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世態迷想・今日の私は昨日より新しい 

あれやこれや書き溜め・・
   徒然の思いは尽きもせず

残像(1)霞の向こうに記憶の断片

2018-03-19 | 記憶の切れ端

 

新京の残像-

1941年の春、私は新京(長春)で生まれ、4歳までここで育った。

(中国東北部、かつての満州国の首都)

 道幅の広い大通りを花電車が走っていた。

初めて花電車というものを見た。

正面をいっぱいの花で飾った路面電車が通りすぎていく。

それを横目に、大通り沿いの大きな病院の玄関をくぐった。

産まれたばかりの弟を見に連れて来られたのだ。

病院の廊下は長く暗かったが、逆光で床が光っていた。

前を行く家族の後ろ姿の陰を追うように、

僕と妹は手をつないで歩いていった。そんな光景が朧にある。

 

満人の穴居

鍋底のような形で、高さ4メートルぐらいだろうか、

小さな小さな山のような土盛り住居である。

何処かに空気が抜ける穴があるのだろうが、

見えていた出入り口はひとつだけ。

幅が半間ほど、高さは人が不自由なく通れる大きさだった

と思う。幼かったので記憶はとてもぼんやりだ。

その前を通ったとき、

入り口に綿入りのマント状の中国服を着た弁髪の男が立っていて、

こちらを睨んでいるように思えた。彼の中国服は汚れて黒光りしていた。

 

自転車部隊

父は満映でニュース映画の制作に携わっていた。

ボクの家族は新京市の郊外に住んでいた。

2階建て2戸続きに石作りの同じ家が連なり、

コの字型に住宅棟が並んだ集合住宅である。 

住民の大半は日本人家族であった。

その住宅地前の大きな道路を、

日本軍の自転車部隊が通り過ぎて行くのを遠目に見た。

そんな部隊が実在したのか分からないが、僕にはそう見えた。

 

結婚式

この集合住宅域に満州人も住んでいたのだと思う。或るとき、

住宅地内の道路に赤い敷物が敷かれ、

その上を華やかに進んでくる花嫁さんの行列を見た覚えがある。

 

母の外国語?

在留5年?ほどの新京の生活で 母は流暢に中国語を話していたような気がする。

子供心にそう思えただけかもしれない。

片言の日常用の中国語だったろうか。

 

父の出征

敗戦の色濃い終戦の数ヶ月前、父が最も遅い徴集を受け、出兵した。

路面電車の安全地帯で、出征する父を母たちと見送った。

ほどなく敗戦、 捕虜となった父はシベリアに抑留され、

復員したのは昭和23年だった。

徴兵されが、小隊全員に銃がゆきわたったことなど一度も無かったと言っていた。

とっくに日本軍の兵站は崩壊していたのだ。

 

防空壕

コの字型住宅団地の広場に大きな防空壕があった。

空襲でその中に潜った。

入り口には扉の代わりに厚くて黒っぽく汚れた布団がかけられていた。

 

ロシア兵

敗戦直後、僕らの住宅地にもロシア兵が沢山来た。

そこにいた日本の大人達は強奪や暴行の恐怖で一杯だったと思うが、

4歳ほどの僕がそれを知ることもなく、兵士達を怖れた記憶もない。

一人のロシア兵が僕の弟を抱き上げてあやしていた。

1歳にも満たぬ弟が怖がるはずもなかった。

その兵士は腕に腕時計を何個も付けていた。略奪品のようだ。

僕は何でたくさん腕時計がいるのかと不思議がったら、7つ年上の姉が、

ロシア兵は止まった時計のネジの巻き方を知らないから、幾つも欲しがるのよ、

と言うので、僕は納得した。

 

 弟の死 一歳の弟が結核性脳膜炎でなくなった。

中国北部から縁戚の女性が避難して来て、我が家に居候していた。

その女性が結核を患っていたことを僕の家族は気づかず、

乳飲み児の弟の子守をして貰っていた。弟はすぐ感染した。

しかも弟の初期症状の時、医師が風邪と誤診した事も響いて、

手遅れになってしまった。

母たちが弟の亡骸をきれいにして納棺する様子を、

妹と家の外から窓越しに笑いながら見ていた。

満州から引き揚げる時、

母は亡くなった次男の遺骨をどうしても日本に連れて帰りたかった。

混乱時に土葬の国で遺骨にするには大変な費用がかかったという。

800円だ。引き揚げを目前にした家族にはとても大きな出費であった。

 

引き揚げ-1   土葬のまんじゅう 

新京を出た満鉄の引き揚げ列車は、

眼を遮るものがない中国東北部の平原を数日間、果てしなく走り続けた。

混乱期でダイヤ通りに走れる状況ではなかったが、

日本海を望む港まで1000kmを進まなければ、引き揚げ船に乗れない。

引揚家族で溢れたこの列車は、無蓋車は言うに及ばす屋根付き車両も全て貨車だった。

誰しも乗り心地なぞ問う状況でなく一刻も早くこの地を離れ、

日本に帰りつきたい一心である。

どこまでも景色が変わらず延々と続く荒野のまっただ中を、

引き揚げ列車が進んでは止まりを繰り返していた。

ときおり、通り過ぎる荒野の風景のなかにポツン、ポツンと土盛りが目に映った、

土葬の後だ、こんなに辺鄙な不毛の荒野を訪れる人があるとは思えなかった。

埋められた人間も、埋めた人間さえ、どんな記録にも残らないのだろう。

土を盛られておしまい。さようならだ。寂しい風景だった。

 

引揚げ-2  映画館

何かの事情か一旦列車を降ろされ、大勢の日本人集団は雨宿りをかねて映画館に入った。

家族を引き連れている大人たちにスクリーンを見る気持ちの余裕などあるはずもなく、

列車に戻る合図を待ってまんじりともせず、皆立ったままだった。

僕はその大人たちの暗い隙間で、母の袖を掴んでただぼうっと立っていた。

混雑の中しっかり手をつなぐことだけが唯一の安心だった。

敗走に近い状況であるから、引き揚げ団が確実なスケジュールを組めず、

どの引き上げ集団が効率良く移動が出来るのか、

大人達は成り行きにハラハラしていたに違いない。

先を急ぐ引き揚げ集団のうえにどんな事態が降りかかってくるか、

敗戦による混乱と脱出の焦り、大陸側のどんな集団に襲われるかも知れない。

どれ程の効果があるのか分からないが、

成熟した日本女性の殆どは頭髪を男のように短くしていた。

母もそうしていた。

 

引揚げ船

興安丸だったと思う。甲板さえ、所狭しと引き揚げ家族がいっぱいだった。

何日かかって佐世保に接岸出来たのか僕は知らない。

僕は生まれて初めての海と船に好奇心いっぱいで、

船の甲板のへりを身軽に歩いたり、

船内をはしゃぎ廻って母をハラハラさせていたという。

大人たちの深刻な思いは知らず、いつにない出来事の毎日を楽しんでいた。

 

* 長春からの引き揚げ状況について、

  僕らより遅く、長春を脱出した引き揚げ者たちの様子を、

  遠藤誉氏が克明に著している。(1984年発刊「チャーズ」)

  日本軍の敗走後、激化した毛沢東軍と蒋介石軍の苛烈な戦い

  に挟まれた引き揚げ団が身動きできないまま、過酷な状況に

  置かれた悲惨な事実をこの本で知る。

 

佐世保-1

下船の時、全員がDDTをかけられ頭髪が真っ白になっていた。

大人の男性は下半身を丸出しにして、陰部の皮膚病などを検診させられて

いたような光景を覚えているのだが、ボクの記憶違いだろうか。

 

佐世保-2

接岸した佐丗保ではきれいな海にクラゲがいっぱい泳いでいた。

引き揚げ者が入る収容所に着くまでに、幾人もの子供の浮浪者を目にした。

戦災児に違いないと思えた。

ひとまず腰を下ろしたのはだだっ広い倉庫のような場所で、

大きな桶のような物が置いてあり、

味噌汁らしい物がたっぷり入っていたように覚えている。

 
福岡県八女郡の祖母の兄の家に落ち着いた。

隣町に自宅があったが、満州に移住している間は貸家にしてあり、

明け渡しに数ヶ月かかったようだ。

祖母の兄一家はこの地で標準的な農家で、牛馬、犬もいて、

みそ醤油も自家製で、土間には大きな筵織り機があった。

当時の農作業で使われた機具類が殆どそろっていた。

到着した頃は、ボクには九州弁が全く理解できず、

祖母や母が自由に話す姿を不思議に思った。

 

牛、馬、犬、納屋と蛇

はじめて馬の手綱を持ったとき、僕が、歩くといつまでも馬が付いて来るので、

ボクは次第に恐くなって慌て始めた。泣き顔になっていたかもしれない。

そんな光景を見て祖母の兄はボクをからかい、面白がっていた。

何かの拍子に叱られて納屋に閉じ込められた。蛇がいるぞと脅された。

納屋の中は、

土臭く、黴の匂いのような、もろもろ乾燥したような特別の空気が感じられた。

祖母の兄は寡黙だったが、いつも優しい目をしていた。

 

月とリヤカー

自宅に引っ越した後も、祖母は食料を得るためにたびたび兄の家を訪れた。

祖母とその兄は仲が良かった。

行くたびにボクと妹は祖母の引くリヤかーに乗っていた。

今思えば、3キロちょっとの道のりだが、小学一年前後のボクには遠かった。

帰りはいつも夜で、眠たさもあり、空にある月がいつまでも離れないので、

帰り道をいっそう遠く感じたものだ。

 

市場の花屋

父は出征したままシベリアに抑留されていたので、

生計のために母は露店の花屋を始めた。

町の中ほどにある神社の境内が急造の市場になると、

その一角で小さな花屋を続けた。

あの困難時代になぜ花屋だったのかわからない。

花の卸屋に知り合いでもいたのか? 

花の売れ行きはわからないが、

母はきわめて社交的で楽しく市場生活をしていたように思う。

この市場はボクの遊び場でもあった。

ある初夏、神社の樹木に毛虫が異常発生し、無数の毛虫が地上をも這い回り、

とても気味が悪かったことを記憶している

 

戦後しばらくの間、子供のおやつなど気の利いたものなど有る分けない。

根っからの百姓女だったばあちゃんは、

腹を空かした孫たちにあれこれおやつを作ってくれた。

さつまいを輪切りに小麦粉の衣を着せて蒸かした芋まんじゅうや、

薄めに溶いた小麦粉に少し塩味をつけ、フライパンに薄く円形に伸ばしただけの、

ふな焼きと呼んでいた。具がない素朴なクレープだ。

 

ばあチャンのおっぱい

ボクは小学校の低学年の頃まで、

ばあちゃんのおっぱいをしゃぶっていたような記憶がある。

甘えん坊ではなかったはずで、なんでそんな大きくなってもと

自分のことながら思い出すたびに不思議に思える。

幼年時に欠かせない肉親との接触欲を祖母の胸で満たしていたのだろう。

 

ばあちゃんのキュウリと小菊

小学校低学年の頃だったと思うが、ボクの右肘にイボが出来た時、

ばあちゃんが庭の隅の畑からキュウリをモギって二つに切ると、

一方の切り口をボクの肘のイボにしばらくこすりつけた後、

切ったキュウリをもとの通りくっつけて、畑の土にキュウリの頭を

少し出す格好で埋めてしまった。こうするとイボが取れるというのだ。

もちろんイボは取れなかった。

別には、

丸坊主のボクの頭髪の色が薄めだと言って、庭のひな菊を何本かひねって来ると、

その葉をちぎってもみ始めた。

ばあちゃんは、べちゃついたその葉っぱと汁をボクの頭にたっぷりと塗り付けた。

うーん、これも効果があったとは思えない。

ほかにも、ばあちゃんが知っていたおまじないがたくさんあったようにおもう。

 

小学校時代、僕は走ることに劣っていた。

幼児のころ罹ったひどい百日咳の予後が響いて、体力が充分でなかった。

記憶にあることで言えば、

4年生になったころでも運動場を一周する走りができなかった。

後年、高校生になってその頃の僕を知る友達に会ったとき、

すっかり登山好きになっていた僕を見て、非常に驚いていた。

心肺力に劣っていたと思うが、

敏捷な動きとか、鉄棒やマット運動などは人より得意だったので、

劣等感を持つようなことはなくてすんだ。

しかし、持続的に走れるようになったのはずっと後になってからだ。

 

身体の弱い子のクラス

小学生の前半、僕は身体が弱い子のクラスに入れられていた。

6クラスあって、内1クラスがそうなっていた。

同じクラスのほかの友達の体の具合がどうだったのか全く覚えていないし、

特別にそうした意図のクラスでなかったかもしれない。

とにかく、ぼくはそう思い込んでいた。

そして思い出すのが、太陽灯の部屋だ、

正しくはどういう名前が付いていたのだろうか。

学校の一隅に六角形の形をした建物があって、窓はなく中は8畳ほど、

壁に沿ってぐるりと座れるように

なっていた。座ると間もなく電灯が紫色の光りに変わるのだ。

その紫光線に満ちた中で30分ぐらい座るのだ。

僕をいれて数名が週に2回ほど定期的にその光線を浴びていた。

あれはオゾンか紫外線だったのだろう、どんな効果があったのか、

親がオプション費用らしいものを払っていたのか、

なぜあんな設備があの小学校にあったのか、不思議でならない。

このことは一部の生徒しか経験していないので、

かつての同級生で記憶している人がいないだろう

 

太陽と布団と屋根の上

僕の家は二階屋で、表を国道に面し、

真裏は庭と祖母が手を入れている小さな畑があった。

庭に張り出した台所の屋根は、

二階から布団を出して干すのに具合のいいスペースだった。

めいっぱい陽射しを吸い込んでいる屋根の上のフトンに、僕はよく大の字になった。

フトンに顔を沈めると、太陽の温かさを吸った匂いがほんわりと包んでくれる。

堪らなく気持ちがいい。

なんと優しく、安らぐ時間であることか。

大の字を空に委ねると、遠い青い空と白い雲の流れに気持ちが溶けこんでいく。

もう頭は呆然として、思考は消え、ただただほんわりと浮遊する

 

体力が弱めの僕だったけど、思い出せるケンカが二つある。

小学校2年ころ。

近所の子たちと道路で輪になって、パッチ(メンコ)に興じている時に、

ちょっと評判の良くない一つ年下の子がズルをした。

我慢できなくてぼくは強い文句を言った。

その子の反応はしばらく後にやってきた。

地面のゲームの成り行きに夢中であるから、皆下を向いてる。

僕もそうだった。その子は両手で抱えるほどの石で、

僕の頭をガンと殴ったのだ。あれは痛かった。

そんなスキをつかれるとも、そんなに怒ってるとは思ってもいなかった。

当時、そんな卑怯な攻撃は誰もやらなかったから、よく憶えている。

 

けんかと下駄

もうひとつは、小学校の運動場の片隅での出来事だ。

僕ら何人かと一つ上級生の何人かと、場所の取り合いでもめたことがあった。

大げさに言えば、集団ケンカの場面である。

小学生にとって1年違いは、とても大きい。敵わない相手である。

その時、彼らの一人の言うことをとても腹立たしく感じたのだろうか、

体力のない僕がとても我慢できずに、上級生に向かってしまった。

当然上級性有利である。

何を思ったか僕はとっさに自分の下駄を脱いで、

思いっ切り相手の頭を殴ってしまった。

子供のけんかに下駄はいわば定番、最強の武器であった。

相手が泣き顔になり、形勢が逆転、上級生たちはひるんで、

なし崩しに散って行った。

仕返しされるかもしれないと思いながらも、なんだと思ったものだ。

子供の喧嘩だ。

 

裸足の小学生

冬になると、凍えて子供の手足はしもやけになっていた。

破れた足袋や手袋が当たり前の時代。

教室の暖房なんてあるわけない。

しもやけになった手や足の指がかゆい。

寒い日の教室では、陽のあたる場所に集まっては、

寄り添って踵だけで足踏みしていた。

 

寒い期間、男子生徒が夢中になったのが長馬だ。

休み時間になると運動場に飛び出し、参加者を2分し、一方の一人が、

校舎の壁とか立ち木を背に、脚を広げた立姿になる。

その生徒の股ぐらに同じチームの誰かが首を突っ込み馬の背を作る、

その馬の股ぐらに次の者がまた首を入れる、その分だけ馬の背が伸びる、

同じく次から次に馬の背を長くしていく。

つまり参加者が多いほど馬の背は長い。

一方のグループは乗馬する側で、長くなった馬の背に後ろから走り来て、

なるべく背の前の方に飛び乗るのだ。

馬の背が長いほど難しく、面白い。長ければ長いほど勢いが必要で、

受ける背の方の衝撃が大きい。

耐えて馬の背を崩さないようにするのが馬組の仕事だ。

乗り手で落馬すれば脱落だ。

乗り手組は長い馬の背になるべく衝撃を加えながら崩すしにかかるゲームである。

中には自分の尾てい骨が馬の背に衝撃を与える飛び方を工夫する者もでる。

全員が飛び乗っても馬が崩れなかったら、馬組の勝ちだ。これを交互に繰り返す。

双方ともこれはなかなかの運動になり、寒さを忘れる。

ボクは強い体躯ではなかったが、軽業的なことは得意で、好んで参加していた

 

自転車

 小学校の2年か3年かはっきりしないが、子供用の自転車を母が手に入れてくれた。

敗戦直後だから、自転車を持っている子なんて滅多にいなかった。

まして父が復員しておらず、

その日暮らしに近かった頃なのに、どうして自転車を持てたのかはわからない。

新品ではなかった。タイヤは空気が入るものでなくタイヤ状のゴムの輪だった。

それでも遊び友達にも喜ばれた。

僕は自転車乗りを覚えてしばらくは得意がっていたと思うが、

他人よりいいものを持っていることがなんだか悪い気がして、

誰にでも快く貸していた。

いつしか誰に貸したままか、自分のところに帰ってこなくなった。

母も大いに怒るわけでもなく、お前は人がイイからねえ・・と言われたことは憶えている。

 

ジープの排気ガスの匂い

僕の家は国道に面していて、進駐軍のトラックやジープが燧なしに通っていた。

田舎町の子供にとって異邦人ほど珍しく思えるものはない。

国道とはいえ町中を抜けるとき、こうした車列もずいぶんスピードを落としていた。

長い車列のときもあれば、2,3台の事もある。

子供の脚でも2,30メートルはジープの後ろをついて走ることができた。

わーと言って車列の後ろに走りこむのだ。

進駐軍が珍しいし、自分たちと違う顔をもった米兵を見たいのだ。

なにしろ外国人だ。

ま荷役馬車や木炭車が日常の光景なんだから、ジープは格好イイ。

ぼくはジープの排気ガスの臭いが好きだった。

違う世界に誘われる気がするのである

米兵にギブミーチョコレートと言った記憶はない。

そんな言葉を知るほど情報がはいる町ではなかった。

でもチョコレートや甘いものをジープから受け取ったことは何度もある。

その味がどうだったのか、なにも覚えてない

 
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残像(2)竹馬

2018-03-19 | 記憶の切れ端

 

遠足のウンチ堪え

 野屎の経験はいくつもあるけど、

そんなときは大体、手近な草の葉っぱで拭いていた。

当時、遊びに行く時に紙を携帯して遊んでいるような準備のいい子供などいやしない。

草の葉っぱできれいに拭けたかどうかは怪しいが、やるだけのことをしたと、

それなりの始末に納得していたのだ.

毎日の排便ルーティンが定まっていない少年にとって、

突然やってくる強制的な排便感には敵わない。

しかも、遠足の途中にその気配が迫ってきた時ほど参ったことはない。

漏らすなんてみんなに知れることは、恥ずかしくて生きていけない思いだ。

長めの細い石を拾ってポケットに入れておくと良い・・なんていうおマジナイを

試しても、効果があるはずもなく、もう泣きそうな顔で、そろそろ歩くばかりだ。

お昼弁当を開く休憩に、いち早く人に隠れて草むらに走ることになる

 

竹馬

一時、竹馬乗りが盛んにになったことがある。

当時そんなものは売り物ではなく、誰のものもお手製であった。

大人に作ってもらった子もいたが、

ボクの家は女ばかりで手を貸してくれるはずもないし、

工作ごとが嫌いじゃなかったので、自分で作った。

長い丸竹を2本と足の乗せ場に使う竹と藁縄があればよかった。

足のせ用には、長さ50センチほどの竹を割って真ん中を炙りながら

両端がくっつく位に曲げ、間に余った竹を挟んで荒縄をぐるぐるに巻く、

その足場が下に滑らないようにして、出来上がりだ。

竹馬乗りはすでに上手に出来ていたから、足場は自分の胸ぐらいに高くした。

 

裸足で乗る。

何かを台にしないと竹馬にのれないし、転べば高い分痛い思いをするのだが、

これに乗ると目線がとても高くなり、どこを歩いも新鮮だった。

いろんな場所を歩き、少し走ってみたり、ひと通り上手く動き回れるようになって、

竹馬乗りに飽きるまでにそう日にちはかからなかった。子供はすぐ飽きる。

 

ゴム鉄砲と水鉄砲

これも自分で作った。

見様見真似でも構造が簡単だし小学生といえ大した苦労なく製作できる。

ゴム鉄砲は、割り箸と輪ゴムを材料に、ピストル様の形に組む。

先端と引き金部に弾となる輪ゴムを張渡し、引き金を引く。

それで 3、4mは飛んだものだ。

この工作で肥後守を使っているときに、

刃先が滑って右手人差し指の第二関節のあたりを2センチほど削いでしまった。

剥けた皮を慌てて被せて押さえたが、どくどくとした痛みがしばらく続いた。

母親によって、人差し指は赤チンを塗った包帯ぐるぐる巻いたぶざまな姿に変わった。

 

この時来てくれた医師が注射を打ってくれたのだが、

普段は注射を怖がらない僕なのに、この時ばかりはひどくイヤがった。

いま射さんとする注射器に空気が混じっていたのを見てとったのである。

空気を注射すると人間は死ぬと誰かが言っていたのを思い出したのだ。

と言って、そのことを医者にも母親にも言い出す勇気がなく、

ただただ、無図がるばかりで母親を困らせてしまった。

が、結果は何事もなく終わった。

その程度の空気では何の支障もないということは、ずっと後になって知ったのだ。

 

水鉄砲作りはもっと簡単だ。長さ30センチほどの竹の一方の節を落とし、

もう一方の節の真ん中に箸の先端ほどの穴をあけると、筒の完成である。

次に押し出し棒の先端に、

筒の水が漏れ出さない太さにボロきれなどを巻いて留めれば、これも完成、

筒に水を入れて押し出すとイイ勢いで線状の水が飛び出す。

どれも簡単とはいえ、作る過程があってこそこういう遊びは面白い。

傷だって戒めになる。出来の良し悪しを見せあっては自慢したり、

出来のイイ他人のモノを羨ましく思ったりするのだ。

 

隠れんぼ

学校が終わると近所の子供が6、7人集まり、

近所の大きな敷地を持った材木屋での、かくれんぼにしばらく熱中した。

学校が終わるのが待ち遠しいほど、わくわくする隠れんぼだった。

今思えば、よくその場の大人たちに怒鳴られなかったものだ。

大きく積み上げられた材木の山の間に身を隠し、隙間から情勢を窺い、

木くずの匂いを嗅ぎ、駆け抜け・・、こんなことが無性に楽しかった。

広い敷地を縦横に動き回った。

時には、棒切れをつかんでチャンバラに興じ、風呂敷のマントでヒーローにもなった。

あれはそれなりに心弾む冒険ごとだったのだろう。

 

火事に走る

小さな町だ、めったにないことだが、消防のサイレンが鳴ったりすると、

遊んでいた僕らは一斉に興奮した、どこだどこだ・・

あっちの方だとなると、夢中でドタドタと駆けだしていた。

だれが一緒に走っているのかも気にせず、どんどん走る。

知らず知らずにとなりの村まで行ってしまったこともある。

そのときは鶏小屋が火事の現場だった。もう火は消えていた。

しばらくして周りを見ると見知った顔が誰もいない。

ふっと帰り道のことが心配になり始める。

興奮がすっかり冷めて、ひとりトボトボと歩く帰り道の寂しさ、

そしてその遠かったこと・・。 

 

講堂の天井裏

学校には、威厳を感じさせる堂々とした講堂が別建てであった。

 上級生になると講堂の隣校舎2階の教室に移った。

2階への階段が校舎両端にあって、

彫刻が施された手すりが踊り場のところで流れるような曲線になっていて、

子供の目にもその形は気持ちよく、撫でながら上り下りしていた。

この校舎の両端に中3階に半ば倉庫化していたが、

西洋風な雰囲気で秘密に独占したくなる小部屋もあった。

 

講堂の舞台裏探検

古くて貫禄のあるどっしりとした講堂だった。

入り口の厚い木の扉さえ、威厳を現していた。中へ入ると、

ぴかぴかの板張り床がどこまでも広くて感じられ、壇上は遠くに見えた。

窓際も壁際も四方は腰高の板張りになっていて、

そこさえもよく磨かれ光りを放っている。

教室全員で、わーっと一斉に雑巾がけをしていた光景が目に浮かんでくる。

 この堂々とした講堂に、

僕らが発見した秘密の冒険ルートがあった。

舞台の裏廊下には出演者用の控え室が数室並んでいて、行事でも予定されてない限り、

そこに人が入って来る事は滅多になかった。 

あるとき、僕らはその裏廊下と舞台の背景壁の間に、

細身の子供の身体がやっと入るような隙間があることを発見した。

体をよじってそこから潜り込むと、

そこは天井裏などにも通じる吹き抜け状になっていた。

その先にこそ、先生たちが気づいていない未開の探索エリアがあったのである。

縦横に走った構造材をよじ登る秘密っぽさ、登りきると講堂の天井裏が広がっていた。

控え室や講堂の広い天井裏を匍匐で這った。迷路なればこそ心を騒がせてくれる。

僕は軽業的な動きを好み、こうした冒険には臆することなく参加していた。 

こうして僕らは、この堂々とした講堂の裏の姿を知ることになったのだ。

そこは、荒削りの材木が様々に走っている、埃臭いばかりのがらんどうであった。

放課後などに、

数人で秘密を共有し、飽きずに忍者のごとく蠢き回って面白がっていた

天井板が破れたら落下して大けがしたに違いない。

僕たちにはそういう注意力より、冒険心がはるかに勝っていた。

今の時代、父兄たちに気づかれでもしたら、

目くじらを立てて学校を責めるに違いない。

時がどうあれ、少年少女は秘密の探検エリアを目指すべきだ。

 

大きな墓地

 ボクが住んでいた町は、掘割の跡からわずかにそれと分かる小さな城下町で 、

古風な家並も中心地域に固まって遺っていた。

この小さな町に、不思議なほど広い墓地が町の北側にあって、

近くに住む子供たちの絶好の遊び場でになっていた。

広めの場所では、三角ベースの野球を盛んにやっていた。

敗戦直後で野球具は質素である。

布のグローブ、手製の布ボール、バットに似せた棒切れ、塁ベースは何でも良かった。

また、この墓地は隠れんぼにも絶好で身を隠す場所に困らない。

高いところから飛び比べをするにも困らないほど大構えの墓が多くあった。

墓石の間を這い回る蛇を見つけると、当たろうが当たるまいが石を投げて追い回し、

蛇の尻尾を掴んでグルグル回して、仲間に投げたりもするのだ。

 

ある時、墓場を走り回っていて、

大きな墓の陰にしゃがみ込んでいる大人の男女に出くわした・・、

女の手に注射器があった。

ヒロポンだと子供ながら直感した。その女の顔に見覚えがあった。

きっと電車駅前のあの店の人だ・・。

ムク鳥の大群が空を埋める夕刻まで、この墓地で僕らは遊んでいた。

 

今でもこの墓地で見かけた様々な墓の形を思い出せる。

こんなバラエティーに富んでいた墓の集まった墓地に、

この歳になっても出くわしことがない。青山墓地でも見かけない。

墓地の区画はかなり不規則で、墓の姿が一様ではなかった。

三階建ての上に塔が有るもの

間口2間ほどの長方形の建物に鉄の扉があるもの、

4m高の塔に十字架が乗ったもの、

階段を上がると墓標の前が子供が遊べるほど広いポーチになっているもの、

大きな楠の大枝に襲われている墓、はぜの木に両側から挟まれている墓、

様々な形をした大きな墓が小さな墓に混じってあり、

朽ち果てたものも、傾きかけたものもなど、

墓石の今昔、まるで墓デザインの博覧会場ようでもあったろうか。

なぜあの小さな町にあんな大きな墓地があったのか・・・。

この墓場で遊び慣れていた僕は、あらかた目立つ形の墓の探索を終えていた。

こわごわ塔に上ったこともあるし、大きな鉄の扉を開けて中に入ったことも有る。

楠の太い枝から十字架の塔に渡ったことも有る。

骨壺がどういう風に収まっているかも見ている。

リンがうす青く頼りなく燃えるのを見たことも有る。

以前に覗いた骨壺から、金歯が消えていて驚いたこともあった。

薄闇のなか墓地を抜けて帰ることも平気になっていた。

中学生になると、この墓地での遊びはすっかり終わった。

次の世界が待っていたのである。

この町を離れて50年を超える。

町の開発によってこの墓地はとうの昔にどこかへ移転したそうだ。

今は公園と駐車場になっている。

あの多彩な墓石群も消えてしまったことだろう

 

祭りで思い出すのは、

9月の八朔祭の折に矢部川の河原に出現したサーカス小屋だ。

大音響の「天然の美」のジンタには毎度興奮した。

また夢を運んで来てくれたのだ。

別世界が待っていてくれるようで、自然に気持ちが高ぶってきたものだ。

今でもあの響きを耳にすると、あの河原のサーカスの光景が浮かんでくる。

そのサーカス小屋の並びには、決まり事のように幾つもの出し物小屋が並んでいた。

蛇娘とか、ろくろっ首娘とか、ばらまいたガラス破片の上で寝る男とか、

もろもろの異様な小屋があった。

どれも子供心にも見破れる怪しいゲテモノばかりだった。

それでも入って見たものだ。そしてやっぱり・・と、がっかりして出口に向かう。

 

祭りの大道ゲーム

カーバイトの灯に照らされた夜店がずらりと並ぶ中、

畳1枚ほどの台に小ぶりなゲームを乗せただけの露店もある。

賞品のおもちゃ目当ての子供の射幸心を煽る商売だ。

ゲーム屋のオヤジはだいたい胡乱な中年のおっちゃんだ。

その口上に警戒しながらも、その粗末なゲームに僕は幾たびも乗せられてしまった。

もしかして当たる・・と思ってしまう下心は、毎度すぐに打ち砕かれてしまう。

判っているはずなのに、やっぱりいつも結果はスカだ。

ばあちゃんが呉れたわずかな小遣いが、おっちゃんの手に消えていく。

こうして、少年は、世の中にうまい話なんかないと、何度も噛みしめさせられた。

この通過儀礼こそ、世間の騙しに負けないために、少年時代に欠かせない学習だ。

だから、夜店のゲームはすばらしい。

 

祭りの帰り道が遠い

祭りの帰りは、自分の眼前から楽しいことが一切消えてしまう、寂しい気分だ。

また同じような時間がやってくるのは、ずっとずっとずっと先のことだからだ。

離れた隣町の祭りに行ったときはなおさら、帰り道の心は空っぽになっている。

帰り道は2kmぐらいだったろう、大人からすればわずかな距離だが、

興奮で疲れた子供には楽ではない。

ましてや、友達とはぐれてしまってたりするとすっかりとぼとぼ。

あるときなど、途中でうんこをしたくなり、その帰り道がとても苦しく長かったこと。

 

どさ回りの芝居小屋

祭りの時など、

街角のちょっとした広場や、神社の境内にどさ回りの芝居小屋が出来た。

丸太を組んでござや筵で囲い、その上に派手な一座の舞台幕や幟で化粧した舞台である。

雨が降らないことを祈るばかりだ。

入場の仕切りなどなかったので、祭り主催側から興行料が出ていたのだろう。

演目がなんであれ、娯楽の少ない時代だから、観客はいつも大勢いた。

子供には、日頃と違う賑やかさがとてつもなく楽しい。

夜店で手に入れた何かしらを口に入れるだけで、もう別世界なんである。

夜店のなかには、口上巧みな露天商人がいろいろ出張っている。

そのころ、軟膏売りや万年筆売りが定番のようにいた。

軟膏売りは自分の腕を蛇に噛ませて、ただちに軟膏で傷口を治すと言うけど、

いくら待っても蛇に噛ませないし、火事に焼けだされたばかりと宣う万年筆売りは、

手元に置いた泥の中から万年筆を拾い出し、ピカピカに磨いては、

外国製の高級品が嘘みたいな値段だと宣っている。

ぼくはいつも一番前に首を出して、いつまでも飽きずに見ていた

 

ペット

生き物やペットに興味を持つことはなかったが、

ある時期、鳥を飼うことが流行って人並みに鳥を飼ってみた。

初めて手に入れた新品の竹鳥籠やその作りに非常に魅かれた。

餌の具合もわかり始めて間もない頃、学校から帰ると、

庭の木に吊るしていた鳥籠が口を開けて転がっており、

ジュウシマツはもはやいなかった。どうやら猫に襲われたようだ。

殺られたのか、逃げることができたのか分からない。

自分の迂闊もふくめ、それはイヤな気分で、以来ペットを欲しいと思ったことはない。

 

空気銃とあんしゃん

小学校の高学年ごろ、父親がシベリアに抑留されていて女家族ばかりのボクは、

近所のちょっと年上の兄ちゃんたちと遊ぶことが多かった。

その ひとりに、ずっと年上の大人だったけど、洋風な食堂の息子がいた。

彼はニキビ顔でポマードの匂いがする大学に行き損ないのような青年だった。

群れることもなく、口数は少ないが暗くもなく、親しみやすい人だった。

その上、この小さな町に珍しく都会の匂いを持った人に感じられた。

彼は空気銃を持っていた。

当時さほど珍しくもなかったが、この人がこれを持って鳥を追ってる姿が、

とてもおしゃれなことに映った。

彼は、幾度となくボクを小鳥撃ちに同道させてくれた。

これがいつも楽しかった。田舎道や森のある方へとのんびり歩きながら、

獲物があろうがあるまいが、

空気銃を担いだニキビ青年と少年は近隣の集落を徘徊した。 

当時、空気銃での鳥撃ちを咎められることはなかったし、

不審がられることもなかった。

ハンティングもどきのこの数時間の散歩が、ぼくはただただ楽しかった

 

往生 

小学校に入るぐらいの頃だったと思う、ボクは祖母に連れられて親戚の農家にいた。

かなり高齢だったその家のおばあさんが亡くなったのだ。

ボクはこのおばあさんに会った覚えがない。

仏間に置いた大きな盥の中に裸にしたおばあさんを入れて、

その全身を数人がかりで丁寧に拭いていた。ボクの祖母もその中にいた。

まだ、死ということに敏感でないボクは、ただその進行を見ていただけだ。

亡くなったおばあさんの身体が、すごく小さいな、と思えただけだ。

顔がしわくちゃなだけでなく、折り曲がった身体の全部がしわくちゃだった。

この農家で何十年も百姓生活をし、この大きな家屋の中を忙しく動き回り馬に餌をや

ったり、筵を織ったり、腰が曲がってもちょこちょこ、ちょこちょこと動いていたに違

いない。最期に寝込んでいたのかどうか、ボクにはわからない。 

 

初めてみた轢死

熱い夏休み、

家の前を通る国道のアスファルト表面は、かんかん照りでコールタールが

柔らかくなって、裸足で歩き回ると、足裏に熱くてムニャッとした感覚がある。 

短い時間だと熱さもガマンできるし、そのぺたぺた歩きは奇妙に心地よかった。

この国道の片側を、僕の町から久留米市内までの12キロほど、

単線の路面電車が走っていた。

 

かんかん照りの或る午後、

家から300メートルほど離れたあたりで、男の人が電車に轢かれた。

何気なく遊びに出たボクは、どうやら事故の直後にその場面に出くわしたようだ。

轢かれた男の体が、ドタっと道路側へ斜めの角度で仰向けに倒れていた。

首から先が鉄車輪の下で、胸から下は熱いアスファルト道路の上だ。

その男の頭部半分に、鉄の車輪が食い込んでいた。即死だとわかる。

運転士や車掌、数人の大人が囲んでいるだけだったので、

ボクはマ近でそれを見たのだ。

熱い昼下がりで通りに人は少ない、熱いアスファルトの国道で、大人たちは何かを待っ

て佇んでいる。時間が止まったような不思議な光景だった。

頭は急ブレーキの車輪と一緒に、いくらかレールを滑って止まったんだと、

ボクはその場面を想像した。

ボクは横たわってる動かない人間を、ただじっと・・。

生きていない人間が、

時間を止めてドタっとした物体になって路上にあることがとても異様だった。

 

映画のこと-1

町の映画館の座席といえば、五人掛けほどの木の背付き長椅子で、

四筋ほど列をなしていた。

初めて観た映画かどうか確かな覚えはないが、

オートバイに乗った正義の味方が駆けつけてきて、

悪漢たちをやっつける単純なストリーだったと思う。

正義の味方が活躍する場面では、観客が大勢拍手をした。

映画館ではそうするもんだと察して、ボクも懸命に拍手をした。

 

映画のこと-2・映画館

博多湾から離れたところに、壱岐島がある。

ニュース映画会社の福岡支社に勤めていた父に連れられて、壱岐島に行った。

父は仕事がらみだったのかもしれない。

滅多に訪れないところなので連れて行ってくれたのだろう。

島に上がっても、ボクには何もない寂しいところ、鄙びた集落にしか思えなかった。

この村というか集落にも、不定期に営業しているような小さな映画館があった。

その日は営業日ではなく、鍵がかかっているわけでもなく、中を覗くことができた。

館内もとても質素で、外光が入らないだけで良しとした作りだった。

座席といえば、筵が10枚ばかり敷いてあるだけだった。

ボクの住む小さな町でも、まずお目にかかることのない素朴な館内?であった。

だがここでいったん映画が始まると、ここでも寄り集まった島の人が興奮し、

その拍手の音に小屋が満たされるのだろう。

静かでガランとしたこの小屋を覗き込んで、そんなことをボクは父につぶやいた。

 

映画のこと−3・映画館

小学校3年ぐらいだったろうか。

学習の一貫だったらしく、該当する学年の全員が映画館に連れていかれた。

忘れもしない「鐘が鳴る丘」という映画だった。

同世代の人ならみんな知っているはずだ。

たしか戦争で孤児になった子供と孤児院の物語だった。

覚えているのは、ある浮浪児が人の財布を盗ろうとする場面で、

ボクは怖くて悲しくて顔を伏せ、震えるように泣いたのだ。

 

映画のこと-4・映画館

小さな町だったが、映画館は離れ離れに3館あった。

映画を見たくて見たくて堪らない。

当時、子供の入場料20円、それをバアちゃんにねだるのだが、

果たせたことはめったになかった。

夕飯が終わってまだ明るいと、さほど遠くない映画館まで散歩に出ては、

正面のガラス越しに宣伝ポスターや出演者の写真を飽きずに眺めたものだ。

ウチから一番近い映画館の脇に細い道があって、小学校にも通じていたので、

ボクは時折その道を抜けて学校に行った。映画館の裏手には館主の住まいがあり、

僕より下級生の小肥りでおっとりした少年がいた。

ボクは何とかこの少年と仲良くなって、

タダで映画を見れるようになりたいと思うようになった。

その細道から彼の綺麗なおかあさんを見掛けることもあったが、

少年と出くわしたり、道連れになるような機会はなかなか無かった。

そのキッカケを全く覚えてないのだが、

ある時から、ボクは少年の家に出入りし、

時には風呂にもいれてもらうようになっていた。

少年はいつでも見れるせいか、一緒に映画見ようと言い出すことはなかった。

少年との遊びのあと、ボクは裏手の非常扉から館内に入れてもらって

映画を見て帰る。それを繰り返すうちに、

やがて、興味のない映画をタダだからといって見ても

面白くないと思うようになった

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残像(3)みい電車

2018-03-19 | 記憶の切れ端

 

路面電車

北へ向かえば久留米市、南へ行けば熊本県に通じる国道が

僕の住む町を貫いていた。

その国道の片側を、久留米まで単線のチンチン路面電車が走っていた。

12キロの短い路線だ。地元ではみい電車と言っていたが正式の路線名は知らない。

僕の家はその電車道沿いにあって、終点となっている駅舎まで100mほどであった。

僕は駅員や運転手や車掌とすっかり顔見知りで、

たびたび、終点の久留米まで乗せてくれた。

小学生の5,6年生の僕に久留米に用事があるわけではない。

ただただ電車に乗るのが楽しかった。

終点まで乗って、その電車の戻りに乗って帰る。ただそれだけだ。

戻りの時刻合わせの20分間を入れても、折り返し80分ほどである。

久留米は知らない町だからチョコチョコ歩き回ることも適わず、

戻りの出発を待つだけである。

滅多に行けない隣町に、僕がタダ乗りで度々行ってることを知った同級生たちは、

大変羨ましがっていたようだ。

 

みい電車-2  12号と34号

かつては都会の路面を走っていたに違いなく、車輌の型は古い。

乗降口に扉がなく 、運転手は立ったまま運転する。

運転席よりわずかに高床になって客席があった。

せいぜい40人かそこらが乗客定員数であったろうか。

車掌が頭上の紐を引いてチンチンと鉦を鳴らと、電車をスタートさせるのである。

今ほど社会が小うるさくなかったし、

少年が扉無しの乗降口の手摺りに掴まって身体を外に出しても、

誰かに咎められるようなことも起きない。

危険かどうか、自分で判断すればよかった。

町を出ると久留米市までおよそ12キロ30分ほどの間を、

旧型の路面電車は車体を左右に揺らし、

砂ほこりをいっぱい残しながら村や野原を抜けていく。

国道ではあっても、町を出ると舗装などされていないし、

路肩も整備されていなかった。

全国域で舗装道路が標準になるのは20年も後のことだ。

電車も自動車も、晴れの日はりっぱな土埃を撒き散らして走り、

雨の日は通りの家に遠慮ない泥水をはねて通り過ぎる、見慣れた光景だった。

 

毎度のタダ乗りとはいえ、僕が好きな車輌は12号車と34号車だった。

明らかにスピードが違うのだ。

今でこそ完璧な一級道路になっているようだが、そのころは町を出ると雑木林か田畑で、

キツネやタヌキが線路を横断するのを度々見かけた。

12キロ先の久留米まで信号もなく、上り下りの電車が離合する駅が1カ所だけ。

離合駅でタブレット輪を交換していた。

途中、 峠越えのような、上り下りの急な坂が2カ所あった。

長い下り坂で、運転手はブレーキを開放して、車両に思いっ切り惰力をつける。

うわーんと坂を下ると、その惰性よろしく弾むように上り坂に挑むのだが、

もっても坂の3分の2までで、運転手は頃合い良く加速器のハンドルを

ギリギリギリと最大まで入れる。僕もその側で惰力が上りに入る瞬間、

一緒にジャンプするような体勢で上り坂に立ち向かっていた。

この加速ハンドルの音を今でも思い出せる。

    

みい電車-3   車掌のねえちゃん

電車の駅に僕を可愛がってくれた若い女性の職員がいた。

そのおねえさんの勤務が半日の日に、自分の家に連れて行ってくれるという。

ボクの町からバスで20分ほど離れた村の農家である。

約束の日にバス停で落ち合った僕は、

いち早く自分の切符を買おうと窓口にお金を出したら、

後ろからおねえさんが、子供がそんな気を遣うものじゃないと、

アハハと笑いながら僕の手を引っ込めさせた。

僕は、切符代は当然おねえさんが払ってくれるものだと思ってる子供に思われたく

なかったので、落ちあって最初にすることは、

自分の切符を買うことだと、前の夜寝る前に決めていたのだ。

おねえさんに変なことに気を回す子供だと思われた気がして、恥ずかしくなった。

母親が、お前の気の使いようが姉ちゃんと代われば良かったのにね、

とよくこぼしていたが、この場面もきっとそうだったのだろう。

そう、ボクは気遣う子供だった。

来客があれば、もうそろそろお茶を足してあげたほういいんじゃないかとか、

ご飯はまだ出さなくていいの?とか、

他人が交じっている状況での気の使いようが、子供らしくなかったのである。

 

おねえさんの家で、庭先に出ている牛に恐々エサやりを試みる僕を見て、

縁側からおねえさんのお父さんが、大きな声で僕を煽ったり、

怖がらせたりして面白がっていた。

牛や馬を見かけることは珍しくなかったけれど、

何せ僕は町の子で、家畜にエサを食わせたこともないのだ。

 

電車の駅に居た乞食のおばさん

 近所の遊び友達は、歳上歳下を問わず周りに大勢いた。

でも、一人の時などよく路面電車の終点になってる駅舎で遊んでいた。

運転手や車掌さんとはすっかり顔なじみだった。

売店のおばさんも、祖母がこの人に売店の権利を譲った縁もあって、知り合い。

ボクはこの駅舎に顔を見せる常連の少年だった。

時々、駅の隅に居続けるこじきのおばさんとも良く話をした。

みよっシャンと呼ばれていたこの浮浪者を追い出す人もいなかったが、

何時の間にか消えては、また現れるのである。

もとより身なりが汚れて匂いもするので、好んで相手をする人はいなかった。

詮索するような問いが出来る年齢でもない子供だったせいだろうが、

みよっシャンは、僕とよくおしゃべりしてくれた。

 

季節の平さん

もう一人、忘れた頃に町に姿を現す中年過ぎの浮浪者がいた。

この人の名は、平さんといった。誰が名前を聞いたのだろうか。

もうずっと昔から、ふっと姿を見せているようだった。 

僕の目には大きな風体で、この平さんは、前出のみよっシャンよりずっと汚かった。

この町に所縁があるのか、ないのか。僕は平さんの跡を付けたことがないから、

この小さな町のどこで寝ていて、

どうやって食べ物を手に入れていたか探っていない。

ただ、服の裾を引きずって歩く、大きな後ろ姿を思い出す。

小さな町にやって来ては、すっと消えて行く異邦人、流浪の人だ。

 

2階からの落下と注射

我が家は、小さな町の中を貫いている国道に面した2階建てであった。

小学2年の夏のある日、親戚の子供と道路に面した二階の窓際ではしゃいでいて、

欄干に掛けていた手が滑り、アスファルトの国道に落下した。

あっ落ちる・・!と思ったが、窓際の手すり桟から手が離れる瞬間までしか記憶がない。

落ちる前に気絶したのである。

だから落下の痛みを知らない。脳のすばらしい反応だ。

国道向かいの自転車屋のおばさんがドンという音を聞いて、飛び出したそうだ。

終戦直後で、国道といえど、時折進駐軍のアメリカ軍用車両が通るほかにさしたる交通

量もなく、落ちたボクが車に曳かれることはなかった。

怪我の詳細を親から聞いたことはない。半年ほど近くの医院に通い続けた。

大した外傷はなかった証拠に、歩ける程度の負傷だったのである。

今日は右腕、次の日は左腕と交互に打つほど、頻繁に医者に注射を打たれていた。

大けがを負ったという気持ちも残らず、ただ、以後注射を打たれることがまるで苦にな

らなくなった。

 

 大八車の車輪

これも小学の低学年の経験だ。

ある休みの日に近くの中学校の校庭で近所の仲間と遊んだときのこと。

運動場にたまたま置いてあった大八車を面白がって、ジグザグに転がし、乗ったり、

押したり・・、ある瞬間、荷台に座り乗りしていた僕は、

大きく振られた大八車の勢いに上体がよろけてしまい、

何としたことか、荷台の上半分にむき出しになっている大きな車輪の木製スポークの間

ボクの頭がすぽっと入ってしまったのだ。

頭に強烈な衝撃と痛みが走り、目からムチャクチャに星が出た。

同時に大八車は片利きに振られて止まった。

僕の頭が嵌まってブレーキになったのだ。一瞬の出来事であった

頭蓋骨が割れてもおかしくなかった。大けがにはならなかったけど、

いま思い出しても我ながらぞっとする光景だ。

 

 机飛び

小学校の教室、5年か6年のこと、休み時間に何人かで机の上を飛び歩いて、

捕まえごっこをしていた時、ボクは足が踏み外し、

手は泳いで顔から向こうの机に落ちて、その机の角に左目尻をもろにぶつけ、

どっと血を出した。小指大のかすかなへこみが出来て数年治らなかった。

 

縁  石

町の交差点で、足速に曲がろうとした時、拍子が崩れ、縁石に足をとられと思うや、

嫌と言うほど縁石の角に口を打ち付けた。

なにか口の中がぬめっとした。

指で口の中を探ってみると、上唇の裏と歯茎が異様に膨らんでいた。

それは大学時代に虫歯治療の際に切除してもらうまで、

前歯の歯茎が奇形のまま残っていた。

 

鍛冶屋

竹馬の友キタシャンちのすぐそばに鍛冶屋があった。

主に農機具を作っていたと思う。

訪ねた友が不在の時など、その鍛冶屋の仕事を僕は飽きることなく見ていた。

炉の粉塵で隅々まで黒ずんだ作業場で、独りオヤジさんが仕事していた。

道に面した表は開けっ放しだったから、鍛治の一部始終を遠慮なくみることが出来た。

炉の脇にある箱型のフイゴが鳴きながら炉に息を吹き込んでいる。

炉の火勢がそのたびに変化する。

押し引きするオヤジさんの左手に操られてフイゴは息を出したり止めたり、

頃合いでオヤジさんは赤くなった鉄材を抜き出して叩く、

また炉にいれる、またフイゴが鳴く、また叩く、僕は飽きずに何十分もみていた。

ただ凝視し続けているだけ、鍛冶屋もこちらに一瞥をくれるわけでもない。

 

刳りもの職人

夏休みに滞在していた福岡市内の家の近くに、

丸物ばかりを刳りだしている小さな木工屋さんがあって、

表からガラス越しによく見えたので、僕はたびたび覗いていた。

荒つくりされた角材が、旋盤の回転に合わせた刃物のわずかな動きで、

瞬時に形を変えていく。

その素早くて微妙に変形し続けるさまが、魔法のように自在であった。

僕は無限に変化し続ける丸棒の凸凹から一瞬も目を逸らすことをしなかった。

催眠術にかかったようにその連続する変化を一心に眼が追い続けてしまう。

職人が次の素材を付け替える間だけ目が開放されて、我に帰り、

作業場の他の光景に顔が動くのだった。

もう見なくていいかと思いながらも、次の削りが始まると僕の目は

ふたたび引き寄せられてしまっていた。

 

移動美術展

小学高学年のとき、路面電車で30分ほどかかる隣町に、移動美術展がやってきた。

当時としては、まず見る機会のない印象派を中心とした大きな西洋美術展だった。

ぼくらは同級生6名ほどで行くことにした。

子供だけで隣町に行くことすら珍しい上に、初めて見る大きな美術展である。

今で言えば初めてディズニーランドに行くような期待で胸はいっぱいだった。

だがボクには、この隣町行きが悔しさと悲しさで胸が詰まることになってしまった。

 

約束の時間に電車の駅に行ったら、もう誰もいなかったのである。

彼らは前の電車で行ってしまっていた。

今まで仲間はずれにされたことなど一度も経験してないので、

僕は呆然として、どうしてなのか、ただウロウロとして事態を納得できなかった。

他のみんなが約束より早めに来たに違いない。

置いてきぼりになるボクへの気遣いより、

少しでも早く行きたくてたまらなくなったのだろとは思うが、

ボクはあっさり裏切られたのである。

こんなひどいことがあるか、

なんでそう簡単に置いてきぼりできるのかと悲しかった。

20分おきの電車だから、美術展で彼らを見つけることが出来るか不安だったが、

ボクは一人電車に乗り、会場にたどり着いた。

みんなをすぐに見つけたいような、顔を合わせたくないような気持ちだった。

寂しいことに、誰も見つけることは出来なかった。独り絵を見て回った。

週明けの学校で、ボクは全く何事もなかったように、そのことに触れずに通した。

ただ、その記憶だけがいまも消えてない。

 
 小さな町に住む小学生の僕が、

60キロも離れた大都市の福岡に行くことは滅多になかった。

多くて年に2回、それも父の勤め先が市内にあったからだ。

福岡市は何もかも僕の町とは違っていた。

雑踏にも都会の匂いが充満しているのだ。

僕の町にもあるような変わり映えしないうどん屋だって、

洒落た雰囲気の店に映った。

昭和26年ごろだから、通りで進駐軍のアメリカ兵を多く見かけたし、

あれもこれもが新鮮で、キョロキョロ少年の好奇心が鎮まることはなかった。

なかでも、初めて百貨店の大きな玄関を入った時のアノ匂いこそは、

とても豪華だった。

何とも品のいい化粧品の匂いが、まとまって僕の鼻を抜けたのである。

あゝこれが都会の匂いだ、喧騒の匂いだ、百貨店は都会だ、

都会は百貨店にあると思った。

いまでもそうだが、どんなデパートでも1階には大きな化粧品売り場がある。

終戦直後の小さな町からやって来た少年にとって、

建物に入った途端に吸いこむ化粧品の匂いは、次元の違うウットリの世界だった。

 

ボクの中学校では、

阿蘇山系久住山への山行が2年生夏休みの恒例行事になっていた。

その引率登山家の先生に、行事のとき以外にも、山に登りに興味を持った生徒数名が、

盛んに山に連れていってもらった。

体力に自信はなかったが、僕も常連の生徒であった。

当時、山登りなど周囲の関心も低く、ちょっと風変わりに思われていたが、

ボクには趣味のイイ行ないに思えた。

引率の先生は久住山への登山など数えきれず、至るところの山に明るく、

九州の登山家の間でよく知られた人らしかった。

顔は年中真っ黒に日焼けしていて、鷹のような鋭い表情であったが、

いつも穏やかな方であった。

 

不思議に思えたのだが、この先生はどんな山に登っても、

その頂上で必ず山波に向かって「えいちゃ~ん・・・」と大きな声で呼ぶのである。

僕らは誰もその訳を尋ねたことがない。友の名を呼ぶ先生の後ろ姿が、

僕たちの問いを拒否しているように思えるのであった。

立ち入ってはいけない大人の世界のことだと思えたのである。

かつて山行を共にしていた、早逝した親友に呼びかけているのだと、

僕はかってに想像していた。

 

山に登る他に、山行に必要な持ち物を思案することも僕の楽しみだった。

いかに少なく、軽く。いかに手際よく出したり、仕舞ったり出来るか。

今どきの豊富なアウトドア備品と違い、当時は登山用具店などついぞ存在しなかった

し、米軍の放出品のザックや靴を入手出来れば恵まれたほうであった。

ボクは迷彩のウインドヤッケとベレー帽、ちょっと大きいサイズの米軍の軍靴を得意と

して、山行を楽しんでいた。

暫くすると、自分で考案して襟付きのツイードベストを誂えた。

豊かでなかったのに、どうして誂えることができたのか思い出せない。

ほとんど関心を持たれない登山とその格好に拘ることが、

僕にはなかなかお洒落なことと思えたのである。

 

山小屋や鄙びた温泉宿に泊まる機会があると、件の先生から面白い話が聞けた。

山のオバケの話であったり、なかなかエロいお伽話あったり、

純な中学生の気持ちにスイスイと浸ってくるのであった。

 

異性のこと

 異性への密かな想いに膨らむ年頃であっても、

当時の世相は明らかに今と違って、周りは誰しもが奥手であった。

異性のことなど口に出すのも恥ずかしかった。

たまに観る映画の場面以外で男女の恋愛を連想することしか知らないから、

心がどんな風に弾むのか、どんな性的な感覚に包まれるのか、

異性との交際の実像が全く分からない。

好きになれば、

目が合って身体がちょっと触れ合うだけですごい快感が全身を包むのだろうと、

幼いとしか言いようのない妄想に埋もれていた。

でどうやら、ある同級生をすごくイイなと思うようになった。

僕は学級でもきわめて普通の中学生で、

際立つ特技もないので、その子の反応に自信を持てなかったけど、

なんとかアピールしたいと思い、恋文を書いた。書いた内容を思い出せないが、

親友の同伴を得て日曜日に彼女の家のポストに入れた。

翌日に教室で、遠目に彼女の姿を認めた瞬間の自分の心地を覚えている。

自分が不思議な力でふんわりと浮き上がっているように感じた。

ふんわりと真っ白な雲の中にいて、いい匂いに包まれていた。

手紙の反応はなかった。

読んでないのか、無視されたのか、反応することを逡巡したのか、分からない。

多分そうなるだろうと予想していたので、失望の振幅は小さかった。

だが、その新鮮な初めて恍惚感を実感したその不思議に驚いた。

その日一日僕の脳は恍惚ホルモンが充満して、消えることがなかった。

きっと恋のセンサーがこの時、もっとも繊細だったに違いない。

思春期の初恋だけに発現する浮遊感だったんだろう。

 

 

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