世態迷想・・抽斗の書き溜め

虫メガネのようであり、潜望鏡のようでも・・解も掴めず、整わず、抜け道も見つからず

饒舌なせりふ

2017-11-20 | 世間にはいつも毒が・・

 

 📌

優れた推理ドラマこそ、脚本や演出の真骨頂であると思うが、

日本のTV各局の推理ドラマは、不愉快なほど饒舌な物が多い。

仕組まれた伏線やヒントの欠片や表情から読み取らせるなど、

視聴者の推理を誘う要素がとても少ない。

それをやらずに、出演者に多くの要素を喋らせてしまう。

推理の楽しみ台無し、もってのほかだ。

簡単な組み立てしか出来ない機械で加工された廉価製品並みの演出である。

 

役者も台詞さえ言えば演者として成立してしまっている。

パターン化した表情以外の演技が出てこない。

そのマンネリだからこそ売れているのだろうか?

陳腐な中身が見え見えの昔の見世物小屋の演し物みたいで、毎度がっかりである。

脚本家は台詞で物語を進行するより、もっとプロットやト書きを重視すべきだ。

まさか視聴者を、推理を楽しめないアホと思ってるのだろうか。

 

📌

ドラマの中の”いい刑事”が、

まるで人生の先輩面した説教をする場面も多い。

これも陳腐だ。

TVドラマの脚本が進化しない原因のひとつだ。

警察官に誰も説教をする役割を求めらていないはずだ。

刑事力の濃淡を楽しむドラマのはずだ。

しかも歯の浮くような現実離れした説教である。

出演者の演技もまるで芋版である。

 

警察官の実像だと錯覚せしめる悪い表現である。

心情的な味付けを、多弁が台無しにしている。

視聴者は行間を楽しめない。

台詞は短い方が、繊細さや鋭さがにじみ出る。

 

捜査官は違法な行為を明確に指摘し、摘発する事に終始するのが職務だ。

現実の警察官が職務を錯覚して、

ドラマ並みに道学者風な説教し始めたら世の中おかしくなってしまう。

 
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人はいつも加害者

2017-11-18 | 雑々と過って惑う

📌

 生き物を観察したり寄り添うのは、人間のいい姿だ。

 生き物は人間に依存していないが、人間は大いに依存している。

 

 📌

人間には様々な理由で、他の生き物が必要である。

 人の生活と生き物との関わりは、水や空気なみに切り離せない。

過度の依存に慣れすぎた必然として、種の保存や保護が叫ばれる。

人間が動物を劣悪な状態に置いてしまう事への自己批判である。

だが、動物愛護を声高に宣うのは、やっぱり偽善くさい。

どんな場面を切り取っても、人は自然や生態系に対して加害者である。

生き物は人間から恩恵を受けることは決してない。

君は、再生産が容易な動物を美味そうに喰らっている。

マウスや猿の生体実験で開発された薬を服用している。

使役にも研究にも観賞やペットとしても生き物たちがいる。

 

📌

どの基準を、生き物に対する非情と言うのだろうか。

生き物は人間たちに関わりを持ちたくないに違いない。

等しく生き物であっても、彼らは人間から自由でいることが出来ない。

その命を区別して人間が活用しているのだから、不条理である

 
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耳障り・・

2017-11-18 | 雑々と過って惑う

 

📌

’’空気感”とか”関係性''という言い方が、どうもいやである。

なぜ感や性が必要なのか。

あきらかに冗語ではないか。

何にでも”~的”をつけるのと同じで、賢くない。

なぜ”的”が必要なのか。

漢語使いを薄めた話し方のほうが、

すっと耳に入りやすく、きれいな流れだ。

新しい定義や別な感性を表しているとでもいうのだろうか。

詰まらん言い方だ。

 

📌

クドい構内アナウンス

東京の交通機関は、クドい構内アナウンスに溢れている。

まことに五月蠅い。

情報は少なく、先導の教師よろしく、ただただ注意したくて仕方が無いようだ。

むしろ、利用者の自己判断や自己責任を、スポイルしている。

大音声で繰り返せば事足りるとするバカ感覚だ。

利用者に抗する術がなく、雑音として聞き流すしかない。

鉄道サービス先進国にしては、真にお粗末なソフトウエアである。

 
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騒々しい

2017-11-18 | 政治家を選良と思うのはやめよう

 

📌

世の関心の渦中に手を突っ込むことで、シタリとどや顔の人がいる。

公に発言する機会を得ている人が、酔ったように目立つ言葉を発する。

これからあれへと刺激的に手を突っ込んで、どこかで破綻している。

いったい何を言いたいんだ。もっと分かりやすく。

 

