新京の残像-
1941年の春、私は新京(長春)で生まれ、4歳までここで育った。
(中国東北部、かつての満州国の首都)
道幅の広い大通りを花電車が走っていた。
初めて花電車というものを見た。
正面をいっぱいの花で飾った路面電車が通りすぎていく。
それを横目に、大通り沿いの大きな病院の玄関をくぐった。
産まれたばかりの弟を見に連れて来られたのだ。
病院の廊下は長く暗かったが、逆光で床が光っていた。
前を行く家族の後ろ姿の陰を追うように、
僕と妹は手をつないで歩いていった。そんな光景が朧にある。
満人の穴居
鍋底のような形で、高さ4メートルぐらいだろうか、
小さな小さな山のような土盛り住居である。
何処かに空気が抜ける穴があるのだろうが、
見えていた出入り口はひとつだけ。
幅が半間ほど、高さは人が不自由なく通れる大きさだった
と思う。幼かったので記憶はとてもぼんやりだ。
その前を通ったとき、
入り口に綿入りのマント状の中国服を着た弁髪の男が立っていて、
こちらを睨んでいるように思えた。彼の中国服は汚れて黒光りしていた。
自転車部隊
父は満映でニュース映画の制作に携わっていた。
ボクの家族は新京市の郊外に住んでいた。
2階建て2戸続きに石作りの同じ家が連なり、
コの字型に住宅棟が並んだ集合住宅である。
住民の大半は日本人家族であった。
その住宅地前の大きな道路を、
日本軍の自転車部隊が通り過ぎて行くのを遠目に見た。
そんな部隊が実在したのか分からないが、僕にはそう見えた。
結婚式
この集合住宅域に満州人も住んでいたのだと思う。或るとき、
住宅地内の道路に赤い敷物が敷かれ、
その上を華やかに進んでくる花嫁さんの行列を見た覚えがある。
母の外国語?
在留5年?ほどの新京の生活で 母は流暢に中国語を話していたような気がする。
子供心にそう思えただけかもしれない。
片言の日常用の中国語だったろうか。
父の出征
敗戦の色濃い終戦の数ヶ月前、父が最も遅い徴集を受け、出兵した。
路面電車の安全地帯で、出征する父を母たちと見送った。
ほどなく敗戦、 捕虜となった父はシベリアに抑留され、
復員したのは昭和23年だった。
徴兵されが、小隊全員に銃がゆきわたったことなど一度も無かったと言っていた。
とっくに日本軍の兵站は崩壊していたのだ。
防空壕
コの字型住宅団地の広場に大きな防空壕があった。
空襲でその中に潜った。
入り口には扉の代わりに厚くて黒っぽく汚れた布団がかけられていた。
ロシア兵
敗戦直後、僕らの住宅地にもロシア兵が沢山来た。
そこにいた日本の大人達は強奪や暴行の恐怖で一杯だったと思うが、
4歳ほどの僕がそれを知ることもなく、兵士達を怖れた記憶もない。
一人のロシア兵が僕の弟を抱き上げてあやしていた。
1歳にも満たぬ弟が怖がるはずもなかった。
その兵士は腕に腕時計を何個も付けていた。略奪品のようだ。
僕は何でたくさん腕時計がいるのかと不思議がったら、7つ年上の姉が、
ロシア兵は止まった時計のネジの巻き方を知らないから、幾つも欲しがるのよ、
と言うので、僕は納得した。
弟の死 一歳の弟が結核性脳膜炎でなくなった。
中国北部から縁戚の女性が避難して来て、我が家に居候していた。
その女性が結核を患っていたことを僕の家族は気づかず、
乳飲み児の弟の子守をして貰っていた。弟はすぐ感染した。
しかも弟の初期症状の時、医師が風邪と誤診した事も響いて、
手遅れになってしまった。
母たちが弟の亡骸をきれいにして納棺する様子を、
妹と家の外から窓越しに笑いながら見ていた。
満州から引き揚げる時、
母は亡くなった次男の遺骨をどうしても日本に連れて帰りたかった。
混乱時に土葬の国で遺骨にするには大変な費用がかかったという。
800円だ。引き揚げを目前にした家族にはとても大きな出費であった。
引き揚げ-1 土葬のまんじゅう
新京を出た満鉄の引き揚げ列車は、
眼を遮るものがない中国東北部の平原を数日間、果てしなく走り続けた。
混乱期でダイヤ通りに走れる状況ではなかったが、
日本海を望む港まで1000kmを進まなければ、引き揚げ船に乗れない。
引揚家族で溢れたこの列車は、無蓋車は言うに及ばす屋根付き車両も全て貨車だった。
誰しも乗り心地なぞ問う状況でなく一刻も早くこの地を離れ、
日本に帰りつきたい一心である。
どこまでも景色が変わらず延々と続く荒野のまっただ中を、
引き揚げ列車が進んでは止まりを繰り返していた。
ときおり、通り過ぎる荒野の風景のなかにポツン、ポツンと土盛りが目に映った、
土葬の後だ、こんなに辺鄙な不毛の荒野を訪れる人があるとは思えなかった。
埋められた人間も、埋めた人間さえ、どんな記録にも残らないのだろう。
土を盛られておしまい。さようならだ。寂しい風景だった。
引揚げ-2 映画館
何かの事情か一旦列車を降ろされ、大勢の日本人集団は雨宿りをかねて映画館に入った。
家族を引き連れている大人たちにスクリーンを見る気持ちの余裕などあるはずもなく、
列車に戻る合図を待ってまんじりともせず、皆立ったままだった。
僕はその大人たちの暗い隙間で、母の袖を掴んでただぼうっと立っていた。
混雑の中しっかり手をつなぐことだけが唯一の安心だった。
敗走に近い状況であるから、引き揚げ団が確実なスケジュールを組めず、
どの引き上げ集団が効率良く移動が出来るのか、
大人達は成り行きにハラハラしていたに違いない。
先を急ぐ引き揚げ集団のうえにどんな事態が降りかかってくるか、
敗戦による混乱と脱出の焦り、大陸側のどんな集団に襲われるかも知れない。
どれ程の効果があるのか分からないが、
成熟した日本女性の殆どは頭髪を男のように短くしていた。
母もそうしていた。
引揚げ船
興安丸だったと思う。甲板さえ、所狭しと引き揚げ家族がいっぱいだった。
何日かかって佐世保に接岸出来たのか僕は知らない。
僕は生まれて初めての海と船に好奇心いっぱいで、
船の甲板のへりを身軽に歩いたり、
船内をはしゃぎ廻って母をハラハラさせていたという。
大人たちの深刻な思いは知らず、いつにない出来事の毎日を楽しんでいた。
* 長春からの引き揚げ状況について、
僕らより遅く、長春を脱出した引き揚げ者たちの様子を、
遠藤誉氏が克明に著している。(1984年発刊「チャーズ」)
日本軍の敗走後、激化した毛沢東軍と蒋介石軍の苛烈な戦い
に挟まれた引き揚げ団が身動きできないまま、過酷な状況に
置かれた悲惨な事実をこの本で知る。
佐世保-1
下船の時、全員がDDTをかけられ頭髪が真っ白になっていた。
大人の男性は下半身を丸出しにして、陰部の皮膚病などを検診させられて
いたような光景を覚えているのだが、ボクの記憶違いだろうか。
佐世保-2
接岸した佐丗保ではきれいな海にクラゲがいっぱい泳いでいた。
引き揚げ者が入る収容所に着くまでに、幾人もの子供の浮浪者を目にした。
戦災児に違いないと思えた。
ひとまず腰を下ろしたのはだだっ広い倉庫のような場所で、
大きな桶のような物が置いてあり、
味噌汁らしい物がたっぷり入っていたように覚えている。
隣町に自宅があったが、満州に移住している間は貸家にしてあり、
明け渡しに数ヶ月かかったようだ。
祖母の兄一家はこの地で標準的な農家で、牛馬、犬もいて、
みそ醤油も自家製で、土間には大きな筵織り機があった。
当時の農作業で使われた機具類が殆どそろっていた。
到着した頃は、ボクには九州弁が全く理解できず、
祖母や母が自由に話す姿を不思議に思った。
牛、馬、犬、納屋と蛇
はじめて馬の手綱を持ったとき、僕が、歩くといつまでも馬が付いて来るので、
ボクは次第に恐くなって慌て始めた。泣き顔になっていたかもしれない。
そんな光景を見て祖母の兄はボクをからかい、面白がっていた。
何かの拍子に叱られて納屋に閉じ込められた。蛇がいるぞと脅された。
納屋の中は、
土臭く、黴の匂いのような、もろもろ乾燥したような特別の空気が感じられた。
祖母の兄は寡黙だったが、いつも優しい目をしていた。
月とリヤカー
自宅に引っ越した後も、祖母は食料を得るためにたびたび兄の家を訪れた。
祖母とその兄は仲が良かった。
行くたびにボクと妹は祖母の引くリヤかーに乗っていた。
今思えば、3キロちょっとの道のりだが、小学一年前後のボクには遠かった。
帰りはいつも夜で、眠たさもあり、空にある月がいつまでも離れないので、
帰り道をいっそう遠く感じたものだ。
市場の花屋
父は出征したままシベリアに抑留されていたので、
生計のために母は露店の花屋を始めた。
町の中ほどにある神社の境内が急造の市場になると、
その一角で小さな花屋を続けた。
あの困難時代になぜ花屋だったのかわからない。
花の卸屋に知り合いでもいたのか?
花の売れ行きはわからないが、
母はきわめて社交的で楽しく市場生活をしていたように思う。
この市場はボクの遊び場でもあった。
ある初夏、神社の樹木に毛虫が異常発生し、無数の毛虫が地上をも這い回り、
とても気味が悪かったことを記憶している
戦後しばらくの間、子供のおやつなど気の利いたものなど有る分けない。
根っからの百姓女だったばあちゃんは、
腹を空かした孫たちにあれこれおやつを作ってくれた。
さつまいを輪切りに小麦粉の衣を着せて蒸かした芋まんじゅうや、
薄めに溶いた小麦粉に少し塩味をつけ、フライパンに薄く円形に伸ばしただけの、
ふな焼きと呼んでいた。具がない素朴なクレープだ。
ばあチャンのおっぱい
ボクは小学校の低学年の頃まで、
ばあちゃんのおっぱいをしゃぶっていたような記憶がある。
甘えん坊ではなかったはずで、なんでそんな大きくなってもと
自分のことながら思い出すたびに不思議に思える。
幼年時に欠かせない肉親との接触欲を祖母の胸で満たしていたのだろう。
ばあちゃんのキュウリと小菊
小学校低学年の頃だったと思うが、ボクの右肘にイボが出来た時、
ばあちゃんが庭の隅の畑からキュウリをモギって二つに切ると、
一方の切り口をボクの肘のイボにしばらくこすりつけた後、
切ったキュウリをもとの通りくっつけて、畑の土にキュウリの頭を
少し出す格好で埋めてしまった。こうするとイボが取れるというのだ。
もちろんイボは取れなかった。
別には、
丸坊主のボクの頭髪の色が薄めだと言って、庭のひな菊を何本かひねって来ると、
その葉をちぎってもみ始めた。
ばあちゃんは、べちゃついたその葉っぱと汁をボクの頭にたっぷりと塗り付けた。
うーん、これも効果があったとは思えない。
ほかにも、ばあちゃんが知っていたおまじないがたくさんあったようにおもう。
小学校時代、僕は走ることに劣っていた。
幼児のころ罹ったひどい百日咳の予後が響いて、体力が充分でなかった。
記憶にあることで言えば、
4年生になったころでも運動場を一周する走りができなかった。
後年、高校生になってその頃の僕を知る友達に会ったとき、
すっかり登山好きになっていた僕を見て、非常に驚いていた。
心肺力に劣っていたと思うが、
敏捷な動きとか、鉄棒やマット運動などは人より得意だったので、
劣等感を持つようなことはなくてすんだ。
しかし、持続的に走れるようになったのはずっと後になってからだ。
身体の弱い子のクラス
小学生の前半、僕は身体が弱い子のクラスに入れられていた。
6クラスあって、内1クラスがそうなっていた。
同じクラスのほかの友達の体の具合がどうだったのか全く覚えていないし、
特別にそうした意図のクラスでなかったかもしれない。
とにかく、ぼくはそう思い込んでいた。
そして思い出すのが、太陽灯の部屋だ、
正しくはどういう名前が付いていたのだろうか。
学校の一隅に六角形の形をした建物があって、窓はなく中は8畳ほど、
壁に沿ってぐるりと座れるように
なっていた。座ると間もなく電灯が紫色の光りに変わるのだ。
その紫光線に満ちた中で30分ぐらい座るのだ。
僕をいれて数名が週に2回ほど定期的にその光線を浴びていた。
あれはオゾンか紫外線だったのだろう、どんな効果があったのか、
親がオプション費用らしいものを払っていたのか、
なぜあんな設備があの小学校にあったのか、不思議でならない。
このことは一部の生徒しか経験していないので、
かつての同級生で記憶している人がいないだろう
太陽と布団と屋根の上
僕の家は二階屋で、表を国道に面し、
真裏は庭と祖母が手を入れている小さな畑があった。
庭に張り出した台所の屋根は、
二階から布団を出して干すのに具合のいいスペースだった。
めいっぱい陽射しを吸い込んでいる屋根の上のフトンに、僕はよく大の字になった。
フトンに顔を沈めると、太陽の温かさを吸った匂いがほんわりと包んでくれる。
堪らなく気持ちがいい。
なんと優しく、安らぐ時間であることか。
大の字を空に委ねると、遠い青い空と白い雲の流れに気持ちが溶けこんでいく。
もう頭は呆然として、思考は消え、ただただほんわりと浮遊する
体力が弱めの僕だったけど、思い出せるケンカが二つある。
小学校2年ころ。
近所の子たちと道路で輪になって、パッチ(メンコ)に興じている時に、
ちょっと評判の良くない一つ年下の子がズルをした。
我慢できなくてぼくは強い文句を言った。
その子の反応はしばらく後にやってきた。
地面のゲームの成り行きに夢中であるから、皆下を向いてる。
僕もそうだった。その子は両手で抱えるほどの石で、
僕の頭をガンと殴ったのだ。あれは痛かった。
そんなスキをつかれるとも、そんなに怒ってるとは思ってもいなかった。
当時、そんな卑怯な攻撃は誰もやらなかったから、よく憶えている。
けんかと下駄
もうひとつは、小学校の運動場の片隅での出来事だ。
僕ら何人かと一つ上級生の何人かと、場所の取り合いでもめたことがあった。
大げさに言えば、集団ケンカの場面である。
小学生にとって1年違いは、とても大きい。敵わない相手である。
その時、彼らの一人の言うことをとても腹立たしく感じたのだろうか、
体力のない僕がとても我慢できずに、上級生に向かってしまった。
当然上級性有利である。
何を思ったか僕はとっさに自分の下駄を脱いで、
思いっ切り相手の頭を殴ってしまった。
子供のけんかに下駄はいわば定番、最強の武器であった。
相手が泣き顔になり、形勢が逆転、上級生たちはひるんで、
なし崩しに散って行った。
仕返しされるかもしれないと思いながらも、なんだと思ったものだ。
子供の喧嘩だ。
裸足の小学生
冬になると、凍えて子供の手足はしもやけになっていた。
破れた足袋や手袋が当たり前の時代。
教室の暖房なんてあるわけない。
しもやけになった手や足の指がかゆい。
寒い日の教室では、陽のあたる場所に集まっては、
寄り添って踵だけで足踏みしていた。
寒い期間、男子生徒が夢中になったのが長馬だ。
休み時間になると運動場に飛び出し、参加者を2分し、一方の一人が、
校舎の壁とか立ち木を背に、脚を広げた立姿になる。
その生徒の股ぐらに同じチームの誰かが首を突っ込み馬の背を作る、
その馬の股ぐらに次の者がまた首を入れる、その分だけ馬の背が伸びる、
同じく次から次に馬の背を長くしていく。
つまり参加者が多いほど馬の背は長い。
一方のグループは乗馬する側で、長くなった馬の背に後ろから走り来て、
なるべく背の前の方に飛び乗るのだ。
馬の背が長いほど難しく、面白い。長ければ長いほど勢いが必要で、
受ける背の方の衝撃が大きい。
耐えて馬の背を崩さないようにするのが馬組の仕事だ。
乗り手で落馬すれば脱落だ。
乗り手組は長い馬の背になるべく衝撃を加えながら崩すしにかかるゲームである。
中には自分の尾てい骨が馬の背に衝撃を与える飛び方を工夫する者もでる。
全員が飛び乗っても馬が崩れなかったら、馬組の勝ちだ。これを交互に繰り返す。
双方ともこれはなかなかの運動になり、寒さを忘れる。
ボクは強い体躯ではなかったが、軽業的なことは得意で、好んで参加していた
自転車
小学校の2年か3年かはっきりしないが、子供用の自転車を母が手に入れてくれた。
敗戦直後だから、自転車を持っている子なんて滅多にいなかった。
まして父が復員しておらず、
その日暮らしに近かった頃なのに、どうして自転車を持てたのかはわからない。
新品ではなかった。タイヤは空気が入るものでなくタイヤ状のゴムの輪だった。
それでも遊び友達にも喜ばれた。
僕は自転車乗りを覚えてしばらくは得意がっていたと思うが、
他人よりいいものを持っていることがなんだか悪い気がして、
誰にでも快く貸していた。
いつしか誰に貸したままか、自分のところに帰ってこなくなった。
母も大いに怒るわけでもなく、お前は人がイイからねえ・・と言われたことは憶えている。
ジープの排気ガスの匂い
僕の家は国道に面していて、進駐軍のトラックやジープが燧なしに通っていた。
田舎町の子供にとって異邦人ほど珍しく思えるものはない。
国道とはいえ町中を抜けるとき、こうした車列もずいぶんスピードを落としていた。
長い車列のときもあれば、2,3台の事もある。
子供の脚でも2,30メートルはジープの後ろをついて走ることができた。
わーと言って車列の後ろに走りこむのだ。
進駐軍が珍しいし、自分たちと違う顔をもった米兵を見たいのだ。
なにしろ外国人だ。
ま荷役馬車や木炭車が日常の光景なんだから、ジープは格好イイ。
ぼくはジープの排気ガスの臭いが好きだった。
違う世界に誘われる気がするのである
米兵にギブミーチョコレートと言った記憶はない。
そんな言葉を知るほど情報がはいる町ではなかった。
でもチョコレートや甘いものをジープから受け取ったことは何度もある。
その味がどうだったのか、なにも覚えてない