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世態迷想・今日の私は昨日より新しい 

あれやこれや書き溜め・・
   徒然の思いは尽きもせず

言い古された諺は‥

2023-10-12 | 雑々と過って惑う

 

※ 言い古された諺は生きている

身の回りには言い古された諺が沢山ある。

或いは、年寄りの知恵として発せられたこともるだろう。

人は成長につれて論理的な説明や方法に慣れ、それで合点がいく。

で、俗な諺を軽視して、それが存外に理に適っている事に気が付かない。

その含意は凝縮されており、そのうえ口語的な平易な言いようなので、

その論理性が希薄と直感するのかも知れない。

言い古された諺を口されると、面白くない軽口か皮肉と受け取ることになる。

 

だが、さまざまな曲折を経た末に難題の出口を見つけた後に、

問題の本質が、言い古された諺に喝破されていることに気がつくことがある。

平易な諺は短絡しているが本質を指摘しているのだ。鋭いのである

 

 ※ いつのころからか、耳障りなこと

関係性とか空気感とかいう言い方をよく耳にする。

が、このいい方が僕は引っかかる。気持ち悪い。

いろんな単語に的を不用意に付けまくることと同じだ。

単語に安直に糊付けしても特殊な雰囲気は出ない。

前後の行間が生む感性に任せることだ。

とにかく、無駄な畳語みたいで聞き心地が悪い。

不要な装飾をやめてもらいたい。言葉の力が腑抜ける。

関係や空気でなぜいかんのか。

 

※ 理では分かっていても、情で動く

 情では分かっていても、理で動く

 どちら取るかで、辿る結果は違って然り。

 

 

 

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先ず大掴みに

2023-02-19 | 雑々と過って惑う

※ 先ず、大掴みに

知識は武器である。隠し持っていよう。

だが知識は、知恵ではない。

 

状況の変化でその知見が錆びつかないよう、

現実の表と裏をすり合わせて考えること、

それが砥石となる。

 

寝込むと、視野が限られる。

病体を横たえている人に見えるのは、病室の壁だけである。

若しくは、天井だけである。

比例して、その病人の思考とか感情は、極めて狭められている。

人には視野範囲が、思考に大きく影響を与える。

場面に次の展開とか光景がなければ、心理や思考の次も出てこない。

ただ圧迫されて、感情も思考も狭小に偏っていく。

 

物事の推移を大づかみにするときに、

私はサシミ(3,,)の法則を使うことにしてる。

 肯定、好意、味方などの支持側が≒30%、

 どっちつかず、無関心層が≒40%、

 否定、嫌悪、対立などの不支持側が≒30%、という仮定である。

社会的な事柄も個人に関わることも、この法則を当てはめると俯瞰しやすい。

何事も、中ほどに横たわる無関心層の動きで、大きく変容するのだ。

 

優越者は、傷つく側の立場になって想像することが一番苦手である。

 

一部の人たちは、社会をすり抜けるための道具として、

法律を巧みに使っている。

 

他者を傷つけぬ限り、人は思いのまま生きるべし。

だが、気づかぬうちに他者を傷つけているものだ。

いつも自己点検が求められている

 

人は、いつも判断を迫られる

判断とは選択である

その基準は、損得、倫理、効果の推定であろう

 

人生の決めようには、定型がない

社会に貢献したい意思の強い人がいる

何かを極めたい人がいる

何かを解き明かしたい人がいる

日々をただ楽しみたい人がいる

家族との喜びが一番という人がいる

非行から抜け出せないで、社会の影で生きる人もいる

ひたすら、富に執着する人もいる

なんの違いが有るのだろう

それぞれの人生が其々の人にある

有名であれ、無名であれ、豊かであれ、貧者であれ、知性や感性がどうあれ。

 

※ 凡愚の眼

だれしもが、気にもせず無駄遣いしているのは、時間である。


生きていることを堪能するには、縦横な好奇心が
要る。

老いに合わせて、その気持ちを萎めてしまう手もある。

 

 粗野な、素質の良くない人間が大金を手に入れると、

必ずおぞましい騒動を起こす。

 

感傷的な思考が尊重されすぎて、ドライな合理性が見えてこない。

 TV番組の制作に携わった者たちは、気づかぬまま、

物の見方が浅くなっている。

パーフォーマンスを核に置いた発想しかないからだろう。

 

事実を後で知ってゾッとすることがあるが、

だが渦中にあるとき、

誰もがあんがい鈍感にあるいは平然とやり過ごしている。

 

他人に敬意を払うことは損であると、中国人は考えてるらしい。

徳などなんの価値も生み出さないと思っている。

古代中国の文化は彼らには無関係だ。

社会にも個人の成熟にも役立っていない。

古代に文化があって、間がすっぽり抜けて、今世紀が出現している。

我流の治世もここまでくれば彼らの看板だ。

世界の評判がどうであろうと。

 

社会の色合いは、終始灰色である。

白くなるのか、黒くなるのか、いつも不明である。

粗野で、無作法で、粗暴な人間がどの社会にも尽きずにいる。

 悪質な意図を持つ人間がどの社会にも尽きずにいる。

 その比率が少ないほど、その社会は成熟しているのだろう。

 そうした人間が生まれにくい環境を作れるのか、それが社会のレベルだろう。

 

縄文時代の造形と文様、あのデザイン力に勝るものは滅多にない。

原初の息吹きに敵わない。

 かの時代にも人間味のある人たちが多くいたと思う。

 現代の人たちが彼らより優れていることがあるだろうか?

