一歳の弟が結核性脳膜炎でなくなった。
中国北部から縁戚の女性が避難して来て、我が家に居候していた。
その女性が結核を患っていたことを僕の家族は気づかず、乳飲み児の弟の子守をして貰っていた。
弟はすぐ感染した。しかも弟の初期症状の時、医師が風邪と誤診した事も響いて、
手遅れになってしまった。
母たちが弟の亡骸をきれいにして納棺する様子を、
妹と家の外から窓越しに笑いながら見ていた。
満州から引き揚げる時、
母は亡くなった次男の遺骨をどうしても日本に連れて帰りたかった。
混乱時に土葬の国で遺骨にするには大変な費用がかかったという。800円だ。
引き揚げを目前にした家族にはとても大きな出費であった。
引き揚げ-1 土葬のまんじゅう
新京を出た満鉄の引き揚げ列車は、眼を遮るものがない中国東北部の平原を数日間、
果てしなく走り続けた。混乱期でダイヤ通りに走れる状況ではなかったが、
日本海を望む港まで1000kmを進まなければ、引き揚げ船に乗れない。
引揚家族で溢れたこの列車は、無蓋車は言うに及ばす屋根付き車両も全て貨車だった。
誰しも乗り心地なぞ問う状況でなく一刻も早くこの地を離れ、
日本に帰りつきたい一心である。
どこまでも景色が変わらず延々と続く荒野のまっただ中を、
引き揚げ列車が進んでは止まりを繰り返していた。
ときおり、通り過ぎる荒野の風景のなかにポツン、ポツンと土盛りが目に映った、
土葬の後だ、こんなに辺鄙な不毛の荒野を訪れる人があるとは思えなかった。
埋められた人間も、埋めた人間さえ、どんな記録にも残らないのだろう。
土を盛られておしまい。さようならだ。寂しい風景だった。
引揚げ-2 映画館
何かの事情か一旦列車を降ろされ、大勢の日本人集団は雨宿りをかねて映画館に入った。
家族を引き連れている大人たちにスクリーンを見る気持ちの余裕などあるはずもなく、
列車に戻る合図を待ってまんじりともせず、皆立ったままだった。
僕はその大人たちの暗い隙間で、母の袖を掴んでただぼうっと立っていた。
混雑の中しっかり手をつなぐことだけが唯一の安心だった。
敗走に近い状況であるから、引き揚げ団が確実なスケジュールを組めるはずもなく、
どの引き上げ集団が効率良く移動が出来るのか、大人達は成り行きにハラハラしていた
に違いない。
先を急ぐ引き揚げ集団のうえにどんな事態が降りかかってくるか、
敗戦による混乱と脱出の焦り、大陸側のどんな集団に襲われるかも知れない。
どれ程の効果があるのか分からないが、
成熟した日本女性の殆どは頭髪を男のように短くしていた。母もそうしていた。
引揚げ船
興安丸だったと思う。甲板さえ、所狭しと引き揚げ家族がいっぱいだった。
何日かかって佐世保に接岸出来たのか僕は知らない。
僕は生まれて初めての海と船に好奇心いっぱいで、船の甲板のへりを身軽に歩いたり、
船内をはしゃぎ廻って母をハラハラさせていたという。
大人たちの深刻な思いは知らず、いつにない出来事の毎日を楽しんでいた。
* 長春からの引き揚げ状況について、
僕らより遅く、長春を脱出した引き揚げ者たちの様子を、
遠藤誉氏が克明に著している。(1984年発刊「チャーズ」)
日本軍の敗走後、激化した毛沢東軍と蒋介石軍の苛烈な戦い
に挟まれた引き揚げ団が身動きできないまま、過酷な状況に
置かれた悲惨な事実をこの本で知る。
佐世保-1
下船の時、全員がDDTをかけられ頭髪が真っ白になっていた。
大人の男性は下半身を丸出しにして、陰部の皮膚病などを検診させられていたような
光景を覚えているのだが、ボクの記憶違いだろうか。
佐世保-2
接岸した佐丗保ではきれいな海にクラゲがいっぱい泳いでいた。
上陸した引き揚げ者が入る収容所に着くまでに、幾人もの子供の浮浪者を目にした。
戦災児に違いないと思えた。
ひとまず腰を下ろしたのはだだっ広い倉庫のような場所で、
大きな桶のような物が置いてあり、
味噌汁らしい物がたっぷり入っていたように覚えている。
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