goo blog サービス終了のお知らせ 

世態迷想・今日の私は昨日より新しい 

あれやこれや書き溜め・・
   徒然の思いは尽きもせず

選良という言葉があるのは、間違いだ。

2023-12-22 | 政治家を選良と思うのはやめよう

 

※ 政治家の言葉に大いなる不満

彼らは自分の言葉を喋らない。

守るべき理念が希薄だから。

哲学を持たないからだ。

だから、ひとつひとつに逡巡する。

あげく、他者の調整に乗っかる。

 

官僚は政治家の風圧を受ける。

忖度に走る人が出やすい。

では、政治家は誰の圧力を受けるのか。

反対党に弱点を突かれまい、言い抜けようとするばかりだ。

国民に向かって言葉を発する事をすっぽり怠っている。

もっと自分の言葉で喋れるはずだ

 

政治は、社会の古黴を取り除く行いである。

多くの恩恵を得ている者たちが、変革によるカビ取りを嫌う。

政治家が世界のキーワードを軽視しては、失敗する。

 

規則というものは、とかく悪用、転用される。むしろ必然か。

ひとまとめにして管理や支配に閉じ込めてしまったりする。

規則外の着想に一瞥もくれない。

 

※ 質問しないで・・

もしかして、今年の流行語大賞候補になるか?

質問しないでと 国会で口走った高市氏は自らの弁舌能力の限界を、

思わず露呈することになってしまった。

 

政治家は、言葉に信頼性があってこそ価値がある。

それを投げ捨てるようではもはや議会メンバーではなく、

単に、月並みな反発しか出来ない一個人の不貞腐れである。

本人は強気の返答を披瀝した思いのようだから、なお質が悪い。

 

嫌な或いは嫌味な質問に巧みに返答してこそ、政治家の自己演出力である。

下手な芸人がツッコミに上手く切り返せずに、素の自分を剥き出しにしてしまい、

観客を白けさせるのと同じで,不快である。

 

※ 政治集団の不誠実。

彼らをそれを流儀としているのだろうか。

彼らは法を作るけれども、彼ら自身は遵法精神が乏しい。

常に法の抜け道を歩こうとする。

裏金とかキックバックとか、策謀丸出しである。

今回が特異なことでもない。それが国民を苛立たせる。

集団も構成員も、選良とは程遠い。

ただただ狡猾な手法に頭を捻り、平然と組織内正義としている。

暴力団もどきの結束で、それを実現させている。

政治家は、やはりどこかが信用できない。容易く変質してしまう。

露見すると、政治の信頼回復を政治家側が盛んに発信する。

国民には、それが力弱く虚しく響くばかりだ。

これまでも政治家の数々の不正、不祥事を知っているからである。

不審な金の動きのみならず、優越的な越権行為とか、選挙のためなら反社会勢力をも

与するなど、選良の欠片もない。ずるさ丸出しである

 

※ ざっと括れば、

この60余年間を、主に自民党が政権を担ってきた。

その間、私は概ね野党サイドに投票してきた。

理念や政策をにらんでというより、

与党政権の暴走があってはならないという思いだけである。

であるから、与党に拮抗する野党勢力の伸長を期待し、

試行錯誤を繰り返す野党の結集にやきもきしてきた。

つまるところ、私は野党勢力には深く失望している。

特にあの政権交代を高らかに叫んで与党になった民主党の結末については、

いわば社会への裏切りと思っている。

政策やその成果以前に、党内の主導権争いをさらけ出して自壊し、

あっという間に分裂、雲散霧消したのである。

こんな低劣な社会的裏切りがあろうか。

野党勢力の内実が弱点だらけで、

結集力の脆さを国民に見事に露呈してしまった。

 

人気絶頂のボクサーが、大口を叩いて沸かせ、

あっという間にノックアウトされたみっともなさである。

しかも、彼らはその自壊の総括もせず、また小さな山を幾つも作っている。

そして、我らこそ社会の信認を得られると思っているに違いない。

無党派層に語りかけて、説得力があるのだろうか。

七転び八起きは結構だけど、同じ過ちを繰り返さい保証はない。

政党には表にも裏にも結集力が必須であることを彼らは学んだのだろう。

 

※ 騒々しい

世の関心の渦中に手を突っ込むことで、シタリとどや顔の人がいる。

公に発言する機会を得ている人が、酔ったように目立つ言葉を発する。

これからあれへと刺激的に手を突っ込んで、どこかで破綻している。

いったい何を言いたいんだ。もっと分かりやすく。

 

政局いじり、話題いじりで論評好みの人物になり果てていないか。

果たして、世に何を知らせんとしているのか。

社会全般に訴求する論理性が見えない。

詰まるところ、社会の裾野を動かしてるのは彼らではない。

 

一人立場の強い人間がいると、

周りの取り巻きがフニャフニャ、ホにゃホにゃになってしまう。

調子に乗って追随するもの、せいぜいうっすらとした抵抗を示す程度だ。

そんな現象を社会の至る所でみかける。

 

それが政治家であれ企業家であれ著名人であっても、彼らを仰ぎ見てはいけない。

彼らは、自分には自動的に敬意が払われるものと思ってるかも知れない。

人々は忘れがちだが、その経歴と人格または品性は、別物と警戒していた方が良い。

職業人としてだけでなく人として、節度や自制心があるのか、目線はどこにあるのか、

状況が変わると図らずとも、彼らの本態が見えてくるものだ。

選ばれた人であっても、心の半分は俗物性タップリとみていた方がいい。

 

市民に説得力のある話が出来る政治家がとても少ない。

ひとたび選良として職責を得るや、まもなく立場を背に軽薄かつ恣意的な

言動をする政治家が頻発している。

その姿勢を問われると、私人としての言動だと愚かなことを言い張る。

政治家は、動くだけで公人としての影響を持つ。

多数を得た選挙民に委ねられている責任が重いからだ。

私人としての行動枠は厳格でなければならないのは、イロハである。

劣化した政治家たちは、発言の撤回や粗末な弁明を恥とも思っていないようだ。

その人格や政治家として資質がすぐに露見していく。

だから人々は、議員を見て優れた人たちと恐れ入ったりしてはいけない。

 

選挙民がどこまで真摯に候補者を選択し、その活動に関心を払っているかは

もっと疑問である。多くの投票者は、選挙公報か選挙期間中の演説以外で彼らを

知る機会がない。名前の連呼に終始する候補者の多い選挙戦で何を知ることが

出来るだろう。

支持政党が明らかな投票者であれば、党派を選択しているのだから、なおさら

当該候補者の政治活動を個別に採点しないのではないか。

さらに、今時の選挙は、無党派層の投票動向がほぼ大勢を決めていく。

だが、候補者に最も遠い存在の無党派層には、その時点で多少とも共感出来る

党派を手がかりとして選択するしかやりようがない。

詰まるところ、候補者の資質優先で投票される要素は希薄なのである。

 

政治家が他の市民より優れているということは全く無い。

だが政治家はそう思っていない。

市民も政治家であるというだけで仰ぎ見る人がいる。

そうした浅見が政治家の活動を歪めていく。

どんな実績を披露されても、人格を保証するものではない。

そうした目線を持っていないと、行政は汚濁していく。

 

自民党には妄動、妄言の軽薄議員が多いが、

党を潰そうという人はいない。

ところが野党には、

加えて党を潰そうという人がいるから不思議だ。

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

騒々しい

2017-11-18 | 政治家を選良と思うのはやめよう

 

📌

世の関心の渦中に手を突っ込むことで、シタリとどや顔の人がいる。

公に発言する機会を得ている人が、酔ったように目立つ言葉を発する。

これからあれへと刺激的に手を突っ込んで、どこかで破綻している。

いったい何を言いたいんだ。もっと分かりやすく。

 

政局いじり、話題いじりで論評好みの人物になり果てていないか。

果たして、世に何を知らせんとしているのか。

社会全般に訴求する論理性が見えない。

詰まるところ、社会の裾野を動かしてるのは彼らではない。

 

📌

一人立場の強い人間がいると、

周りの取り巻きがフニャフニャ、ホにゃホにゃになってしまう。

調子に乗って追随するもの、せいぜいうっすらとした抵抗を示す程度だ。

そんな現象を社会の至る所でみかける。

 

それが政治家であれ企業家であれ著名人であっても、彼らを仰ぎ見てはいけない。

彼らは、自分には自動的に敬意が払われるものと思ってるかも知れない。

人々は忘れがちだが、その経歴と人格または品性は、別物と警戒していた方が良い。

職業人としてだけでなく人として、節度や自制心があるのか、目線はどこにあるのか、

状況が変わると図らずとも、彼らの本態が見えてくるものだ。

選ばれた人であっても、心の半分は俗物性タップリとみていた方がいい。

 

