goo blog サービス終了のお知らせ 

世態迷想・今日の私は昨日より新しい 

あれやこれや書き溜め・・
   徒然の思いは尽きもせず

なにかおかしい

2021-04-30 | 法の便宜

 

※ 何かおかしい

死刑廃止が、先進社会の倫理であると、ときおり声高になる・・、

なにかおかしい。それが社会の有るべき姿だと私には飲み込めない。

もし、我が子が無慈悲に無残に人生を絶たれても、

社会は加害者の生命を尊重するということである。

そんな美しさを装った社会倫理に私は賛同出来ない。

被害者の生命は守れなかったが、加害者の生命は守るという論である。

こんな欺瞞を翳して、生命の尊厳と言い逃れできるのは人間社会だけだ。

戦争と殺戮なんて、その程度の欺瞞でとてもとても相殺できない。

 

生き物には、生きてるか、死んでるかだけしかない。

有るか、無いかである。

人間は、誰しもその生命を躍動させる時間を享受できる。

だが、被害者は突然、加害者によって無いにされるのだ。

 

当事者でない生きてる者たちは、

死んだ人間とそれを悲しむ者たちに、何も手を差し伸ることをしない。

同情の他に手立てがない。あげく冷淡である。法も誠に冷淡である。

 

だが、加害者に優しい。

他人を我欲のまま死に至らしめた者であっても、

その生命を守るべきだと言うのである。

加害者の人権と生命を、保護する方法だけが論じられる。

加害者を生命の勝者とすることが、社会の美しい倫理だと宣う。

 

社会の倫理はそんなところに有るのか、そうなのか?

たとえ、加害者が独房に閉じ込められようが、彼は有るのである。

彼は猛省して許しを乞うて、心新たに変身しようが、

被害者には無いだけがある。生と死のバランスは明白に取れない。

社会倫理の欺瞞そのものである。

加害者は無いで対価を払うのが、有るべき生命への道理ではないのか。

 

生命は億年経っても、個に一回だけ有るものである。

生命を軽んじているのは、

むしろ、死刑廃止を主張する者たちでなかろうか。

倫理の美談に醉うな。・・・と左様な視点はどうだろうか。

 

※ 心神喪失で、多数の死傷者を出しても、無罪判決になる法は果たして、

社会の正義なのか、死者に対してそれは正義なのか。

一切の罪が問われないなら、

死傷者は不運な生命の敗残者に貶められるだけか?

生命の尊厳は、惨殺された者には無用のものなのか?

法は決して生命に対して平等ではない。

つくづく、法は何を求めているのだろうと思う。

法の正義とはなんなんだろう。

生きてる者だけに示される、便宜的な処方箋に過ぎないのか、

しかも、無理やり編み出した量刑という屁理屈で勘定されている。

その屁理屈が、偏った生命の尊厳を、根底から歪めていないか。

裁判官は法の終身牢人であるから、決して、

檻の外に出ようとしないし、出られない。

そして、現存社会の妥協点を割り出して、権威としてしまう

こういう判決に出会うたびに、居た堪れなくなってしまう。

 

※ 岸田内閣で、死刑囚の刑が執行された。

やはり、すぐさま死刑廃止論者が抗議の声明を出した。

 

私は、社会の法として死刑を廃止すべきではないと考えている。

死刑は執行されるべきと考えている。

 

被害者は命を奪われて運が悪かったね、でも殺人者の命は守らなくてはね、

それが目指すべき社会だよ。と死刑廃止論者は言いたいようだ。

 

計画的に無差別に殺人が行われる。

自暴自棄で他人に襲い掛かって命をあっけなく奪ってしまう。

恨み通して殺人におよぶ、金銭欲や、嫉妬から他者の生命を消してしまう。

残忍極まりない殺人が後を絶たない。

どんな背景があれ、おのれ中心の殺意で他人の生命を消すのである。

 

被害者はあっさり地球上から消し去られてしまう。

なんの言葉を発することも出来ない。

なぜだ!苦しい!という瞬間さえあっただろうか。

 

秋葉原の無差別通り魔、京アニの多数の死亡者、大阪ビルの放火事件の

多数の死亡者を知ってもなお、

死刑廃止論者は、加害が明白なる者の死刑に反対なのだろう。

なんと殺人者に優しいのだろう。

優しさが望まれてる場面は、社会の別な場面にたくさんあるというのに。

 