 もっとも進まないのは人の心の姿であろうと思う。

 

理念の牽引力は、庶民の不満の総量に耐えられるだろうか

 

世界は憎しみの方向だけに動いているようだ

 

前世紀と比べて、世界の憎しみは、ずっと複雑に増幅している。

 

忖度と空気の関係は、市民のオウンゴール

 

最強の教育者は、もちろん親である。

日常のなんでもない習慣こそ、情操教育のみなもとである。

 

丁寧な掃除の仕方、それはもう文化だ。

 

著名であるからと言って、誰もがバランスがとれているわけではない。

 

「ミスを少なく・・」が世の常道 そこで可能性は求められない

 

反問してみると、何かに辿りつける

きみはほんとに美しい‥きみはほんとに美しいか

  

”連帯”を掲げる落とし穴

 

年齢がぐっと進むと、顔の構えに何かしら弱々しさが顕れる。

眼から力が失せていく。

 

個人も組織も、彼ら自身が持つ得意技で失敗する。

なぜなら、いつも有効に作用すると信じて疑うことをしないからだ。

 

長い歴史を持つ国や民族であっても、

いま、どんな社会に辿り着いているか、それが問われる

 

はしゃいでも1時間、はしゃがなくても1時間、

どちらもそれなりにイイ時間だ。

味わいはそれぞれにある。

 

次に出くわす場面を幾つ想定できるかどうか、それは知恵力に比例する。

 生きるということはどういうことかと、思索を深めた人たちに敬意を払う。

しかし、崇めることとは別だ。神とはしない。

寺や神社で私は拝まない。虚しさが襲うから。

ひたすら建物と風景を楽しむ。携わった職人たちの技巧に感嘆する。

 

何事も日常化してしまうと飽きる、変化することへの誘いに鈍くなる。

自己満足できる成果もなく、心の乱れも中庸で、明日は何をしようかと思ったりする。

 

歳とって聞く童謡に、別な味わいがある。

老いた心の奥に未だ残る清らかさに突き刺さる。

 

空いっぱいの、真っ赤な夕焼けほど、

胸いっぱいになる刹那的な感動はない。

心は雲の襞に溶け込むばかりだ。

 

たった一度の生命を、どう生きようか、どう生きようかと、

ウロウロしながら、無為に過ぎて、

一生が終わってしまうのではないかと思う。

どんなにジタバタしても、あぁどうしょうもない。

 

逆算的な思索で何かを取り戻そうと・・足掻いたりする

 

こういう人がいた。ああいう人がいた。今はもういない。

それぞれの物語と一緒に消えてしまった。

世に、悲しみも寂しさもない消え方などあろうはずもなく、

人々の紡ぐ世界は、何千年もその雑多な生き死にを繰り返して成り立っている。

わかっているけど個の消失に抗いようがない。

 

現役を離れ、歳とるほどに、自分の拘りからふっと自由になっていく

良いことか否かはわからぬ、ただ心に軽みをおぼえる。

 

古希に至り、これからがいいいよ修行の時間だよ 

 

今は、政治が電子技術の成果の後を、息を切らしながらついて行っている時代である。

驚異的な電子技術の進化と普及が、世界中のあらゆる分野の動機を発奮させ、

隅々まで一変させている。

 

どんな仕事であれ、正なる向上心を失えば自滅する。

向上心は、強い芽に等しい。

 

祝祭は日常がディフォルメされ 省略され 寓意を鏤めて

組み立てられている。

したがって,その登場人物,装置のそれぞれに別な顔が隠されている。

それを宝探しのように楽しみながら,恐れながら、

隠されたものを見つけていく。

 

大多数の中にある小さな悪意と身勝手さを軽く見てはいけない

無神経な言動や挑発で,安定を危険にさらす行為

盲信,デマゴーク,幻想・・社会の見えない舞台装置

 

多様なメディアの出現で、各層の様々な声が露骨に聞こえてくる。

諸々の実像が透けて見えるようになった。

薄っぺらななことが溢れていて、楽しめる。

 

政治家とは、狡猾さと策謀に魅入られた人たちなのか。

そうでなければ選挙の際に、

あんなにも心のこもらないお辞儀や握手が出来るわけはない。

あんなにも他党の中傷ばかりで演説を埋めるわけはない。

 

日本という国の有り様を動かそうとする魂と、

日本という精神を探求しようとする魂、どれもこの国の山河である。

 

排他と許容は、いつも社会の大きな動機である。

社会がもっている電荷のようなものである

絶え間ない紛争と殺戮は、この二つの動機で発生している

 

※ 渦中にあるだけでは

さて、どうなんだろう・・

取り巻く事象の中で、熱心なプレイヤーであろうと、

熱心な観戦者であろうと、瞬時でいいから、

さて、これはどうなんだろう? 

これはどうなってるんだろう? 

という鳥瞰が必要であると思う。

渦中にあるだけでは、方向も目的も見失ってしまう。

 

比べる

人の判断は、およそ“比べる"という事から出発する。

物であれ、人であれ、考え方であれ、そこから先ず直感的な選択をする。

それが偏見であったり、理に適ったり、社会的な公正に反する場合もある。

物事の長短や特長の判定に“比較”は便利過ぎるのである。

そして、人はその比べるということから逃れられない。

比べてこそ、次の展開や発見を期待している。

必然として、区別、分類、差別の源泉になっていく。

それが私たちの周囲にに露骨に持ち込まれると、

様々な不公正を生み出し、深刻な諍いになる

 

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良いこと

2022-03-27 | 雑々と過って惑う

 

※ 人は良いことを考えるし、良いことをする。

優しいし、他人の立場を理解するし、尊重する。

だれも親切であるし、周りに配慮するし、協力し合う。

と、夢のようなことを、少年時代は心底信じていた。

 

ところが成長するにつれ、

そのどれもが、実はそうではないと気づかされる。

少年が信じていた、人の心と振る舞いの像が定まらなくなり始める。

何事か異変を感じた時、人の反応にとてもばらつきがあることを知る。

 

少年はそれをどう受け止めていいのか判らない。

そのころから長く、少年のものの見方が彷徨い始める。

 

なぜ、あんなひどいことを人は出来るのか、

どんな心の動きであんな恐ろしいことが出来るのか。

人の振る舞いの源を想像できなくなっていく。

 

良いこととはなにか、悪いこととはなにか、考え始める。

何故良いことなのか、なぜ悪いことなのか。

そんな素朴で、誰にも等しくあると信じていた事柄の内側には、

実は他者から見えにくい野望や攻撃性が潜んでいる。

それが時の事情に応じて、ぬっと現れるものだということを、

知りたくないけど知るようになっていく。

 

仮想のカメラに見られている・・というのが、

小学生の頃のボク自身の行動への戒めだった。

そのカメラに僕のズルさが見透かされているという恥ずかしさ。

稚拙な発想だが、当時は映画がどう作られているかも知らなかったし。

 

裏にある事情や潜んでいる欲望を、

他者が透視することなど出来るわけがない。

であるから、良いことは必ずしも良いことではなく、

悪いことも実は悪いことではないかもしれないと思い始める。

 

ものの見方や捉え方は、全く状況に相対的なもので、

絶対的基準というものが、人の考えのなかには、

ほんのわずかしか存在しないことがはっきりしてくる。

 

昨日も今日も、さまざまな社会的な事象は、どれをとっても、

人を破壊しないという価値の順位は、後方においていかれる。

そう意図してないにしても、現実は具体的な実利が最優先される。

人間から人間を守るために、人間集団から人間集団を守るために

様々に戦略というものが編み出されている。

 

かつての少年は、

重層的な社会の現実の課題や状況をとても解きほぐせない、

人間の営みに正解などあるのだろうか。

たくさんの正義と正解が・・・、だから人は”悪いこと”をする。

 

人生の決めようには、定型がない

社会に貢献したい意思の強い人がいる

何かを極めたい人がいる

何かを解き明かしたい人がいる

日々をただ楽しみたい人がいる

家族との喜びが一番という人がいる

非行から抜け出せないで、社会の影で生きる人もいる

ひたすら、富に執着する人もいる

なんの違いが有るのだろう

それぞれの人生が其々の人にある

有名であれ、無名であれ、豊かであれ、貧者であれ、知性や感性がどうあれ

 

美空ひばりは自分の豊かな声を操るのが非常にうまかった。

彼女もそれを知っていたのだろう、

歌心を込めて、その表現力を楽しみ尽くしたのではないか。

 

雲が大空に浮かぶ光景は、すばらしい。

それを無心に見続けると、気持ちが広がっていく。

形をつくったり、変えたり、消えたり、また現れたり、

80歳の眼は、雲の自在な姿に溶かされていく、隠れて操ってるのは風だ…。

 

星空のことを殆ど知らない。

満天の星という言葉だけ知っていて、ほとんど夜空を見上げたことがない。

星座を見つけて楽しんだこともない。

ただ、あらためて深呼吸をするような気持ちできれいな夜空を

見上げてみると、溢れているその星数には、毎度新鮮に驚いてしまう。

無心に見上げ続けるしかない。

これまで星の夜空を見上げなかったことを、損しちゃったなと思ったり。

とにかく広い、そして溢れんばかりの星がある。溢れんばかりだ。

どれかの星から地球をみれば、やっぱり数多ある小さな星の光の

一つにしか過ぎないのだろう。ものの見方がすっかり変わってしまいそう。

満月を愛でて満足してしまうような宇宙観ではいかんぞとおもう。

雲のずっとずっと先の尽きぬ宇宙に、こころ浮遊も悪くない。

 

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歳の差

2017-07-14 | 雑々と過って惑う

 

※ 話が広がらないのは、退屈だ

前に進みたい。歳が幾つであれ、

前に進みたい人と話したい。

 

※ 歳の差

若い時は自分に夢中だから、自分の行く先を探すのに忙しい。

たくさんの経験を欲しがっている。

でも自分を未熟とは思いたくない。

 

年齢を重ねた人からすれば、

迷路ゲームを上から見ているようなものだから、

そっちじゃないよと思っても、

渦中にある若者の耳には届くはずもない。

ああ、また同じ間違いをしていると嘆くしかない。

慄き、傷つき、もしくは他を傷つけながら、

偏狭な渦中で無駄な動きを重ねている。

生き方は効率で括るわけではないから、彷徨いこそ若さの特権だ。

 

人は、先人の経験した苦しみや後悔をまるで学習しないし、

感知できない。

先人と同じ過ちを繰り返し、

その次の人もその悔いをまた学習することがない。

人の歴史はそれを実践的な悔いを証明するためにある。

 

知識が豊富でも、愚かな行為は沢山ある。

知識が乏しくても、賢い判断は沢山ある。

 

大人の知恵はマニュアルの蓄積に過ぎない。

過去の経験に囚われて、縦横な着想や柔軟な判断が阻まれている。

したがって、子供の着想に驚いてしまう。

大人を驚かす子供が少なくなっては大変だ。

 

有名でもなく大活躍もしないが、素晴らしさを感じさせる人の姿、

密かな望みを抱きながら、狡猾さもなく道の真ん中を歩いてる人、

自分の目の高さの遠くを見ながら歩くことが、姿を美しく見せる。

どんどん作業することで、進化が広がる

 

※ 朝の鏡

歳とって、自分の顔がこんなに緩んでひどい面になるなんて。

朝の鏡で老けた顔をしみじみ見ながら、思わず心で呟いてしまった。

「母さん、僕もすっかり歳とって80歳すぎたよ...、父さんより長生きしてるけどね。」

 

中学生になったばかりのころ、ふと思ったことがある。

自分の一生の終わりが近づいたときになって、その一生を振り返って、きっと後悔していたたまれなくなるのじゃないか、そうなったらとてもイヤだな、一度だけの生命だから。

とそんな思いが過ぎったことを、妙に覚えている。

 

さて、いよいよ80歳を超えて、

少年の頃の心配は、残念ながら見事に当たってしまっている。

人生の大半は、怠惰と踏み込みの足りない生き様ばかりだったと、

まさに僕は悔やんでいる。

大きなテーマを掲げて、ひたすら向かったという充実感がない、寂しい。

何かしら夢中になったことも沢山ある、仕事も面白かった。

だが、何れも達成感が薄い。

深くのめり込んで、自分なりに合点が入ったという思いがしない。

生き方に必要なのは、やはり自分に課した目標だろうと思う。

全てはそこが出発ラインである。

日だまりの心地良さばかり求めては、やがて空疎のしっぺ返しを受ける。

 

だからこそなお、

今からの時間は残り火であってはならないと思っているが、さて・・。

また年が明けた。

 

70歳を超えた頃から、

時間の感じ方が、これまでとまるで違うことを実感している。

時が過ぎるのを速く感じることに変わりはないが、

何かゴソっと時が通り過ぎてしまう感覚だ。ごそっとである。

若い時の5年間とは明らかに時を惜しむ思いに大きな違いがある。

抗えない大津波がやって来るのに、慄いているのだろうか。

分かっていても、

日常の細々としたことの中で、時の襲来を忘れてしまっている。

きっとそれでいいのだろう。きっと。

 

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雑々感

2017-07-14 | 雑々と過って惑う

 

あんなことこんなこと

夢を生み出す脳力のアルゴリズム

夢には、現実であり得ない人に潜在する不合理な願望を

充足するという役割があるらしい。

夢の中で暴力を振るったり、記憶にない人物に出会ったり、

思いもよらない性夢をみたりする。

人は、夢と目覚めの二通りで心理の均衡をどうにか保っている。

 

人は、心に自分だけの箱庭を持っている。

 

人が知る世はどれもこれも断片である

そして、それぞれの断片で終結する

 

路傍の石や木の葉,水の流れに感興を覚えるようになった、

性欲が薄れたという証左に違いない

 

落ちる夕日は心に沁みる。昇る朝日に清々しくなる

 

10日間部屋に閉じこもっていると,異世界に突入出来る

 

古代,王の愉悦感、優越感は自己暗示の強さ

 

美しいところを見つけようとして,美しくないところも見つけてしまう

 

いつもと違う言い方をしてみると,

何か新しい摂理でも発見したような新鮮さを感じることがある

 

傷口についたガーゼの剥がし方が違うだけ・・それだけの違いだ

 

詩は多様な声をイメージする

詩は恐れを予感する,人間の怖さを予言する

 

直感を第一次的に正しいとする賢さ

 

人間にも、赤潮(富栄養化)症状の人がいる。

 

ストイックでいる快適さは、精進料理の味わい。

 

世の中には、少々のクズと大勢のクズでない者がいる

少々のクズが世を悪く騒がす、誰がクズだか予め分からないことが

悩ましい。

 

やまびこの返ってこない山に向かって声を出してもつまらない

交遊にも当てはまる 何かしら情の残る人とそうでない人がある。

何がどうと具体的に述べるは難しいが、余情が漂うのだ。

また会いたいという気持ちに誘われるのである。

相手が異性の場合、余情は魅惑につながる。

交遊のエッセンスは余情にありである。

 

繁華街は用事済ませば,さっさと離れたい

そうでないと夢遊病者のようになってしまう

 

大概のことは受け入れたい

 

ダンディとは何か、と語らないのがダンディである。

なりふり構っていられない時に,なりふりかまってしまう意地。

 

好きに過ごせる事に浸れるか 心ゆくまで堪能するにも知恵がいる。

 

君は一体何を待っているのだ さあ、先に進みなさい。

 

自分が何をやってきたかを得意げに喋りたがる人が多い

これから何をしたいかを熱心に語るほうが良い

 

自分の都合に沿って、物事の行方を期待しても、

それは大方、期待とズレて、新たな葛藤の始まりとなる。

 

自意識ばかりが強いと、好奇心がひ弱になっていく。

 

現状維持に心を砕き,工夫を凝らす人

変化することを第一義と考える人

 

世の中は、いつもいつも問題だらけ。

 

興味の尽きない散歩道を得た者は、happy。

 

心の自立とは、孤独に耐えるネバリ強さ

 

湿った布団の中にもう一度潜りこむことはやめなさい。

 

政治家によくあることだけど、

得意技が場面転じれば、失敗を誘発している。

 

過ぎ去った事柄への悲嘆

 

どこに住まおうが、どんな家を構えようが、

要は、いかな精神と思考を感知出来るかではなかろうか。

 

路傍の野草に仮想の花を咲かせると、その野草が愛しくなる。

恋はそういうものかもしれない

 

化粧している時の女の表情を見たくない。

本音丸出しで、品がない。素っぴんがずっといい。

 

人は案外自分自身を誤解している。

振り返って、自分の人生の狭さに呻く、なんて頑なな、

なんて小さな拘りか。

もっと広い感性を、もっと広い思考を、

 

観戦する楽しさ、でも少しの寂しさがある。

何であれ、プレーヤーの快楽を味わいたい。

 

柔らかな風が肌に触れて通り抜けるとき、安らぎを感じる。

風は優しい時もある。

 

あなたは一体何を待っているのか?

中途半端じゃないか。自己開発だよ、おっちゃん。

 

悲しみを忘れられるはずがない。

悲しみを忘れないことが、生きることの力だ。

 

過去を味わうことで、心の襞が増えると思う。

 

TVを見なければ、軽薄を見ないですむ。

 

いつも身近にあってつい誘われてしまう、昨日も今日も怠惰の真ん中。

見えるところだけが、人の仕事ではない。

 

朝の光は限り無く優しい。弱った心が朝の光に救われる。

 

豪華さは要らない。洗練された選択がイイ。

 

人は生まれてすぐに悪を学習してしまう善である。

 

人の特質はしゃべることだ。

 

人だけが幻想を追う。混沌は、そこに始まる

 

幻想は、そう気付かれないところに価値がある。

人が追い続けてくれるからだ。

 

人間は人間に対して冷たい。政治の歴史がはっきり言っている。

強い立場にある時、人は他者に対して澄まし顔して、傲慢冷酷になる。

 

人間関係は、相手についての想像力の強弱で成り立っている。

 

新しい状況に置かれたとき,人は変わる。

反発か服従か、非日常な瞬間にこそ人の深奥の衝動が顔を見せる

 

彼は周りの人々を、いつでも自分の知力で料理できるものとして、

見ている。私は周りの人々にいつも驚きを感じながらみている。

 

自らはヤル気なく,論評を得意がる人は集団のウィルス

 

戦闘を有利にするには,敵の持つバランスの破壊が第一である

 

何かを忘れてきているという,ジワっとした強迫心理

 

ああ 独りだ な

 

人が祈っている姿に素朴な美しさを感じる

恐れを知っている人間の姿があるからだ

不安定が人を神妙にさせる

 

若え奴らは、勃起するんだからオレは男だと得意がってやがる、

人の発情は動物のそれよりずっと質が悪い。

 

人前でも気持ちよさそうに背伸びすることがあるでしょ,

SEXってそんなものよ

 

ある人に問われた、きみの地平線からミュージックが聞こえてくるか

 

どこかに何でもお見通しの人がいる、というのは安心なのです

それが神様なんだ

 

言葉は重いんだ,ほとんど無視されてしまっているけど

 

頭のなかの歯車が滑っている

 

相手の普段の生活感覚がモロ見えになる、それが結婚である。

良いことばかりに幻想を抱いていたものだと。

妥協はそこから始まる。相手もきっと同じ思いだろう。

 

与えるものがないと実感したとき,人は寂しくなる

 

貧しさも,豊かさも争いの原因になる

 

知識で生きないで感受性で生きてみたら、風景も物も深い世界を見せてくれる。

 

イイ光景を見たい。

 

深いところに悪魔がいて,話しかけようとしている

深いところに険しさを好む人がいて,何かがいて,何かがあって、

覗いてみないと不安な気持ちになるからやっかいだ。

 

何に戸惑うのか,どう感じたか,何を畏れたか

何を拠り所にしたか,楽天と悲観の繰り返し

 

眼前を開いてみれば,そこに広大無辺の世界が広がっている(足穂)

 

直線以外のあらゆる線や形は、自然界にすでに存在している。

人々のデザインは、自然界から得たそれらの記憶を組み合わせたものだ。

人の感性は、決して自然界の外に出ることがない。

 

「病は気から・・」というのも、

脳と身体の反応が連携していることを証明である。

心身一体ということは、科学である。

 
雑駁に言って、

人々の思考や行動は、受信型にんげん、発信型にんげんに分けられるように思う。

社会の奈辺にあっても、ひとの動きはそう見える。

それが一方に偏りすぎると個人にも集団にも軋轢になる。

 

なぜ、生きているんだろうと思ったことはないだろうか。

 

人は人をあまり信用しない。

だが、神説や迷信や風説を信じる。

自分からも現実からも遠いことを信じようとする。

曖昧なものを心ゆくまで信じる。というより身を委ねる。手軽であるから。

 

※ 性欲は世界中に溢れているので安物扱いされる、

若しくは品格の恥部とばかりに気付かないふりをされている。

食事やスポーツのようでもあるし、単に排泄欲求かもしれない。

だが、芸術や思想の発現には性がある。異性愛の原点である。

セックスレスも痴漢行為も、性情の発露を違えてる点では同じである。

 

性の衝動は生命の証であろうから、第一義は良である。

 性交は人が動物の生理にもどる瞬間である。

ここで品性は必要とされない。

人格の保持がもっとも希薄になっていく。

肉体が愉悦感に達するまでの過程は、

思惟のコントロールを放棄した時間である。

その性の衝動はカップル特有の感情表現に変わる。

 

生き物の生理的な欲求は、食、繁殖、休息であって、

本能は、全てそれを充足するために用意されている。

生き物の行動は、ひたすら不足と充足の循環で繁殖が保持される。

何百世代もその基本欲求に忠実である。

 

人間に備わった脳力は、生理的な基本が他の生き物と同じでも、

その欲求が原初のままでいられずに、

多様な派生を繰り返し、膨張し変形する。

学習力や創造力に優れ豊かな感性を生み、その展開は多岐にわたる。

変形や深化で成し得た無形のものを文化と呼んで尊ぶ。

あらゆる道具を作り出す。

自らの生命や宇宙の成り立ちまで解明する欲求に溢れている。

ではあっても幸福欲が満たされているわけではない。

実現した充足より破壊の方が際立っている。

破壊された側が声を発せられないだけだ。

 

色彩はわずか赤、緑、青の三色から合成される。

この三色の微妙な混ざり方であれほどにも多様な色調になる。

混ざり合う事の不思議さに驚く。自然現象の無量無辺である。

誰かの視覚の三原色のひとつが微弱だったらどうだろう、

他の人たちと同じ事象を見ているのに、

その人の視野にある色彩は悉く違って映り、

その印象や思考や反応が、きっと別物になるに違いない。

もしかして、

私たちは同じ事象を同じ色として見ていない可能性がある。

性にまつわる感性が根深くても、同じ水準の行動になることはない。

人の反応にもきっと当てはまる。

何かの不足や過剰が時には犯罪になり、

別には素晴らしい業績になる。

わずかな過不足によって社会的な混乱が誘発される。

であるから、人にも社会にも基準値に戻る復元力が必要だ。

 

衣服を脱いでしまえば、人の姿はわかりやすい。

世界の姿も同じだ、ここでも言葉やモノで巧みに飾られ、

私たちはその幻想に酔いしれる。

だが、修飾を1枚ずつ剥ぐ毎に、社会の動機が見えてくる。

欲望と手法が汗をかいて熱演しているはずだ。

 

身体の動きに使う筋肉は400もあり、関節は265箇所に及ぶようだ。

それらは、どんな小さな動きにさえも複雑に反応し連携して作用する。

軽い怪我でも身体の動きがぎこちなくなることからみても、

複雑多様な連携があることが判る。

 

加えて、

人の持つ身体的な特徴や筋肉のつき方、関節の柔軟性には違いがある。

それらは、無自覚な動きの癖となって誰にでも現れる。

走るという基本的な姿さえ、人それぞれ5体の動きが微妙に違っていて

同じフォームはない。

 

日常生活の身体の使い方にはまったく支障ないが、

ひとたび、スポーツなど特定の動きを習熟しょうとする場合には、

キチンと自分の癖を認識しなければない。

そのフォームにとって邪魔になる癖を修正することが必要だ。

身体に染みついている癖は容易に消えない。

適切な反復練習で動きのリセットが必須である

 

400の筋肉と265の関節の反射的な作用と、

身に付いている癖との調和を図って、

そのスポーツに適した自分特有のフォームを会得して、

動きの効率を高めなければならない。

 

癖を自覚しないまま反復練習しても、

安定した良いフォームに辿り着くのは難しい。

機械ではないから一流のプレイヤーであっても

自分の癖と折り合った結果として、

それぞれのフォームが微妙に違っていても不思議はない。

 

 

 

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あれこれ断片

2017-07-13 | 雑々と過って惑う

 

 あれこれ断片

何事も本音は、その目的よりも過程によく現れる

 

共同忌避,共同逃避、暗黙に知る場の空気・・社会に潜むおばけ。

 

人は対象との間合いで動き 対象に合わせた知恵を使う

対象が大きければ大きく動き 小さければ小さく動く

 

簡略、質素から、知恵と哲学が生まれる。

 

男女の比率が自ずと変わらぬように,

善があれば,それと同じ比率で悪の衝撃が絶えない

 

没頭することは,すべての条件に勝る

 

自由になりたい,どういう自分から自由になりたいか

 

推論や仮説は,実在に圧倒される。

 

原始的なものへの恐れ 自然のうねり,光

 

日常の振る舞いの中に いかに始源的な所作を見つけるか、

事実だけでは,艶がない

 

安心とは何か,

どんな状況のことを言うのかという問いに潜ってみよう

どんなうねりに翻弄されて,どんな不安や欲望が生じ,

どんな本性が試されるか

 

ディレクトリー(枝化)の脱線、或は癌化

 

世界の価値に縛り付けられる 価値の罠のなかで生きる 

時世の基準の中で 人は思考停止してしまう

 

自我は浮浪している 状況が追い打ちをかける

 

彼の優秀さは彼の性格に負けていた、よく見かける例である

 

不思議な何か つじつまの合わない何か 大きな何か

 

何事にも経過というモノが付いて回って,変節を誘う。

問題は,出発の時に原則が存在したかということだ。

それを思い起こせば、何が道を曲げた選択であったか気づくはずだ

 

思想とは,存在と周辺との相関関係を,

または非相関関係をフローチャート化したもの。

 

建て前の美化 その演者は誰か

 

モノの見方とは,両義性の推論である。

 

「飾り」を括る概念  

祝祭性の強調されない演劇は,見せる意味がない。

 

詩は,論理を疎んじた物語である。

 

人は理想主義を尊び、飢えている。

清らかであるのか,幻想という言葉を知らないのか

若いということは,そういうことか。

 

蝉脱 せんだつ

 

愚民愚衆の文化の受容力

 

まず仮説ありき。

どんな仮説を立てるのか,事態分析,方向,哲学が示される。

 

富栄養化の醜悪

 

人々は,自ら勝ち取るより,概ね与えられるモノを受け入れる。

 

慣性の法則は,人の心理によく現れる、その癖が魅力

 

探求の心 探求者の楽しみ 別の宇宙に入っていく興奮

 

軽やかさの透明感、明快さの残酷感。

美しきものの腐敗,すなわち最も醜悪なるもの

 

気力型,理論型,情緒型

 

人は変わる,ずっと同じではいられない

 

非凡な生活をする人々は、それに応じる条件をもっている。

 

地球とは一体なんだろう その上にある個々は何だろう

 

空想の中でママゴトをする

 

日常の言葉に隠れている無関心

 

人は歓喜する。

感性に響いたり、達成感を得たり、人との出会いに感謝する。

そうであるから、失望ということにも遭遇する。

やがて人生の経過とともに、心の弾み具合を下方に修正していく。

人はいつまでも少年でいられない。

 

間違っていると思ったら元居た場所に戻れば良い。

戻る場所が有るのは安心だ。

ではあるが、戻る場所を持ってはいけない。

戻る場所が無いほうがずっと孤独を味わえる。

 

未来の人はすでに過去の中にいる,過去の人をどれだけ想像できるか、

その生き方の多様なことをどこまで想像しうるか

 

芸術作品はどれをとっても、遺言のようなもんだ。

 

豊かな生活条件と豊かな精神性は必ずしも同居するのではない。

 

数学は、言語である

 

痩せた土地と肥沃な土地、同じ水と種を蒔いても実りはちがう。

 

いかに速やかに体系づけて位置づけるか,

どんな仮説,方向付けに持っていけるのか

 

「整合性」の危険、

ネジに合わせることに注力して、基本軸の変質に思いが行かない。

 

社会は、プレイヤーとオーディアンスで成り立っている

または、発信者と受信者でできている。

 

軽妙な遊びに、むしろ訴求力を生じる。

 

実体のない計画や目標に人は酔う。幻想は麻薬だ。

 

思考停止 或いは 思考崩壊、情緒崩壊 或いは 情緒錯乱

 

デトックス社会なんて、これも幻想。

 

人は、論理的なことと感情的なことの間で、

いつも揺れ動き、曖昧になる。

曖昧は解決につながらないが、人の逃げ場になる。

 

私は良く考えている、

という事を証明する為にだけ学問する人がいる。

他者に還元することのない成果である。

 

幻想に向かって走るな、せめて歩け

 

人生は肩パッドである

 

いつも迷いながら発言する人がいる

いつも迷いもなく発言する人がいる

 

人は、公に目立ってしまうと,もう仮面に変わる

 

君はいつも値踏みされている

 

自分のあまりもの平凡さにがっかりする

 

虚飾をフリ落とした後になお,

敬愛すべき言動,立ち居振る舞いを見かけるとき,

その印象はとても持続する

 

蜜蜂のように生きていけるか,花も香りも害さずに・・

人にはきっとそれができない

 

モノに囚われた人々

 

人は省略して語られる

 

何かを探し続けている姿は,人を引きつける

 

あの人は知性を隠すのがうまい人だ

 

一見何でもなく見えるものが、

時に多くのことを暗示したり表現し始めたりする。

 

定型とか定番に、わずかなズラシを試みて、

新たな心地よさを見付けられないだろうか、

デザインには、遊び心。

 

戯評の誘惑 時代の半歩予言者

 

見慣れた固形に、動きを加えると、新しい形が出現する。

あらゆる形はすでに存在している。

発見出来るか、否かである。

 

誰であれ、今日の自分は昨日より新しい。

歳が古れてもそれはなお変わらない。

「自分にとっての進化かな・・」こう思えることが案外いい。

 

一日を楽しく過ごすのは案外難しい。

それを続けるとなるとさらに難しい。

一日を充実させる事も難しい、没頭し続けることはさらに難しい。

だが、怠慢であり続けることはとても易しい。

 

一過性の業績と、形や記録として時を超えても触れられる業績とがある。

いま華やかな事は、そのほとんどが一過性である。

今日あるものは明日にはない。

時の流れの中で感動したりする、一過性である。

その感動を創り出す人も、感動を受ける人もそれでいいのだ。

それで時は過ぎる。それでいいのだ。

 

幼児の振る舞いを見ていると、小宇宙だ。

その脳細胞が、にょきにょきと神経を伸ばし、きょろきょろと動いて、

別の神経と懸命につながろうとしている。なにかを探し続けている。

そう、繰り返し繰り返し、好奇心と記憶と移り気が入れ替わっている。

 幼児の自己主張は、

「いやだ」と「○○ちゃんも(自分も)・・」の連発から始まる。

人も社会も自己主張は、すべからく拒否と利得で構成されている

 

若い人たちの躍動は素晴らしい。

 

動物は時を知らないだろう。ただただ今を生きる。

人は、時の経過を数字で自覚する。

10年ごとに見直せれば、人生の不足に気づくはずだ。

だが100年生きても、きっと知らないことばかりだ。

 

自分の足りないところを知って焦るのが、凡なるゆえんか。

損得を気にしてしまう人生もある。

脱皮し続ける人生もある。

はっきりと目標を立てるか、背中を押してくれる誰かがあって、向上心は増幅する。

一本道のようでもあり、迷路の旅でもある。

たとえ幅広い活動の人生であっても、それはやはり消滅への一本道に変わりはない。

 

80の日々は、おろおろ旅のよう。

病に揺すられ、感傷に揺すられ、悔悟に揺すられて、

それでも明日はまた何かに出会える、そんな思い、

なるほど生涯は短い、物足りない。

そう、来る日も来る日も、何か宿題を忘れているような、

もやっとした気分に追いかけられている。

 

自分の感じるところを伝える言葉を探すのは難しい。

 存在する言葉が、人の感情の機微を表し得るとは言えない。

 巧みに言葉を絡めて心情の近似値を伝えるだけである。

 詩がそれを救う。

詩は言葉の閉塞からなんとか脱出しようという試みである。

 

 人生って何だ、自問できても自答できない。

たった一回だけ、誰もが知っている冷酷な人生の理を、

熟年期も疾うに去った晩年のある日、沁沁と感じる。

悟りか未練か。悟りなんかあるものか。

深傷を逆撫でするような痛みばかり。そうでない人は達人である。

若さはそんなことに知らんぷりしてばかりだった。

自分の時間をどう使うか、

その大事さにやっぱり気がつかないものだ。

 

地べたばかりを見てきたが、ちかごろよく空を見るようになった。

生きる時間が短くなってきたせいだ。

そして、誠に素朴な疑問ばかりを抱くようになっている。

宇宙って何だろう。

誰も答えてくれなくていい、

ほんとの事は誰にも分かってないんだから。

 

宇宙には一切の愛がない。

 

これも流儀・・

紅白歌合戦を見たことがない

大河ドラマを見たことがない

「北の国から」を一度も見たことがない。

朝ドラを一度も見たことがない

連休に旅行にでかけたことがない

歌手や歌に嵌ったことがない

フォークソングに浸ったこともない

初詣に行ったことがない

祭りに加わったことも 出かけたこともない

歌舞伎を見たことがない

築地市場に行ったことがない

福袋を買ったことがない

一般参賀に出かけたことがない

注目を引くような栄誉を受けたこともなく

指弾されるような苦い経験もない

 

海はいいな、と思ったことがない

酒がダメで、小料理屋に入ったことがない

プロレスに関心がない

流行りのイベントに関心を持ったことがない

たいがい賑わいから距離を置いたところにいる

ジャージーのトレーナーを着たことがない

そんな自分を不思議に思ったことがない

外国の人にあまり違和感を感じない

新しい街の景観にすぐ飽きる

側でタバコを吸わられても気にならない

 

何かを新しく始めていかないと、

年寄りをやっていられない。

萎みを堪えるにも、下り坂を歩くにも

力は要る。

 

 

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non-collection

2017-07-13 | 雑々と過って惑う

 

※ 物への執着心をなくすことはとても難しい。

所持することの快感が人を捉えてしまう。

餌に満たされている動物が穏やかでいられるのと似ている。

物を持つことの豊かさに心身が安らぐのである。

まして、便利さや快適さを十分にもたらしてくれる物なら

いっそう手放せないものだ。

物欲は執拗である。遠ざけるのにはかなりの精神的な代償が必要だ。

 

所持することの最少化、

日常生活の持ち物を出来うる限り少なくするということを、

生活の流儀にする。

持ち物が少なければ少ないほど、愉快になる。

この最少化の理想は、タンザニアのサバンナで見かけたマサイの若者だ。

世界に携帯電話など存在しない、ずいぶん昔のことである。

身には赤い布だけを纏い、槍一本を持って果てしない高原を抜けていった

あの孤高な姿だ。

彼にとってはなるべくしてなったスタイルであろうが、

とてもシンプルでしなやかな生き様と感じ入ったのである。

 

同じ事が出来ようもないが、

転じれば、モノを殺ぎ落とすことを所有への抵抗美学と見立て、

内なる悟りと心得るのである。

最少の物揃えで滑らかな日常を過ごせることにこそ、

心の平安があるという信仰である。

その基準値は、一用途に一点、一点の最大活用である。

法則は家具、衣服、身の回りの道具、キッチン用具、

趣味のツールなどすべての持ち物に亙る。

とにかくダブってモノを所有しないことを目指すのである。

「あれば便利--」などというのを排すること。

 

暇が出来ると、もっと整頓できないか、ダブった物どもはないかと、

前回の点検の甘さを見つけにかかる習癖が顔を出す。

購入額に拘泥しない。聖域はないのである。

あれこれと逡巡ののち、残すか手放すか決断に至ると、

心が洗われたような気分に浸れるのだ。

点検の目安の第一は、この一年間に必要としなかったもの、

同じ機能をもったもの、或は他の物でも代用できる物。

今までの点検で生き残ったモノの再吟味、反芻などである。

それでも踏ん切りがつかないモノについては、

目につくところに1ヶ月ほど出しておき、

迷いを払拭する時間をとることで、気持ちの決着をつけている。

で、整頓のベテランと自負している。

 

無論のこと、何かのコレクションなどはまったく楽しくない。

そんな恐ろしい事はとても出来ない。

逆さに言えば、どれだけ最少の持ち物で気分がすっきりするのかという、

最少所有物を選択するコレクターやもしれぬ。

 

ただ、思うに、

もう若い頃からの習い性にもかかわらず、

依然として変わらぬ点検が続いているという事は、

どういう事だろう。

こんな些事をとっても、手軽な悟りは実に危ういものである。

新しい物を欲しがり、持ってなかった物を持ってみたいという欲が

消え失せることもなく

根強く潜在しており、まだまだ甘いと自戒している。

 

こうした性癖の原点を遡ると、それらしい原体験に思い至る。

幼きころ、敗戦直後に引き揚げてきた体験に因ると思っている。

モノを多く持てば素早く移動できない、

モノにこだわると親と離ればなれになってしまう、

身の安全にかかわるという警告が、

幼少の脳の自衛回路に刻み込まれたのだと思っている。

追い立てられている強迫感、この非日常的な旅程の日々が、

子供にとって強烈でないはずはない。

 

さて、とはいっても現実、やはり煩悩はやっかいだ。

図書館が近くにあっても本の購入が止むわけもなく、

用途は同じでも新たなスグレ物を見付けると、

強い取り換え衝動を抑えられないのである。

あらゆる持ち物がこれまで何度入れ替わったことだろう。

新たな趣味が加わることもある。しかも道具から入るタイプだ。

衝動に抗しがたく手に入れ、やがて興味が薄れて、

所持放棄というパターンがなくならない。

物欲はやっかいだ。

つまり私の最少化は、倹約美学には少しも貢献してない。

買い替えればこれまでのモノは手元に残さない。

スペアとして残すこともない。

誰かに使ってもらうか、廃棄する蛮勇を奮う。

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空の空のそして空

2017-07-13 | 雑々と過って惑う

 