政局いじり、話題いじりで論評好みの人物になり果てていないか。

果たして、世に何を知らせんとしているのか。

社会全般に訴求する論理性が見えない。

詰まるところ、社会の裾野を動かしてるのは彼らではない。

 

📌

一人立場の強い人間がいると、

周りの取り巻きがフニャフニャ、ホにゃホにゃになってしまう。

調子に乗って追随するもの、せいぜいうっすらとした抵抗を示す程度だ。

そんな現象を社会の至る所でみかける。

 

それが政治家であれ企業家であれ著名人であっても、彼らを仰ぎ見てはいけない。

彼らは、自分には自動的に敬意が払われるものと思ってるかも知れない。

人々は忘れがちだが、その経歴と人格または品性は、別物と警戒していた方が良い。

職業人としてだけでなく人として、節度や自制心があるのか、目線はどこにあるのか、

状況が変わると図らずとも、彼らの本態が見えてくるものだ。

選ばれた人であっても、心の半分は俗物性タップリとみていた方がいい。

 

📌

市民に説得力のある話が出来る政治家がとても少ない。

ひとたび選良として職責を得るや、まもなく立場を背に軽薄かつ恣意的な

言動をする政治家が頻発している。

その姿勢を問われると、私人としての言動だと愚かなことを言い張る。

政治家は、動くだけで公人としての影響を持つ。

多数を得た選挙民に委ねられている責任が重いからだ。

私人としての行動枠は厳格でなければならないのは、イロハである。

劣化した政治家たちは、発言の撤回や粗末な弁明を恥とも思っていないようだ。

その人格や政治家として資質がすぐに露見していく。

だから人々は、議員を見て優れた人たちと恐れ入ったりしてはいけない。

 

📌

選挙民がどこまで真摯に候補者を選択し、その活動に関心を払っているかは

もっと疑問である。多くの投票者は、選挙公報か選挙期間中の演説以外で彼らを

知る機会がない。名前の連呼に終始する候補者の多い選挙戦で何を知ることが

出来るだろう。

支持政党が明らかな投票者であれば、党派を選択しているのだから、なおさら

当該候補者の政治活動を個別に採点しないのではないか。

さらに、今時の選挙は、無党派層の投票動向がほぼ大勢を決めていく。

だが、候補者に最も遠い存在の無党派層には、その時点で多少とも共感出来る

党派を手がかりとして選択するしかやりようがない。

詰まるところ、候補者の資質優先で投票される要素は希薄なのである。

 

📌

政治家が他の市民より優れているということは全く無い。

だが政治家はそう思っていない。

市民も政治家であるというだけで仰ぎ見る人がいる。

そうした浅見が政治家の活動を歪めていく。

どんな実績を披露されても、人格を保証するものではない。

そうした目線を持っていないと、行政は汚濁していく。

 

📌

自民党には妄動、妄言の軽薄議員が多いが、

党を潰そうという人はいない。

ところが野党には、

加えて党を潰そうという人がいるから不思議だ。

 

 

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正義の居場所

2017-11-18 | 国々の正義・・・

📌

 一見無秩序に見える群衆も,浮浪者も,

例外なく、いずれかの共同体に属している。

個人は家族に,家族は血族,そして部族や人種と属類が広がっていく。

それぞれで,習俗,地域宗教,伝統に囚われる。

 

📌

世界の歴史は、独善的な強権政治の品評会である。

権力を得た少数の層が社会を従属させ、

利害を共有する階層を幸福にすることを目指し、

その社会の正義とするのである。

 

自由と民主こそ世界に普遍的な正義であり、人類の希望はそこにある。

アメリカが率先して標榜するところである。

だが、世界は極めて複雑に成り立っている。

何事にも幻想が張り付いている。

強い國アメリカの主張と戦略が世界を揺さぶり、民族や宗教の葛藤を引き起こし、

世界の失望の大半を創出している。今はそういう世紀といえないだろうか。

 

📌

社会の属性は性悪である。

広範なニーズが渦巻いているから、浄化しても浄化しても汚染する。

偏狭なことは社会にとって不愉快で,毒にすらなる。

だが,時に、内包する問題の核心を衝いている。

点検と改善、妥協と和解が繰り返し繰り返し問われている。

📌

政治の理念は、庶民の不満の総量に耐えられるのだろうか。

理念と希望は、現実の身近な不満にいつも負ける。

身近な不満の核は、経済の充実度である。

📌

思想的なナルシズムと社会的ヒステリーは同居している。

狂信的イデオロギーは混沌の前戯であって、やがて癌化する。 

不必要なことまで管理し,管理行為そのものが正義になっていく。

 

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大きな風が森の木々を翻弄する

2017-11-18 | 迷想が誘う寸言もどき

📌

大きな風が森の木々を翻弄する

枝葉はちぎれんばかりに揺さぶられている

穿ってみる、あれもこれも・・

 

理念の牽引力は、庶民の不満の総量に耐えられるだろうか

 

世界は憎しみの方向だけに動いているようだ

 

前世紀と比べて、世界の憎しみは、ずっと複雑に増幅している。

 

忖度と空気の関係は、市民のオウンゴール

 

最強の教育者は、もちろん親である。

日常のなんでもない習慣こそ、情操教育のみなもとである。

 

丁寧な掃除の仕方、それはもう文化だ。

 

著名であるからと言って、誰もがバランスがとれているわけではない。

 

「ミスを少なく・・」が、世の常道

 

楽しみを発想することも、新しい楽しみである

 

反問してみると、何かに辿りつける

きみはほんとに美しい‥きみはほんとに美しいか

  

”連帯”を掲げる落とし穴

 

年齢がぐっと進むと、顔の構えに何かしら弱々しさが顕れる。

眼から力が失せていく。

 

個人も組織も、彼らが持つ得意技で失敗する。

なぜなら、いつも有効に作用すると信じて疑うことをしないからだ。

 

長い歴史を持つ国や民族であっても、

いま、どんな社会に辿り着いているかこそが問われる

 

📌

はしゃいでも1時間、はしゃがなくても1時間、

どちらもそれなりにイイ時間だ。

味わいはそれぞれにある。

 

次に出くわす場面を幾つ想定できるかどうか、それは知恵に比例する。

 生きるということはどういうことかと、思索を深めた人たちに敬意を払う。

しかし、崇めることとは別だ。神とはしない。

寺や神社で私は拝まない。虚しさが襲うから。

ひたすら建物と風景を楽しむ。携わった職人たちの技巧に感嘆する。

 

何事も日常化してしまうと飽きる、変化することへの誘いに容易く惑う

自己満足できる成果もなく、心の乱れも中庸で、明日は何をしようかと思ったりする。

 

📌

歳とって聞く童謡に、別な味わいがある。

老いた心の奥に未だ残る清らかさに突き刺さる。

 

空いっぱいの、真っ赤な夕焼けほど、

胸いっぱいになる刹那的な感動はない。

心は雲の襞に溶け込むばかりだ。

 

 📌

たった一度の生命を、どう生きようか、どう生きようかと、

ウロウロしながら、無為に過ぎて、

一生が終わってしまうのではないかと思う。

どんなにジタバタしても、あぁどうしょうもない。

 

逆算的な思索で何かを取り戻そうと・・足掻いたりする

 

こういう人がいた。ああいう人がいた。今はもういない。

それぞれの物語と一緒に消えてしまった。

世に、悲しみも寂しさもない消え方などあろうはずもなく、

人々の紡ぐ世界は、何千年もその雑多な生き死にを繰り返して成り立っている。

わかっているけど個の消失に抗いようがない。

 

現役を離れ、歳とるほどに、自分の拘りからふっと自由になっていく

良いことか否かはわからぬ、ただ心に軽みをおぼえる。

 

古希に至り、これからがいいいよ修行の時間だよ 

 

📌

今は、政治が電子技術の成果の後を、息を切らしながらついて行っている時代である。

驚異的な電子技術の進化と普及が、世界中のあらゆる分野の動機を発奮させ、

隅々まで一変させている。

 

 📌

どんな仕事であれ、正なる向上心を失えば自滅する。

向上心は、強い芽に等しい。

 

📌

祝祭は日常がディフォルメされ 省略され 寓意を鏤めて

組み立てられている。

したがって,その登場人物,装置のそれぞれに別な顔が隠されている。

それを宝探しのように楽しみながら,恐れながら、

隠されたものを見つけていく。

 

📌

大多数の中にある小さな悪意と身勝手さを軽く見てはいけない

無神経な言動や挑発で,安定を危険にさらす行為

盲信,デマゴーク,幻想・・社会の見えない舞台装置

 

多様なメディアの出現で、各層の様々な声が露骨に聞こえてくる。

諸々の実像が透けて見えるようになった。

薄っぺらななことが溢れていて、楽しめる。

 

📌

政治家とは、狡猾さと策謀に魅入られた人たちなのか。

そうでなければ選挙の際に、

あんなにも心のこもらないお辞儀や握手が出来るわけはない。

あんなにも他党の中傷ばかりで演説を埋めるわけはない。

 

📌

日本という国の有り様を動かそうとする魂と、

日本という精神を探求しようとする魂、どれもこの国の山河である。

 

📌

排他と許容は、いつも社会の大きな動機である。

社会がもっている電荷のようなものである

絶え間ない紛争と殺戮は、この二つの動機で発生している。

 

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インフラの階段

2017-11-18 | 国々の正義・・・

 📌

 世界には発展途上の国が多くある。

 国の経済活動を促す第一歩は、物流のインフラ整備であろう。

道路、橋、鉄道、港湾、空港、電源などが整わなければ

人も物も動けない。

それらが必要最小限度に揃うには、巨額の資金を要し、

建設計画はゆっくりしか進まない。

国作りにはとても時間がかかる。

順調にその計画が成っても、

それらは社会構築のほんの入り口に過ぎない。

世界に国風をアピールするには、何段階もの社会整備が必要だ。

 

かつて途上国を訪ねたおり、

幾つかの国の人々に言われたことがある。

日本は100年で経済大国になった、

大いに勇気づけられるという趣旨だ。

目標にしてもらうのはかまわないが、

内心それは大分に要素が違うよと、思ったものだ。

前提となる条件が抜け落ちているからだ。

 その時点で、私が知り得た途上国、特にアフリカ諸国の一般の人々は、

計画とか効率とか、ものごとの流れ全体を察知する習慣を

学習していないようにみえた。

そうしたことを必要とする環境で過ごして来てないと思う。

 彼らが言う日本の’100年発展’以前の数百年間の日本は、

封建社会であったはいえ、

独自の高度な社会構造をつくりあげている。

計画すること、具体化することの豊富な経験、

必要な技術の習得、経済や流通についての実績、文化力、

さらに教える、教わるという機会がすでに充分整っていたし、

つらなって社会的な一体感も醸成されていた。

過酷な階層の実態も経験している。

社会開発に必要なほとんどの条件を持っていた。

 

明治維新時代も、

焼け野原で大半の産業が機能不全状態であった大戦後も、

ゼロから再スタートしたと外国から見えたかも知れない。

だが、目には見えないもの、

社会建設に必要なものは持っていたのである。

根強い社会意識、教育水準、技術向上心などを尊ぶ気質である。

 

橋や道路や港湾など初期インフラの段階を、

一戸建てに例えるなら、どうにか家までの道路を作り、

安普請か堅牢かを問わず家を建てたとして、

それは雨露を凌ぐだけの初期的な条件を用意しただけだ。

 

📌

生活を充実させるには、

その何倍もの工夫と費用と時間が必要である。

玄関と居間の体裁を整えても、

家の内外に成すべきことはたくさんある。

家の外を整備しなければならないし、美しさも求められる。

日常生活の必需品や生活道具を揃え、

上水道、下水道、エネルギーも充足されて、

ゴミ処理や衛生対策など、安心できる環境を進めることが求められる。

住む町には公園や公共施設が充実して欲しい。

 

家の中では家族の穏やかに団らん出来る場所、食事も充実させたい。

生活の質向上を望むには、もっと資金や時間の積み重ねが必要になる。

その過程で日常的な作法が洗練され、ようやく、

家族の穏やかさや精神的な豊かさが満ちてくるのだろう。

そこまで至るには遥かな生活時間の積層が必要となってくる。

ローマは一日にして成らずである。

 

運輸手段やエネルギーなどの物理的、工業的インフラ整備は、

社会構築のほんの端緒でしかない。

その段階では、社会は未熟な赤子に過ぎない。

社会は、目的や使命や利害が絡み合った構造で成り立っている。

各層の軋轢を軽減し、全体として進化するには、

長い発酵期間が必要である。

1枚づつ布を重ねて、重厚な布に仕上げるように、

社会全体の点検や改善をし続けないと進化が鈍る。

そうして、

ようやく経済的、文化的な作法の整った社会の姿が見えてくる。

 

敷衍すれば、社会の成熟度が高まり文化の創出に至るには、

何十段階もの社会的な試行錯誤の歴史が要ることが見えてくる。

社会の成熟は、ハードとソフトの両面の積層で成し遂げられていく。

それはバランス良く積み重ね続けなければならない。

積み重ねを怠ると、

いわば加水分解が起きるようにその積層がみるみる劣化していく。

どの国にあっても社会開発には停滞がない。荒廃か、進化か。

 

📌

文化の形成の一つに異文化の消化力があるだろう。

それを培うには学問の蓄積が要る。

弱者救済の社会的公平と質量のあり様は、

その社会の成熟度と比例する。

ごみ処理能力はその国の先進レベルの物差しになる。

弱者救済のレベルでその社会の成熟度が計れる。

制度の目標と実態の乖離こそ、概ねその社会の実像である。

教育の成果を社会が得るには100年の醸成が必要である。

その成果は容易なことでは剥がれない。

異文化の消化力も文化形成の要素であって、

その消化力を培うには学問力の蓄積が要る。

経済力の獲得と豊かな精神性は必ずしも同居しない。

 
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