誤判の恐れを論拠とする主張や刑の執行の残虐性を彼らは喧伝する。

世界の潮流だとも言う。殺人者の人権を法は守れという。

彼らの言葉には、被害者の無念とその失われた生命の尊厳が言及されない。

生きてる加害者の今後の命を声高に守ろうとする。

社会の法は、宗教ではない。親鸞でもない。

加害者をなんとしても、生死の勝者にしたいのか。

 

かれら廃止論者は被害者をアンラッキーな人々として同情するだけのようである。

一人一人の人生の未来と重みを脇に置いて、ひたすら殺人者を死なすまいとする。

それが成熟した社会の目指すべき倫理と考えているのだろう。

あげく無残な死に方をした被害者は、冷淡にも統計上の数に加えられるだけだ。

 

規律があってどうにかこうにか社会の運営がなされている。

法を堅く守って人生を送っているのが人々の社会である。

最悪で残酷な罪に対し、なぜ法の原点を薄めようとするのか。

殺人という罪は、法のどのあたりにあるのか。

そこに社会の高みがあるというのか。倫理の遊びをするんじゃないよ。

人間愛を象徴する主張とは思えない。

ドブに蓋をするような倫理だ。究極の自己欺瞞である。

 

廃止論者は自分の家族が無残な被害の当事者になっても、

きっと加害者に向かって、安心しなさい死刑にはならないからと言えるのだろう。

神のようでもあり、無感覚な人だと思う。

悔悟や更生で生まれ変わるとしても、それこそが殺人者個人の利得である。

ここでも加害者の勝利である。

そんな微かな効果を、廃止論者や弁護者が手柄のことのように言うべきではない。

非情にも地球上から消されてしまった被害者にはなんの恩恵もないのだから。

 

世界の70%の国が廃止に向かってるという。

むしろ、それがはなはだしく妄想である。

社会の倫理に酔い過ぎてはいないか、

究極の罪の償いがないならば、悍ましい殺人行為は増え続ける。

刑務所は更正施設ではない。そう信じている美しい人々の幻想である。

宗教さえ諍いや暴力を誘発することが、世界中で頻繁に表出してるのに、

一方だけの生命尊重で、社会を美化しないでもらいたい。

そのうち、社会には刑務所が要らないと言い始めるのではないか。

 

社会の少数者や弱者を救済する、それが社会の成熟である。

殺人者は弱者ではない。

殺人者を生命の勝者にしようとするばかりじゃないか。

もし死刑廃止に目を向けるなら、被害者の家族が加害者を許した場合だけである。

判決に示される数量的な刑罰の基準さえ、根拠希薄である。

被害者の受けた人生の喪失にたいし、冷淡な基準でしかない。

死刑廃止の社会の未来図を描くのは、倫理のマスターべ−ションだと思う。

 

※ 量刑の基準がヘンだと思う判決が相次いでいる。

つまるところ、加害者を生死の勝利者にしてしまっている。

裁判官は、法の格子部屋に自ら入った牢人である。

世間の異変も感性も感知することなく、法の解釈だけに生きている。

崇高とは見えない、むしろ腹立たしく思う。

 

※ 罪を償う

生き方は、順法のみを基準にしてはならない。

法律は社会安全のための規制であって、

徳性の領域にあるものではない。

刑期を終えても、人として罪を償ったことにはならない。

法社会からそれ以上の制裁を受けないというだけである。

 

人生を見つめることをサボった人は、だいたい刑務所にいる。

 人も社会もやっぱり性悪説が適っている。

だから法律がある。

だから性悪に流れないように喚起し続ける作業が必要である。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

法の上に

2017-07-17 | 法の便宜

※ 順法の裏側

順法と言い張って、不正直な弁明が罷り通る。

順法は正直、正義、信頼を証明するものではない。

順法であっても、反道徳や反社会行為な事柄はが多くある。

 

※ 法がある

世に悪意が潜んでいるから法がある。

人に不正直があるから法がある。

世にも人にも不誠実があるから法がある。

そして、権勢に味方するために法がある。

時の悪者は法を巧みに逆用する。

 

ざっくり言えば、

世間の9割ほどは、社会の作法を身につけて、

法律にも順応しようと心掛けているはずだ。

そうあれば、

他者との軋轢を引き起こさないことを知っているからだ。

ところが、

無作法で、狡猾で、粗暴で、不正直な者どもが、

これもざっと見て5%ほどいるじゃないか、と私は勘定している。

 

法律は、ほぼほぼそういう悪質な5%に向けて、

設けられているのである。

規範と違反は、裏と表であって、決して剥離することがない

 

※民主主義は法の上に守られているが、その社会を崩すのも立法である。

権力側が、時をみて策謀したり或いは恣意的に行動することは自明である。

従って、策謀的に使われる可能性の高い法律を彼らに与えてはならない。

民主社会であっても、その社会の運営は政権という少数の管理者に委ねられて

いるからだ。時の政権は陰に陽に警察力を活用する。

時として、警察はロボット化して政権に入力された通りに機能する。

国民にとって不運な政権の時、警察は国民にとって悪い警察になってしまう。

 

法の前で人は平等であっても,法の運用の前では不平等である

裁判官は、制度の”経典”に沿って悪と正義を量的に計る者たちである。

だが法は変わる。昨日罪とされたことが、今日罪を問われないことが起こる。

その反対もある。法の正当性はカメレオンである。法は時限的である。

 

時代によって変容する法で、人は人を胸を張って裁いてきた。

それが悪法であったとしても、その法が新たな法に裁かれることはない。

ある日から使われなくなるだけである。

人間は、法治主義といいながら、不変の法を編み出せていない。

いわば未完の法で人は裁かれ続けている。

 

一度しかない命が他人によって無残に絶たれても、

法は被害者に何の手も貸せない。被害者の悲劇の大きさについて法は無言である。

だが加害者は法に守られる。経緯と結果を法に整合させるだけだ。

被害の度合いは量刑に置き換えられ、加害者の生きる権利は持続する。

どんな場合でも加害者の勝利である。

独りの被害者の死は、家族に悲劇を残したまま、法治社会に忘れられる。

法治制度の理念と被害の痛みの乖離こそ、社会の冷酷な実像である。

良識人が法治の理念を熱心に説いても、悲劇の深さは変わらない。

 

最高裁判所は、違憲状態という言葉を使ってはいけない。

曖昧さは司法の厳格を自壊させる。

三権分立というのは、まさか幻想ではないだろうね。

どの政権も、三権分立を脅かす因子を宿している。

 

※ 順法

法は社会運営の便宜的な手段であって、人の生き方を導くものではない。

法を侵さないというだけでは人としての成熟はない。

法は最低基準であって、高い基準を示したものではない。

法は社会への入り口で、権利や便益や利得を法で守るが、

誤差の出る方程式に過ぎない。

 

※ 一票の格差 高裁秋田支部

また、違憲状態という判決が出た。都合のいい判決である。

全国14の訴訟のうち、これまで8件目の判決が出ている。

選挙権の基本、一票の価値がもう何年も軽んじられている。

改正が遅々としている。

合憲の判決であれ、違憲状態であれ、

現実は投票価値の平等から明白に乖離している。

 

ましてや、違憲状態という表現には、判決の厳粛さが見えない。

投票結果を無効としないことを、明らかに方便としている判決である。

なぜYesかnoを明確に言わないのか。憲法解釈に方便が許されているのか。

憲法のいう基本的な平等の位置づけに対し、

違憲状態という判決があるべきではない。

’状態’とはなんという言い草だろう。

合憲判決も同じである。一票の格差は厳然とあるのに、

憲法に沿っているというのだ。

1票と1票の価値は同じ、単純に計算すべきである。

解釈ばかりを弄くりまわして、合憲に導いているだけである。

 

政治や社会の動揺が怖くて、阿る姿勢じゃないか。

法の番人の根性が知れる。

法に沿うべく改善するのは、国会の責務であり、

憲法の番人が、その場凌ぎの猶予策みたいな判決をやってはならんと信ずる。

 

現状の選挙基盤の変更を嫌がる国会の遅々とした仕事ぶりに、

もう何年も’違憲状態’と連呼するだけだ。

まるで、刑事事件の情状酌量のような事例に倣って、状況酌量の判断も可ということか。

 

少なくとも憲法に言葉の余白を見つけたり、拡大解釈を加えたり、

我が社会の憲法を、その原点を時に応じて、番人自身が自在に揺らしている。

憲法に明確さがないのであれば、改正すべきなのである。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする