※「鰯の頭も信心から・・」
俗な例えとはいえ、何かに信仰を求める人の心の揺らぎを突いている。
宗教団は高潔さや権威を示さんとしてその虚飾に傾斜する。
あれこれ考察を積み、編み上げた教えとはいえ、やはり知恵の幻ではないのか。
高位の僧職ほど人々の信仰に安寧の幻想を暗示し続ける。
人類史の大半の殺戮と差別の引き金を引いてきたのは、
他ならぬ宗教である。
宗派の諍いはどんな利害紛争より質が悪い。
妥協ということがない。
なぜに人間だけが持ちうる大らかさを拒否せしめるのか。
大自然の摂理に平伏する以上に、頭を垂れるものがあるはずはない。
篤い信仰者は聖典を唱じることで、自問から逃げている。
人々が只管に、教えに則っとることを促す。
人間の価値を柵の中に限ってしまう。
思索は頑なになるばかりだ。
信仰はこれからも異端を探したがる。
宗教者であっても、信仰者であったとしても、
それで清心さが証明されるわけでもあるまいとおもう。
熱心な信仰者とは、ただ囚われた人のことである。
宗教は普遍的な主題を持っているように見えるが、
やはり思考の征服が到達点である。
思索を信仰の枠内に納めるように構築された偏狭な箱である。
強い信仰心は、自ずから排他と非妥協の芽を生む。
※ 宗教の儀式は、どう見ても大人のおママごと。
僧侶や信者になって、お祈りごっこをする遊び。
信心ばかりでは生活できないので、何かの折に纏めて信心ごっこをすること。
人が善良であるためには、神や宗教が必要と考える人は、
心理の均衡が保てず弱々しいのではないかと私には見える。
立ち続けるために、杖がないと不安になってしまうのだ。
自分で立てる能力を育てずに、初めから終わりまで柱に寄りかかっている。
その安心が堪らなく気持ちが良いらしいのだ。
しかも科学の明解さを示されても、大胆に無視してしまう分からず屋である。
白を白と認めない狭量さ。その上に排他の度合いはいつも諍いを産んでいる。
全ては科学性によって生かされている事を知らずに生きているだけだ。
神を信じることは人間にだけできることだ、と優越に思ってるに違いない。
崇めれているその神とは、先人が妄想し、脚色したフェイク話を伝聞したに過ぎない。
史実にしては矛盾だらけである。
そうであっても信じたい、信じてしまう人々なのだ。
被暗示性がまことに強いと思う他ない。
神が与えたルールブックがないと、人は善良になれないと思っている。
人が善良であるために、
荘厳な建物や芝居がかった儀式にひれ伏す必要などこにもない。
思考停止のなかでの自慰行為である。
忌まわしい事に、現実世界はそうした宗教がさまざまな諍いを生み、
人類に残酷な悲劇史を産む動機のひとつになっている。
人々の錯覚が次々とと盲導へ突き進んでいる。
宗教に依らない善良と安心の方が、ずっと純粋に気高い。
※ マウントする
人の道を説き、愛や慈しみを語る宗教の実態は、
偏った権威と排他を増幅させてきただけである。
どの時代をとっても戦争の土台、残虐の歴史を含んでいる。
信仰の清らかさを謳う舞台裏は、単に傲慢と差別と憎悪の博物館である。
それでも人々は、信仰する。清らかな幻想に救われたいのだ。
神が存在するかしないを、考えてみようとは思わない。分からない。
だが、人間の顔をした神や神の子がいたという、その言い方は馬鹿臭い。
神の子出現前の万年を超えて存在した人々を、
人間の基本を持たない夥しく未開な存在だとするのだろうかと、問いたい。
宗教者たちが、自らを気高い伝承者らしく装うのが滑稽である。
宗教行為に、仰々しい舞台を設けて、いちいち儀式を重んじるという事が、
既に、伝承はそうした演出がなければ説得力を持たないという事を示している。
人々は、求めるものがたくさんあり過ぎて、誰かから知恵を借りたい、頼りにしたい、
慰められたいといった気持ちが、絶えなく生じて、一生拠り所を求める生き物である。
それに応えてくれる賢者がどの時代にも出現して、人々はその声に耳を傾ける。
そういうことはあるだろう。
だから、その言葉を伝承したい者達が出て来ても不思議ではない。
だが、それが必然としてシステムとなり、団体の布教活動となる。
彼らは断固とした自己肯定で、影響力を広げようとし始める、それが使命だと。
だが、歴史を辿れば、それは分派を生み出し、
まもなくして枠外を異端とする排他主義に陥り始める。
その宗教活動は政治的に動き出し、専制国家を超えるような戦略を展開して、
世界に諍いと陵辱の種子を撒き散らしている。
それが人々の基本的な弱点を補う賢い言葉であっても、
その言葉が生まれた時代の状況が土台になっている。
人の精神の有り様は遺伝的にコピーされ続けているから、
その言葉の力が依然として、一部では有効であろう。
であっても、
一方で自分たちで戸惑ってしまうほど、スケール違いの破壊と創造の状況を
人々は作り続け、積み重ねている。
社会の力動は、幾層も複合してお化けのように掴みどろろを見えなくしている。
宗教は、支配欲の強烈さが潜在しているシステムなのである。
人々は、善意を持って、敬ってすっかりその暗示にかかってしまう。
頼りになる進言をいつも待っているからだ。
マザコンから自立できない大人たちが多いから、
宗教団体には、いつも好都合な環境が待っている。
宗教者たちは人々をマウントしたがる。
世俗的生活していないが故に、宗教者は精神的に優位にあると勘違いしはじめる。
なにごとであれ、神の言葉の伝承者として見通し出来ると思ってるようだ。
が、マウントされる側に、問題があるのがそもそもの前提である。
苦しみが多くて報われないと、人々は思いがちである。
悲しみに耐えられないと、誰かに訴えたがる。
自分は清い生き方をしていると、確かめたがる。
いつも神に許しを得ていると、思いたい。
人々の依存心は、宗教の美味しい食材である。料理のしがいがあるに違いない。
※ 信仰とはなんだろう
日本社会での信仰の様子は、それは敬いという一言に尽きるように思う。
自然への畏怖や尊び、祖先が遺したものへの敬いである。
それらを素朴に祀り敬う。身を清めて敬う。
神道にせよ仏教にしろ、信仰者が教典の文言なぞることはないに等しい。
言葉が平易でもない。
噛み砕いた解説が必要なほどである。短い定型句を唱えるばかりである。
絶対的な神を創造しているわけではない。
神社では神話の世界ばかりでなく、武勇や偉人を祀って敬っている。
奉る、崇める、あやかる。あんがい、身近な存在である。
山も海も岩も大木も敬いの対象である。
自然を畏怖し、恩恵を得ているからである。
かたや、
西欧などの一神教の社会では、神との対話ということに尽きるように思う。
彼らは絶対的な神というものを創造している。
その信仰は、神の使者、神の子の教えとの対話である。
人々は生まれた時から神との契約を負わされているように思う。
一神教に倫理を委ねた生涯こそ、人のあるべき生き方とする。
そこには多くの平易な言葉があり、説得力を持たせるようなレトリックが駆使されている。
※ 私は自然界に畏怖を覚える。
であるが、人々が創り上げた神への畏怖とか信仰にはつながってこない。
どの宗教組織であれ、体のいい催眠洗脳集団に思えるではないか。
一神教に倫理を委ねた生涯こそ、人のあるべき生き方とする西欧などの規範は、
私には空恐ろしい。
異教徒を認めない、信仰心を持たない者を排除する偏狭な世界だからだ。
人間の思考に、あるいは志向にそんなが必要なのだろうか。
彼らは信仰のない者を下等な生き物のように差別する。
だが私の眼にはそういう一神教の信奉者が、軛から抜け出せない、
抜け出たくないと、狭い思考の城内に囲まれている人たちに見えてしまう。
その指導者たちは、巧みに言葉の誘導力を駆使することに腐心する。
信仰者は一神を、無条件に慕う、そばに居てくれると思ってる、
許してくれると思ってる。夢遊病みたいじゃないか。
しかも滑稽なほど様式に依存している。
教会堂の荘厳な様相というものも、
贅を尽くした王宮などの傲慢さと何が違うというのだろうか。
宗教史なんかむしろ壮大な無慈悲と空疎そのものを示している。
異教徒を迫害しまくる暴力史の過去ばかりである。
倫理の欺瞞が満ちている。他者への寛容ということがない。
宗教の影には、不条理が張り付いていて、終わることなく
諍いの元になっている。しかも制御する方策がない。
※ 神は、人間が創造したものである。
儀式を取り入れれば、それはすでに宗教風である。
儀式を重んじれば、それは独善的思考の始まりである。
儀式は運営の装飾であるから、
その装飾が眼にも荘厳であるほど暗示力が高まる。
戒律が厳しいほど、敬虔であるほど、
純化するという演出が仕組まれている。
要は、一体感つくりに集約されていて、独善的、排他的であり、
拡大志向が露わな独裁政党と変わりがない。
その価値基準を神の所為にしているだけで、
むしろ人間を冒涜しているのだ。
時代が下がるほど、宗教の実態は変容、自己欺瞞に堕ちていく。
この点も独裁政治の行く末と変わることがない。
ある宗教は、秩序や戒めを説く。
それを崇高な規範として個々人の精神支柱として契約させる。
契約しない者は排除される。
別の宗教では、「問い」が宗旨の根本原理となっている。
問答の解が無限であり、悟りが精神の到達点であるとされる。
しかも、それさえ無とする
人は厳かなものを求める。
自分からずっと遠い抽象に精神を委ねたいという願望が、
人には潜在する。
それは自然そのものであつたり、先人の偉業であったり、
仮想であれ、その大きさを畏れ服する。
もろもろ生きる知恵を凝縮した智者の教えに心服する。
それが生きる基準であり、崇拝、敬愛であり、安寧となる。
それを満たしてくれる畏れへの服従や信仰がなければ、
漠として潜在する不安から逃れられないということだ。
智者のことを神の使徒としている。智者なら一人といわず存在する。
ゆえに、宗教はひとつではない。
智者は、生きるルールを説き、慈愛を説き、安らぎをもたらすのだろうが、
智者を敬愛しすぎた人々は、必然として排他的になる。
自ら、思考停止を受け入れている状態である。
なにが神なのか、そこに明快な理を設けないのが宗教者である。
彼らは、神の使徒や解脱者として崇拝される智者の言葉を伝えるだけだ。
智者の言葉が安らぎや勇気を与えるのか、
知恵の有り様を教えてくれるのか、
愛と慈しみで包んでくれるのか。
人は信仰の子になろうと欲する。その畏れを汚すものや事柄を、
自分の基準を毒するもの、不安に導く要因として排除する。
頻発する宗教的な紛争は、人としての基準の戦いであるから、
地政学や経済を背景とした紛争と違って、
時間経過による収斂や終息ということがない。
妥協のないやっかいな紛争である。
だが、神や智者は何も示さない。
神のために戦争をし、異教徒を残酷に排除しても無言である。
※ 神は我々の上の方にいるのか、隣に座っているのか、
それとも我々の中にいるのか。神は知者を経由する。
どうであれ、
聖堂や、寺院の荘厳さを気取った建造物や儀式の有り様は、
後世の宗教者たちの演出に過ぎない。
宗教者には荘厳観こそ説得力である。
彼らはそうした舞台装置を活用して人々を暗示に導く。
従え、黙して従えと、人々に思考停止を促している。
神は存在も力も示さない。
神の存在を問うより、人はなぜ神を必要として来たのか、
それをもっと問うてみた方が良い。
神を求めてもなお、人類は我欲あるゆえに生きている。
※ 産まれながらにして、人間は原罪を負っているという宗教がある。
無茶苦茶な話ではないか。存在がすでに罪なのか。
どうしても辻褄が合わない、儀式の大義を何とか整えるために、
具合がいい動機付けを思いついたものだ。
仮設定しておいて、連なる必然を組み立てやがったのさ。
※ 宗教団体がもたらしてきたものを、高みに上げることをやめよう。
それは常に高みからの正義であり、教えである。
宗教あればこそ建築美術が生まれたなどと感心するのはやめよう。
信仰は共同社会に求心力を生む。宗教者の望むところだ。
神の名を使うことで、暗示や誘導を駆使してきた宗教者の罪は深い。
世界史は異教徒の迫害が頻繁に行われた事実の列挙で溢れている。
教えは強要され、滅ぼされた文化や民族が数多いことを世界は知っている。
絶滅する動物や植物なみに大いに慨嘆されるが、歴史帳に留めるのみである。
いつも他者に対して敵対的であり、いつも露骨である。
このあとも世界の動機として紛争を生み続けるのだろう。
※ 人は人をあまり信用しない。
だが、神説や迷信や風説を信じる。
現実を回避できるものを信じる。
曖昧なものを心ゆくまで信じる。
というより身を委ねる。手軽であるから。
天国に行けるとか、地獄に堕ちるとか、あの世で仲良くしてるとか、
そんな滑稽な幻想がまかり通るなんて、ひとたちの心の弱さである。
それは宗教の営業口だよ。
というより、死者や先祖を出しに使って、生き残ってる者たちが慰め合う安手のロマンに過ぎない。
土葬の死体を見て、火葬の遺灰を見て、異界に行けるとか、蘇るとか願うなんて、
陳腐な空想に浸ることができるなんて、なんと人の頭は便利にできてるのか。
避けられない生命の消滅、それだけである。
先人が言ってるじゃないか、空であると。
※ 誠実な信仰は、神の教えに忠実に生きることだ。
だが、その忠実が他者を排除する強い動機に変わると、
その排斥に生命を捧げるという人や集団が現れたりする。
そのとき神の名が頻繁に口にされる。
神に命を捧げると謳われる。
捧げられても、神にはその幻想の置き場所が存在しない。
もしかしたら、捧げる者にもそれはわかっている。
神を口にするのは、自己充足に枕言葉がほしいからだ。
むしろ神をかたる分その残虐さは激しい。
だから、宗教とはいったい何なんだと、やっぱり問いたい。
宗教がある歴史と、宗教のない歴史では、どちらが
殺戮が少ない世界を作れるだろうかと空想してみたくなる。
もう一度問いたい。
宗教者たちは、人々になにをなしているのか
彼らは、導いていると言うのだろう。
暗示、催眠、恍惚、言葉の麻薬、
しかし、それは医者の処方より役に立たない。
※ 神は人間を救ったことも、愛したこともない、
使命を伝えることもない。
あなたの神は、人間世界で何が起きても岩のごとく黙してます。
それでもあなたは岩を愛している