📌

市民に説得力のある話が出来る政治家がとても少ない。

ひとたび選良として職責を得るや、まもなく立場を背に軽薄かつ恣意的な

言動をする政治家が頻発している。

その姿勢を問われると、私人としての言動だと愚かなことを言い張る。

政治家は、動くだけで公人としての影響を持つ。

多数を得た選挙民に委ねられている責任が重いからだ。

私人としての行動枠は厳格でなければならないのは、イロハである。

劣化した政治家たちは、発言の撤回や粗末な弁明を恥とも思っていないようだ。

その人格や政治家として資質がすぐに露見していく。

だから人々は、議員を見て優れた人たちと恐れ入ったりしてはいけない。

 

📌

選挙民がどこまで真摯に候補者を選択し、その活動に関心を払っているかは

もっと疑問である。多くの投票者は、選挙公報か選挙期間中の演説以外で彼らを

知る機会がない。名前の連呼に終始する候補者の多い選挙戦で何を知ることが

出来るだろう。

支持政党が明らかな投票者であれば、党派を選択しているのだから、なおさら

当該候補者の政治活動を個別に採点しないのではないか。

さらに、今時の選挙は、無党派層の投票動向がほぼ大勢を決めていく。

だが、候補者に最も遠い存在の無党派層には、その時点で多少とも共感出来る

党派を手がかりとして選択するしかやりようがない。

詰まるところ、候補者の資質優先で投票される要素は希薄なのである。

 

📌

政治家が他の市民より優れているということは全く無い。

だが政治家はそう思っていない。

市民も政治家であるというだけで仰ぎ見る人がいる。

そうした浅見が政治家の活動を歪めていく。

どんな実績を披露されても、人格を保証するものではない。

そうした目線を持っていないと、行政は汚濁していく。

 

📌

自民党には妄動、妄言の軽薄議員が多いが、

党を潰そうという人はいない。

ところが野党には、

加えて党を潰そうという人がいるから不思議だ。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

多数決の姿

2017-07-13 | 政治家を選良と思うのはやめよう

※ 多数決の姿

多数の決が唯一の民主的な政治手法と信じられ、

経世の根拠になっている。

だが全員の幸福は目指せない。少数は常に軽視される。

民主制度は単なる手続きである。

異論は多数を得て正論に変わる。正論は少数の時、異論になる。

 

選挙の際、候補者の見識や良識が審査されることがない。

選挙制度の最もアホなところだ。

投票者の選択眼もユルいので、3バン(地盤・看板・鞄)があれば、

ほぼ選ばれていく。

投票者のレベルでしか政治家は生まれない。

言論が第一義にならず、連呼して多数票を得ればすべて良しである。

選ばれた理由を審査されることも決してない。

他方では、一票の格差さえも長年放置されている。

この民主主義には厳格さがない。国会の怠慢は度を超している。

なぜなら、そうやって選ばれた人たちが集まっているからだ。

 

多数を取った決はそれ以上の審査を受けないから、

決はすなわち社会の正義となる。

烏合の衆の一時的な熱狂でさえ、正義だ。

多数を集めても、具体的な運営者(内閣)はわずかの者たちである。

大きな社会であっても、一握りの人たちの権限で動かされる。

強引な運営、性急な結論、誤った管理の横行も発生する。

民主主義が、教科書どおりには進まない。

やはり利害の偏在を黙認する方便なのだろうか。

そこには、

グルになって利害を共有する事業、政治、官僚、情報がある。

であるなら、社会の命題は、

矛盾を現わす多くの場面で点検を怠らないことである。

 

清新で強い政府が起ち上がっても、

例外なく、惰性と腐敗の常在菌を自らに宿していて、

それは時間とともに培養される。

 

政治家の本分は何かと、教科書のようなことを問うても、むなしく思う事が多い。

国会論議とは、今や単なる言い逃れの場に過ぎないのか。

議席数にかかわらず、政権側に言論を持って信念を述べようという勇気がない。

宿題を忘れた生徒が、ズルいいいわけしているような光景ばかりだ。

憲法論議にしても、正面から入っていかない。隙間や裏口ばかり探している。

加えて、失言や釈明や撤回の横行は、選良たちの不誠実と劣化ばかりが目立つ。

 

与野党の論議の貧困さに、私は寒気を覚える。一党独善の社会さえ誘発しかねない。

批判を封じる政権がのうのうと出現すれば、露骨な排他主義が正義を得てしまう。

政権側が傲慢に立法を策しても、ほとんどブレーキをかけることが出来ていない。

与党は、踊りやすい独善癖の首長を登場させ、崇めるようにその政権に加勢する。

野党勢力の貧困さが、裏を返せば政治の現状の立役者となっている。

 

政治勢力をみて、どうしても野党の有り様を非難したくなる。

野党の責任とは何か、孤塁を守ることか。

それは政治を動かす力になっているのか。

彼らは、政党の作り方の勉強会ばかりに時間を費やしている。

与党に野合だと揶揄されて、その通りに野合に終わってしまう政治的劣等勢力である。

野党の価値と活動に期待して投じられた票は、長年にわたって死票同様になっている。

与党を性悪者へ促してしまうのは、野党の責任だと思う。

奇跡的に、政権奪取を国民から与えられたと思ったら、党内覇権争いで自壊してしまった。

それはとても後味の悪い幻想だった。その総括さえ国民に届いていない。

 

ジャーナリズムの原則と義務は何だろう。

社会がいよいよ複層していくほどに、そのことが気になってしまう。

複層、拡散していく社会は、原則や信義を見えなくしいる。

 

伝播力の強いメディアやそのスタッフの報道の基軸と意思は何なんだろう。

ニュースの信頼性、独立性は保たれているのか。

自己批判力はあるのか。

いまや、多様なITメディアを介して氾濫する無原則な発言との違いは何だ。

 

社会の道筋と経営を、政治の舞台だけに演じさせないのがジャーナリズムの役割である。

政治家ではない側のそれが自由と義務である。

まず、憲法に関する姿勢を明示すべきである。

現社会の運営はそこに発しているからだ。

報道者の識見が、読者の指針になるのかどうか社会に問うべきである。

 

メディアは、論説を果敢に展開すべしである。

それを公開することがそれぞれのメディアの立ち位置であろう。

複数のメディアが現実を目前にして、それぞれの信念と方法を論じることが、

総体としてのジャーナリズムのバランスではないかと思う。

神のような不偏などあるわけなく、それは読者を混迷に導く幻想である。

 

※ 久々に共産党の委員長が交代した。

知るかぎり、日本の共産党はこの70年ほどずっと投票率は7%前後のようだ。

70年も国民に余りアピールできていない証左であろう。

7%分の投票は実際の政治場面で影響力を持てない死票同然とも言える。

 

この党はこの80年の間委員長が3人しか変わっていない。

今度でやっと4人目だよ。

優秀なスタッフが党内にたくさんいると思われるのに。

実状はカリスマを温存して,いかにも纏まった組織を演出しいる。

内部批判があれば,すぐに駆除されていると思わざるを得ない。

それだけ見れば、非常に閉鎖的、排他的な団体なのかな。

そんな政党が政治の主役になったら、一般市民はとても息苦しくなるさ。

だから庶民の味方を装って,

今のまま外野席からヤジる一面的な教室政党でいいんじゃないの。

 

習わなかったかな、政治は詰まるところ、最大多数の最大幸福なんだよ。

その道筋がどうあるかが政治であって、現実をひとつひとつ改善していくことさ。政党も政治も企業もどんな組織も、小数の幹部が権勢を駆使する。

しかもその奥には、密かな独善的な権勢欲が潜在しているものだ。

組織内の特有の価値が正義になる。権勢はそのエンジンになる。

組織内で発動される正義は,一般人の常識とはかけ離れたものになりやすい。

 

なんであれ,政党は明確な基軸と方策の提案力が生命である。

対立する勢力への批判は,政治活動のほんの一部に過ぎない。

批判を常道とするだけでは,国民大多数への説得力を持たない。

自らの提案の基軸と具体策に説得力が無ければ,批判が生きてこない。

仮に政権を取っても,社会の実態はなかなか改善しないものだ。

現実の社会は根深い矛盾だらけで、一政体の政治家の意気込みだけで溶けるようなものではない。

社会に潜む生活感や価値観には根強い歴史の積み重ねがあるので、

その現実は複層していて利害も矛盾だらけである。

もともと、イデオロギーで社会の運営が出来ると思うのが、大間違い。

何主義であれ、強権か、より民主的運営かのどちらかしかないのである。

しかも、民主主義はいわば歴史上の新参者である。

長い間,強権こそ世界史の主役であった。

 

思うに、素晴らしい政体というものはないと思う。

比較として、許容できるか否かである。

社会の各層が成熟していると、強権には敏感に反応する。

逆に,情報に疎い国民を誘導するのは楽なのである。

情報を独占し、オープンな情報流通をさせない戦略が手っ取り早いのだ。

強権は、統制力で望む結果を早く上げたい。

民主的な運営は、意見の調整が命なのでその妥協点を得るまでに時間がかかる。

 

後進的な政体は、社会の構築を急ぐあまりに、極端な統制力を発揮したがる。

統制と人の自由が摩擦を生み、あらかたは暴力が主役となっている。

 

※ トップの意思

どんな政体であろうとトップの思考と決裁に国の行方が委ねられてしまう。

一国のトップの判断は、緊急な事態にあるほど、その見識と能力が問われる。

時として、思い込みの強い戦略や拘りが、狭隘な戦術に偏っていき、

或いは政治家の野望が露骨になって、

事態はたやすく一変する、悲惨な政治的決裁となってしまうことがある。

 

強権プーチンのロシア、習近平の中国一党独裁はよくそれを暗示している。

彼らのなかに個人的な冷徹な野望が、必ずや潜んでいる。独裁者たちの共通項だ。

 

例え、野望や策略や感情が過多で、まるで賢明な判断でなかったとしても、

トップの決済は、国家の組織力を背景に強権を発揮する。それが権力だ。

疑問や惻隠をないまぜに官僚組織もこれに追従していく。

愚かな決裁であっても、社会全体が愚かさをも政治の遂行だとして従わさせられる。

一政治家が、まさに独裁的な判断者になる。賢明な決裁であるのか否か。

 

我が国では、第2次世界大戦終了後、58人が我が国の首相職についた。

直接選挙で選ばれたわけでなく、

いずれも党派の相克の末に捻り出された首相たちである。

一国の首相たる能力と見識が、その政治家にどれほど備わっていたのか、

計りようがない。国民は全く関われない。預り知ることができない。

だが選ばれた人は、あたかも国民に選ばれたが如くに振る舞い始める。

 

振り返れば、58人のなかで国民にその仕事を知られている首相は多くない。

講話条約と吉田茂、安保条約と岸信介、池田勇人と所得倍増、

佐藤栄作と沖縄返還、列島改造と田中角栄、民営化や年金改革と中曽根康弘、

郵政民営化と小泉信一郎、政治に疎い者としてはそれぞれの功罪をおいても、

印象に残ってるのはそんなところだ。

あとは、そういえば、そんな元首相もいたなという程度だ。

国民から遊離した尺度で選出される首相たちだから、印象は薄い。

 

最長内閣の安倍晋三にはTPPがあるが、憲法改正も一部だけに拘るなど、腰が座っておらず、

もりかけさくらマスクなど、お粗末な公私混同や愚策ばかりが目立った。

最長内閣といっても、世界趨勢のデジタル化に緩慢で、その戦略性も具体化も推進力も

欠如していた。IT技術の充実は、すでに国家力を示すという認識を持てなかったようだ。

貧しい先見力だ。9条削除ばかりに目がいく国家防衛が笑わせる。

政界のプリンスと祭り上げられてお山の大将を気取り、首相の座に長くいたものの、

日本社会にいかなる建設的な変革をもたらしたか、その見識と能力は無残である。

国会での答弁ぶりに高慢さ丸出し。心構えを知らない横綱みたいだった。

この一派に多くの党員が参集しているということこそ、議論や異論を殺してしまった。

日本を世界から置いてきぼりにさせた安倍内閣ではないかと。

 

政治家たちは、意図的に何かを見ようとしていない、そうも思う。

自分の選挙力や集合力だけを優先することが、政治家たる仕事なのだろうか。

 

野党力が日々減衰している今日、

国民によく見える議論が、日本の政治にますます失われていくのではないかと、

大いに不安である。やはり党内バランスだけに終始するのだろうか。

 

※ 形だけの民主主義は、愚民政治を産むだけ。

討論、ディベイト・・、論戦の中でメリット、デメリットが明確になったことがない。

議論と手続きと選択が民主主義の武器であるなら、その過程に時間がかかる。

為政者にはその時間が苦々しい。先を急ぎたい。

 

議論を早く収拾せんがために、強引に多数決が活用しようとする。

常套手段である。

1票でも少なければ、異論は採決の場で終わった議論として、

見事に遠ざけられてしまう。

恩恵も不利も孕んだ決定が、現実のものさし、法として活用される。

必然として、その法は必ずしも平等ではなく、軽視される層が産まれてしまう。

四方に満点の政策は、論理上ありえない。

だが近似値に近づけようとすることはできる。

だが、愚民政治はメリットだけを膨らまし、デメリットに布を被せ、滔々と宣伝する。

大方の国民は、社会的な催眠状態に陥る。

 

愚民政治に陥る大きな要素に、選挙システムが有る。

議員一人一人について国民の審査が、形ばかりの選挙で終わってしまう。

一回試験に通れば、どんな質量の活動をしているのか、4年間問われない。

選出された議員は、所属した政党に従順である。

それ以外の主張に見向きもしなくなる。党内の価値から、外に出なくなる。

 

どんな政治理念であれ、社会運営の一方策である。

市民の何をもって幸福とするのか、

その体制を別のそれと比較して、

どれだけ市民の幸福と安全保障に妥当性を持ってるかが命題となる。

社会運営の渦中にある全ての市民は、

蟻のように多様なフェロモンで行動してわけではない。

施行されている法の枠内、あるいは倫理のなかで各々の社会を生きている。

組織や管理された社会で、活力が生み出されたり、救済をうけたり、

強い縛りを受けたり、誘導されたりと、生活の一つ一つが枠の中にある。

すべからく個人はそれに呼応するすることが求められる。

 

だが様々な運営に気づかぬままに姿を現し始めるのが、少数者たちの支配である。

どんな組織にも、いつの間にか専制的な運営が根付いたりする。

それらの多くは、市民の関心が薄いなかで、政権が堕落するか、恣意的に暴走する。

懐疑的な視点を怠らず、現実の政治を見続けなければならない。

市民にとって最も危険なことは、独裁政治である。

法と倫理が独善的に変異してしまう。恐怖と暗示で人々を思考停止にしてしまう。

極めて少数の人間が、圧倒的大多数の市民を思うままに操作する。

 

※ 暴れる政治家

歴史が長くてもその結実が蔑ろにされるなら、文明の進化はない。

政治の制度とその手法は、文明そのものであり、寧ろ核心である。

10億人を超える国の政治を、

いかなる中央政権であっても統治できない。

地勢も因習も宗教も言葉さえ多様なのに、

中央の一存で画一化できると信じることが、

野心的な政治家の愚かなところである。

自治要素を勘案した緩やか統治なら可能かもしれない。

だが政治はいつもセッカチだから、

それができるかどうか非常に疑わしい。

彼らは強権しか方法を知らないのだから。

独裁や強権には、独善という卑しさが潜んでいる。

 

政治家を選良と呼ぶのはやめたい。

理念と決意を全うする政治家は非常に少ない。

政治そのものが、おおかた不条理な強権か妥協の産物である。

 

まず政治家は一般の生活からすぐ離れてしまう、

彼らは政治家同士の軋轢でしか生きていない。

社会を長く見続けるに従って、

政治家個人の選良としての資質に失望する。

ただただ計算高いか、

傲慢さが増大している人物にしか見えなくなってくる。

 

政治家の見識の有り様がさっぱり読めない。

政治家個人の卓説が伝わってくる議員はそんなに多くない。

どの議員も党の主張に準じるであろうことは分かる。

そう、党に服する言動を取るということしか分からない。

選良として当選した翌日から、すっかり党の従僕なんだろう。

仮に、彼が党にとっての員数合わせ議員であろうとも、

本人は社会にリスペクトされるべきと思っている。

 

自分が投票した議員はどんな意見と行動で討議に参加したのか、

立案の際してどんな姿勢を貫いたのか、

その断片すら知る事が少ない。

政党の武器である党議拘束は、

員数議員にとって絶好の口実にも逃げ道にもなる。

異論があっても100%賛成でも議員の声は一様だ。

党議に従うの一点で済む。

 

重要な役職を経ていない議員も、派閥推薦や当選回数を背景に、

その実力が不明でも内閣の一員になる機会が訪れたりする。

スタンドプレーの絶好の機会だが、不見識も露呈してしまう。

官僚の文案を棒読みで済ませたり、軽率な或いは無礼な失言を重ねて、

審議を中断させてしまうお粗末な議員が出てくる。

そのたびに国民は、議員の見識のなさに失望させられている。

個々の議員の政治意識の高さを信じたいのが、どうもそうはいかない。

 

政治家が得意とするワザ

自制の欠如

自省の薄さ

時世の読み違い

 

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする