の背を作る、

その馬の股ぐらに次の者がまた首を入れる、その分だけ馬の背が伸びる、

同じく次から次に馬の背を長くしていく。

つまり参加者が多いほど馬の背は長い。

一方のグループは乗馬する側で、長くなった馬の背に後ろから走り来て、

なるべく背の前の方に飛び乗るのだ。

馬の背が長いほど難しく、面白い。長ければ長いほど勢いが必要で、

受ける背の方の衝撃が大きい。

耐えて馬の背を崩さないようにするのが馬組の仕事だ。

乗り手で落馬すれば脱落だ。

乗り手組は長い馬の背になるべく衝撃を加えながら崩すしにかかるゲームである。

中には自分の尾てい骨が馬の背に衝撃を与える飛び方を工夫する者もでる。

全員が飛び乗っても馬が崩れなかったら、馬組の勝ちだ。これを交互に繰り返す。

双方ともこれはなかなかの運動になり、寒さを忘れる。

ボクは強い体躯ではなかったが、軽業的なことは得意で、好んで参加していた。

 
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残像(8)初めての自転車

2018-03-19 | 記憶の切れ端

 

 小学校の2年か3年かはっきりしないが、子供用の自転車を母が手に入れてくれた。

敗戦直後だから、自転車を持っている子なんて滅多にいなかった。

まして父が復員しておらず、

その日暮らしに近かった頃なのに、どうして自転車を持てたのかはわからない。

新品ではなかった。タイヤは空気が入るものでなくタイヤ状のゴムの輪だった。

それでも遊び友達にも喜ばれた。

僕は自転車乗りを覚えてしばらくは得意がっていたと思うが、

他人よりいいものを持っていることがなんだか悪い気がして、

誰にでも快く貸していた。

いつしか誰に貸したままか、自分のところに帰ってこなくなった。

母も大いに怒るわけでもなく、お前は人がイイからねえ・・と言われたことは憶えている。

 

ジープの排気ガスの匂い

僕の家は国道に面していて、進駐軍のトラックやジープが燧なしに通っていた。

田舎町の子供にとって異邦人ほど珍しく思えるものはない。

国道とはいえ町中を抜けるとき、こうした車列もずいぶんスピードを落としていた。

長い車列のときもあれば、2,3台の事もある。

子供の脚でも2,30メートルはジープの後ろをついて走ることができた。

わーと言って車列の後ろに走りこむのだ。

進駐軍が珍しいし、自分たちと違う顔をもった米兵を見たいのだ。なにしろ外国人だ。

ましてや荷役馬車や木炭車が日常的な光景なんだから、ジープは格好イイ。

ぼくはジープの排気ガスの臭いが好きだった。

違う世界に誘われる気がするのである

米兵にギブミーチョコレートと言った記憶はない。

そんな言葉を知るほど情報がはいる町ではなかった。

でもチョコレートや甘いものをジープから受け取ったことは何度もある。

その味がどうだったのか、なにも覚えてない。

 

 
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残像(9)勝子先生

2018-03-19 | 記憶の切れ端

 

小学2年と3年時の担当教師福山勝子先生を、ボクは忘れることが出来ない。

敗戦直後のことで、彼女は教員の不足を補う代用教員だった。

大学を卒業するかしないかの年齢であったろうと思う。 

ボクはこのきれいな先生が大好きで、幼いながらうっとりした初めての女性だった。

勝子先生からはかなりえこひいきに可愛がられた。

みんなが帰った教室で、ボクは答案用紙の点数をつけている先生の膝に抱かれて、

一緒に答案用紙を見ていたりした。

そういう折に嗅いだ勝子先生の化粧の匂いが、

この後も長い間、女性の匂いとして甘くボクの嗅覚の記憶に残っていた。

先生がくれた手編み手袋からも同じ匂いを感じて、そっと顔に当てていた。

先生の家を一度だけ尋ねたことがある。

同級生が知らない秘密の場所に入り込んだような心地がした。

先生は母親と二人暮らしで、そのお母さんも同じく優しかった。

多分、ボクは10歳以上違うこの美しい先生に、初めての恋をしていたのだと思う。

4年生になると、クラスも担任の先生も変わった。

勝子先生は学校を辞め、ボクは新しいクラスを楽しんでいた。

間もなくして、ボクの勝子先生がどこかの会社員と結婚したとの話を耳にした。

その後もずっと長い間、勝子先生のおしろいの匂いの記憶だけはボクに残った。

 

いつも努力賞

小学校高学年になると、学期ごとにクラスの優秀賞と努力賞が発表されていた。

優秀賞は、いわば金メダル、努力賞は銀や銅にあたり上位5番目ぐらいまでだった。

当時のこと、どのクラスも60名ほど生徒がいた。

ボクは一度も優秀賞をもらったことがない。もらえるものだと思ったこともない。

いつも努力賞だった。

これでも悪くないんだが、何かしらそれが自分の限界のような気がしていた。

みんな予習復習なんてしてなかったと思うし、宿題のほか何もやった覚えがない。

一番にはなれないんだからという諦観のようなことを自身で承服していた。

ただ、努力賞ポジションは居心地がイイのだ

一番のように目立つこともなかったし、リスペクトされる期待はできなかったけれど、

侮られたり軽い扱いを受けることもなく、

何事にも臆することなく過ごせるグッドな環境なのだ。

こうした身のおき方は、何かボクの先行きを暗示していたのかも知れなかった。

今ひとつ欲に欠けているとの自覚があるが、とかく楽観的で、気楽に過ぎる性分に落ち着いてしまったようだ。

 

横溝先生

4年から卒業までの担任は横溝先生だ。

もう下の名前を思い出せない。

学徒訓練を受けた世代で、教師になって間もない先生だった。

一番の仲良しにボクより成績が上の紙問屋の順三がいた。

ボクには裕福な紙問屋に思えた。彼の家には入り浸りで、

風呂も夕食も何度となくお世話になっていた。

昔ながらの奥行きの深い商家で、この家の間取りをぼんやり思い出せる。

一番奥の殆ど使われていない中2階の部屋で遊んだり、

裏の敷地にあったグミの実を摘まんだりしていた記憶がある。

 

この順三とボクは横溝先生に可愛がられた。

先生が当直の夜は二人で当直室に遊びにいき、将棋を差したりしていた。

帰り道は順三と方向が違い、一人で真っ暗い運動場を通りぬけなければならない。

当時のことだから、

街灯など整備されていず、家々から漏れる明かりさえ薄っすらである。

月のない夜はほぼ真っ暗だ。運動場の真ん中を急ぎ足で過ぎて、

小さな橋を渡って商店街方向に抜けていくのがボクの帰り道。

その橋の脇にには大きな柳の木が並んでおり、昔ここに馬の骨がぶら下がっていたと

聞いたことがあるので、見るまいと思いながらも

つい恐々に揺れる柳を見ながら渡っていた。

 

先生の家は隣村の農家だったので、田植えの時期に、順三と二人して手伝いにいった。

二人とも町の子供で、田植えは初めて、

水田の土が裸足の指の間をぬるりと抜ける感触が妙に心地よかった。

その夜は泊まることにし、先生の部屋に三人並んで寝た。

朝起きて布団をたたむとき、

先生が毛布の四隅をきちんと合わせて手早く畳んだのを見て、

先生の意外な一面を見た思いだった。

教師とはいえ農家の青年がそうしたことに神経を配るのは、らしくなかったからだ。

きっと学徒訓練でそういうことを身につけたに違いない。

 

順三とは別の中学に進み、次第に疎遠になった。

彼の家は紙問屋をたたみ家も人手に渡ったと、ずいぶん後に耳にした。

何年も後になって、かの先生の近況を誰かに訊ねたら、体罰を与える教師という

良くない評判を聞いた。終戦から少し時を経たので、親たちにも学校の子供に目が届く

余裕が出来たのだろうか。

 

T先生に喰らったべろべろ事件

小学校は、中庭を挟んで、3棟が並列した木造校舎でうち一棟は2階建て、

明治時代に建てられたものであった。

それぞれの棟を2本の渡り廊下で連絡していた。

どの廊下も広くピカピカ光っていた。 運動場が、3並列校舎を挟んで二つ。 

威厳を感じさせる堂々とた講堂が別建てであった。

春先の暖かい日、この講堂を大勢でのにぎやかな拭き掃除が終わって、

三々五々に散り始めた時、

指揮していた50年配の男の先生に僕はふっと抱き上げられ、ほっぺたをベロッとなめら

れた。 するめをグチャグチャに噛んだような匂いがして、とても嫌な気持ちだった。

それまで近付いたこともない先生で、何のためかまったく判らずびっくりした。

何か大人の隠れた姿をホッペタに感じたが、不快さを隠して急ぎ皆の後を追った。

 

卒業式の校長先生の訓話

小学校の卒業式で覚えていることが二つある。

仰げば尊し・・の斉唱にとてもジンときて、得も言われぬ浮遊感を覚えたこと。 

それに、大塚校長先生の訓示だ。

「良いことも悪いことも、自分が行ったことは必ず自分に返ってくる。

それを自分で受け止めなければならない。それが自立ということだ・・」

そんな内容だったと思うが、とても解りやすく心に入っていった。 

 
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残像(10)遠足のウンチ堪え

2018-03-19 | 記憶の切れ端

 

 野屎の経験はいくつもあるけど、

そんなときは大体、手近な草の葉っぱで拭いていた。

当時、遊びに行く時に紙を携帯して遊んでいるような準備のいい子供などいやしない。

草の葉っぱできれいに拭けたかどうかは怪しいが、やるだけのことをしたと、

それなりの始末に納得していたのだ.

毎日の排便ルーティンが定まっていない少年にとって、

突然やってくる強制的な排便感には敵わない。

しかも、遠足の途中にその気配が迫ってきた時ほど参ったことはない。

漏らすなんてみんなに知れることは、恥ずかしくて生きていけない思いだ。

長めの細い石を拾ってポケットに入れておくと良い・・なんていうおマジナイを

試しても、効果があるはずもなく、もう泣きそうな顔で、そろそろ歩くばかりだ。

お昼弁当を開く休憩に、いち早く人に隠れて草むらに走ることになる。

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残像(11)竹馬

2018-03-19 | 記憶の切れ端

 

 

一時、竹馬乗りが盛んにになったことがある。

当時そんなものは売り物ではなく、誰のものもお手製であった。

大人に作ってもらった子もいたが、ボクの家は女ばかりで手を貸してくれるはずもない

し、工作ごとが嫌いじゃなかったので、自分で作った。

身の丈よりずっと長い丸竹を2本と足の乗せ場に使う竹と藁縄があればよかった。

足のせ用には、長さ50センチほどの竹を割って真ん中を炙りながら両端がくっつく位に

曲げ、間に余った竹を挟んで荒縄をぐるぐるに巻く、その足場が下に滑らないようにし

て、出来上がりだ。

竹馬乗りはすでに上手に出来ていたから、足場は自分の胸ぐらいに高くした。

裸足で乗る。

何かを台にしないと竹馬にのれないし、転べば高い分痛い思いをするのだが、

これに乗ると目線がとても高くなり、どこを歩いも新鮮だった。

いろんな場所を歩き、少し走ってみたり、ひと通り上手く動き回れるようになって、

竹馬乗りに飽きるまでにそう日にちはかからなかった。子供はすぐ飽きる。

 

ゴム鉄砲と水鉄砲

これも自分で作った。見様見真似でも構造が簡単だし小学生といえ大した苦労なく製作できる。ゴム鉄砲は、割り箸と輪ゴムを材料に、ピストル様の形に組む。

先端と引き金部に弾となる輪ゴムを張渡し、引き金を引く。それで 3、4mは飛んだものだ。

この工作で肥後守を使っているときに、

刃先が滑って右手人差し指の第二関節のあたりを2センチほど削いでしまった。

剥けた皮を慌てて被せて押さえたが、どくどくとした痛みがしばらく続いた。

母親によって、人差し指は赤チンを塗った包帯ぐるぐる巻いたぶざまな姿に変わった。

この時来てくれた医師が注射を打ってくれたのだが、

普段は注射を怖がらない僕なのに、この時ばかりはひどくイヤがった。

いま射さんとする注射器に空気が混じっていたのを見てとったのである。

空気を注射すると人間は死ぬと誰かが言っていたのを思い出したのだ。

と言って、そのことを医者にも母親にも言い出す勇気がなく、

ただただ、無図がるばかりで母親を困らせてしまった。

が、結果は何事もなく終わった。その程度の空気では何の支障もないということは、

ずっと後になって知ったのだ。

 

水鉄砲作りはもっと簡単だ。長さ30センチほどの竹の一方の節を落とし、

もう一方の節の真ん中に箸の先端ほどの穴をあけると、筒の完成である。

次に押し出し棒の先端に、筒の水が漏れ出さない太さにボロきれなどを巻いて留めれば

これも完成、

筒に水を入れて押し出すとイイ勢いで線状の水が飛び出す。

どれも簡単とはいえ、作る過程があってこそこういう遊びは面白い。

傷だって戒めになる。出来の良し悪しを見せあっては自慢したり、

出来のイイ他人のモノを羨ましく思ったりするのだ。

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残像(12)材木屋でのかくれんぼ

2018-03-19 | 記憶の切れ端

  

学校が終わると近所の子供が6、7人集まり、

近所の大きな敷地を持った材木屋でかくれんぼをするゲームにしばらく熱中した。

学校が終わるのが待ち遠しいほど、わくわくする隠れんぼだった。

今思えば、よくその場の大人たちに怒鳴られなかったものだ。

大きく積み上げられた材木の山の間に身を隠し、隙間から情勢を窺い、

木くずの匂いを嗅ぎ、駆け抜け・・、  こんなことが無性に楽しかった。

広い敷地を縦横に動き回った。

時には、棒切れをつかんでチャンバラに興じ、風呂敷のマントでヒーローにもなった。

あれはそれなりに心弾む冒険ごとだったのだろう。

 

火事に走る

小さな町だ、めったにないことだが、消防のサイレンが鳴ったりすると、

遊んでいた僕らは一斉に興奮した、どこだどこだ・・

あっちの方だとなると、夢中でドタドタと駆けだしていた。

だれが一緒に走っているのかも気にせず、どんどん走る。

知らず知らずにとなりの村まで行ってしまったこともある。

そのときは鶏小屋が火事の現場だった。もう火は消えていた。

しばらくして周りを見ると見知った顔が誰もいない。

ふっと帰り道のことが心配になり始める。

興奮がすっかり冷めて、ひとりトボトボと歩く帰り道の寂しさ、

そしてその遠かったこと・・。 

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残像(13)小学校・木造校舎の中3階

2018-03-19 | 記憶の切れ端

 

学校には、威厳を感じさせる堂々とした講堂が別建てであった。

 

上級生になると講堂の隣校舎2階の教室に移った。

2階への階段が校舎両端にあって、彫刻が施された手すりが、

踊り場のところで流れるような曲線になっていて、

子供の目にもその形は気持ちよく、撫でながら上り下りしていた。

この校舎の両端に中3階に半ば倉庫化していたが、

西洋風な雰囲気で秘密に独占したくなる小部屋もあった。

 

講堂の舞台裏探検

古くて貫禄のあるどっしりとした講堂だった。

入り口の厚い木の扉さえ、威厳を現していた。中へ入ると、

ぴかぴかの板張り床がどこまでも広くて感じられ、壇上は遠くに見えた。

窓際も壁際も四方は腰高の板張りになっていて、

そこさえもよく磨かれ光りを放っている。

教室全員で、わーっと一斉に雑巾がけをしていた光景が目に浮かんでくる。

 

この堂々とした講堂に、

僕らが発見した秘密の冒険ルートがあった。

舞台の裏廊下には出演者用の控え室が数室並んでいて、行事でも予定されてない限り、

そこに人が入って来る事は滅多になかった。 

あるとき、僕らはその裏廊下と舞台の背景壁の間に、

細身の子供の身体がやっと入るような隙間があることを発見した。

体をよじってそこから潜り込むと、

そこは天井裏などにも通じる吹き抜け状になっていた。

その先にこそ、先生たちが気づいていない未開の探索エリアがあったのである。

縦横に走った構造材をよじ登る秘密っぽさ、登りきると講堂の天井裏が広がっていた。

控え室や講堂の広い天井裏を匍匐で這った。迷路なればこそ心を騒がせてくれる。

僕は軽業的な動きを好み、こうした冒険には臆することなく参加していた。 

こうして僕らは、この堂々とした講堂の裏の姿を知ることになったのだ。

そこは、荒削りの材木が様々に走っている、埃臭いばかりのがらんどうであった。

放課後などに、

数人で秘密を共有し、飽きずに忍者のごとく蠢き回って面白がっていた

天井板が破れたら落下して大けがしたに違いない。

僕たちにはそういう注意力より、冒険心がはるかに勝っていた。

今の時代、父兄たちに気づかれでもしたら、

目くじらを立てて学校を責めるに違いない。

時がどうあれ、少年少女は秘密の探検エリアを目指すべきだ。

 
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残像(14)大きな墓地

2018-03-19 | 記憶の切れ端

 

 

ボクが住んでいた町は、掘割の跡からわずかにそれと分かる小さな城下町で 、

古風な家並も中心地域に固まって遺っていた。

この小さな町に、不思議なほど広い墓地が町の北側にあって、

近くに住む子供たちの絶好の遊び場でになっていた。

広めの場所では、三角ベースの野球を盛んにやっていた。

敗戦直後で野球具は質素である。

布のグローブ、手製の布ボール、バットに似せた棒切れ、塁ベースは何でも良かった。

また、この墓地は隠れんぼにも絶好で身を隠す場所に困らない。

高いところから飛び比べをするにも困らないほど大構えの墓が多くあった。

墓石の間を這い回る蛇を見つけると、当たろうが当たるまいが石を投げて追い回し、

蛇の尻尾を掴んでグルグル回して、仲間に投げたりもするのだ。

 

ある時、墓場を走り回っていて、

大きな墓の陰にしゃがみ込んでいる大人の男女に出くわした・・、

女の手に注射器があった。

ヒロポンだと子供ながら直感した。その女の顔に見覚えがあった。

きっと電車駅前のあの店の人だ・・。

ムク鳥の大群が空を埋める夕刻まで、この墓地で僕らは遊んでいた。

 

今でもこの墓地で見かけた様々な墓の形を思い出せる。

こんなバラエティーに富んでいた墓の集まった墓地に、この歳になっても出くわしこと

がない。青山墓地でも見かけない。

墓地の区画はかなり不規則で、墓の姿が一様ではなかった。

三階建ての上に塔が有るもの

間口2間ほどの長方形の建物に鉄の扉があるもの、

4m高の塔に十字架が乗ったもの、

階段を上がると墓標の前が子供が遊べるほど広いポーチになっているもの、

大きな楠の大枝に襲われている墓、はぜの木に両側から挟まれている墓、

様々な形をした大きな墓が小さな墓に混じってあり、

朽ち果てたものも、傾きかけたものもなど、

墓石の今昔、まるで墓デザインの博覧会場ようでもあったろうか。

なぜあの小さな町にあんな大きな墓地があったのか・・・。

この墓場で遊び慣れていた僕は、あらかた目立つ形の墓の探索を終えていた。

こわごわ塔に上ったこともあるし、大きな鉄の扉を開けて中に入ったことも有る。

楠の太い枝から十字架の塔に渡ったことも有る。

骨壺がどういう風に収まっているかも見ている。

リンがうす青く頼りなく燃えるのを見たことも有る。

以前に覗いた骨壺から、金歯が消えていて驚いたこともあった。

薄闇のなか墓地を抜けて帰ることも平気になっていた。

中学生になると、この墓地での遊びはすっかり終わった。

次の世界が待っていたのである。

この町を離れて50年を超える。

町の開発によってこの墓地はとうの昔にどこかへ移転したそうだ。

今は公園と駐車場になっている。

あの多彩な墓石群も消えてしまったことだろう。

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残像(15)祭りのサーカス小屋

2018-03-19 | 記憶の切れ端

 

 

祭りで思い出すのは、

9月の八朔祭の折に矢部川の河原に出現したサーカス小屋だ。

大音響の「天然の美」のジンタには毎度興奮した。

また夢を運んで来てくれたのだ。

別世界が待っていてくれるようで、自然に気持ちが高ぶってきたものだ。

今でもあの響きを耳にすると、あの河原のサーカスの光景が浮かんでくる。

そのサーカス小屋の並びには、決まり事のように幾つもの出し物小屋が並んでいた。

蛇娘とか、ろくろっ首娘とか、ばらまいたガラス破片の上で寝る男とか、

もろもろの異様な小屋があった。

どれも子供心にも見破れる怪しいゲテモノばかりだった。

それでも入って見たものだ。そしてやっぱり・・と、がっかりして出口に向かう。

 

祭りの大道ゲーム

カーバイトの灯に照らされた夜店がずらりと並ぶ中、

畳1枚ほどの台に小ぶりなゲームを乗せただけの露店もある。

賞品のおもちゃ目当ての子供の射幸心を煽る商売だ。

ゲーム屋のオヤジはだいたい胡乱な中年のおっちゃんだ。

その口上に警戒しながらも、その粗末なゲームに僕は幾たびも乗せられてしまった。

もしかして当たる・・と思ってしまう下心は、毎度すぐに打ち砕かれてしまう。

判っているはずなのに、やっぱりいつも結果はスカだ。

ばあちゃんが呉れたわずかな小遣いが、おっちゃんの手に消えていく。

こうして、少年は、世の中にうまい話なんかないと、何度も噛みしめさせられた。

この通過儀礼こそ、世間の騙しに負けないために、少年時代に欠かせない学習だ。

だから、夜店のゲームはすばらしい。

 

祭りの帰り道が遠い

祭りの帰りは、自分の眼前から楽しいことが一切消えてしまう、寂しい気分だ。

また同じような時間がやってくるのは、ずっとずっとずっと先のことだからだ。

離れた隣町の祭りに行ったときはなおさら、帰り道の心は空っぽになっている。

帰り道は2kmぐらいだったろう、大人からすればわずかな距離だが、

興奮で疲れた子供には楽ではない。

ましてや、友達とはぐれてしまってたりするとすっかりとぼとぼ。

あるときなど、途中でうんこをしたくなり、その帰り道がとても苦しく長かったこと。

 

どさ回りの芝居小屋

祭りの時など、

街角のちょっとした広場や、神社の境内にどさ回りの芝居小屋が出来た。

丸太を組んでござや筵で囲い、その上に派手な一座の舞台幕や幟で化粧した舞台である。

雨が降らないことを祈るばかりだ。

入場の仕切りなどなかったので、祭り主催側から興行料が出ていたのだろう。

演目がなんであれ、娯楽の少ない時代だから、観客はいつも大勢いた。

子供には、日頃と違う賑やかさがとてつもなく楽しい。

夜店で手に入れた何かしらを口に入れるだけで、もう別世界なんである。

夜店のなかには、口上巧みな露天商人がいろいろ出張っている。

そのころ、軟膏売りや万年筆売りが定番のようにいた。

軟膏売りは自分の腕を蛇に噛ませて、ただちに軟膏で傷口を治すと言うけど、

いくら待っても蛇に噛ませないし、火事に焼けだされたばかりと宣う万年筆売りは、

手元に置いた泥の中から万年筆を拾い出し、ピカピカに磨いては、

外国製の高級品が嘘みたいな値段だと宣っている。

ぼくはいつも一番前に首を出して、いつまでも飽きずに見ていた。

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