※ 空の空のそして空

宇宙の事がちっとも判らない。

普段、宇宙の大きさを感じるのは、巨大な太陽の存在である。

なんと無限のエネルギーなんだろうと思う。

科学者らの解明では、

宇宙の広大さに比べると我らの太陽は針先の大きさにも

満たないようである。

人間の時間感覚と空間認識力では太刀打ちできない

遠い遠いあちこちで、

光を放っている恒星がゴロゴロあるというのか。

しかもなお、

数兆光年の遠くまで観測できる可能性もあるようだ。

空の向こうに空があり、その向こうにも空がある、

それをなんど繰り返しても

未だその向こうがあるなんて、どう想像すればいいのか。

無限とは何を意味する言葉なのか判らなくなってくる。

私の脳は、無重力の暗闇に浮かぶを微細なゴミにもすぎない。

 

「新たに発見された銀河 [WISE J224607.57-052635.0] の明るさは、

太陽の300兆倍を超える・・」のニュース、

我ら太陽系なんて微少なもので、しかも宇宙の僻地にあるらしい。

まて、宇宙に中心はあるのか・・?

宇宙の起源ていったいなんなのだ、

はて、起源の前は空間も時間もなかったのか

なかったとは、あったとは、何のことになるのだろう

小学生が抱くような問いだが、私には今でも理解できない。

 

陽射しは まっすぐまっすぐ進む 地球の隅っこにいても

来てくれる

私のためにここにやってきたと言ってるみたいだ。

生きるものに力を与え、生きるものに過酷さを教える

われらにとって、きみより大切なものなどありはしない

 

 ※ 正確無比

宇宙の万物を変化させる科学的な法則が

絶対であることは自明である。

1グラムの違いでも計りは大きく揺れる。

わずか1°の温度差でも現象が明白に変化する。

あらゆる事象はその科学性の経過である。

その物理的な変化のままに動物世界も反応していく。

感情を生み出す脳の反応も化学的なのであって、

人間がそのことを言語で伝えたがらないだけだ。

そんな場面で人は神を活用し始めるのである

 

絶対の法則は、物理だけにある。

微生物や植物や動物の法則性も揺るぎないだろう。

常に不安定なのは、人間の精神である。

そこには絶対と認められるモノが存在したことがない。

人間世界にあるのは、比較によって、選択された価値にすぎない。

すぐに次なる比較に迫られる。その繰り返しが連綿と続く。

 

 ※ 自然に平伏

我々は風に平伏している。

あの優しい風が、勢いをつけると 

荒れ狂って 私らを容赦なく苦しめる

怖ろしいぞ 風の巨大さ

地球を支配しているのは、風だ。

 

世にある物は、例外なく腐敗し 酸化し 風化する

地球にとって腐敗は害ではなく、単なる工程に過ぎない。

地上を支配しているのは微生物である。

空気や土や水を支配しているのは化学反応である。

人間の知恵は、それらを少しだけ制御したり変化することが出来る。

自然は生き物を枯らす 

生き物は生き物を殺す 生き物だけがそうする

 

自然はいつも正しい。

全てに無駄がなく、互いの存在と価値に敬意を払って、

調和が生まれる。

自然の法則と流れは、人間の生き方の教科書。

 (TV番組「小さな村の物語」に登場した農家の人の言葉)

 

宇宙の無限の広大さを、人智は認識出来ないと思う。

地球は、無限の砂漠にあるたったひとつの砂粒のようなものだ。

きっとそうだ。

夜空に映える満天の星たちもまた、

砂つぶ地球と隣り合わせている成分違いの砂粒たちである。

 

宇宙では、中ほどとか端っこととか、位置づけが意味を成さないと思う。

地球に人類が存在してるからといって、中心置にあるわけではない。

ただ、我が砂粒からでも、宇宙の宏大を観測できると思いたいのである。

人は、そこらに転がっている石ころよりも、ずっと存在できる時が短い。

 

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時の軽さ

2017-07-13 | 雑々と過って惑う

※ 時の軽さ

時は、冷たい もっとも無情だ

目の前をさっさと去っていく

焦っても、怠惰でも、容赦なく過ぎ去っていく

生命には、無慈悲なこと極まりない天敵だ

なにもかも置いて、時は去っていく

喜びも 無慈悲も 残酷も 賢さも 愚かさも

何もかも置いて去っていく

 

時計は、社会を支配する究極のツールである。

人を追いまくって、曖昧さを許さない。

 

だが、たいていの人は時間に対して、非常に気前がいい。

本当は限りがあるのは資金ではなくて、時間である。

知っていても、誰もが知らない振りをしている。

 

2000年前に生きていたローマ人のセネカが、

なぜ人生は短いのか、すっかり明かしている。

  ****

われわれは人生に不足しているのでなく、濫費しているのである。

財産を守るためにはケチであっても、

人々は時間となると投げ捨ててしまう

何よりも尊い時間は無形なもので、肉眼に映らないから、

人々は最も安価なものと評価してしまう。

 

誰一人として近くに死を見つめる者はいないが、

誰一人として遠くに望みをかけない者はない。

 

ある人が港を出るや激しい嵐に襲われて

同じ海域をぐるぐる引き回されたのであれば、

それをもって長い航海をしたとは考えないだろう。

航海したのではなく、長く翻弄されたのである。

(セネカ「人生の短さについて」茂手木元蔵訳 岩波文庫から抜粋)

 

ひきよせて むすべば柴の庵にて とくればもとの

野原なりけり 慈円

 

時の過ごし方、没頭に勝るもの無し

どう生きるのか、いや、どう時間を費やしていくのか、

人はそれになかなか気付けない。時間をすぐ捨てる。

 

人生は自分の資質を発現すること。

少ない時間であるのに、むしろ焦って、彷徨する。

 

自分が何をしていようが、心のどこかで何かを待ってしまう。

そんなことが人生にはある。何かとはなんだろう。

 

美味いものを喰い続けたいのか

見知らぬ光景を見たいのか

恋をしていたいのか

家族の暖かさに安らぎたいのか

何かしらの解明に没頭したいのか

達成感が欲しいのか

指揮する立場を得たいのか

他者のために尽くしたいのか

豊かな幻想を編んで遊びたいのか

 

あちこち見て歩いたからといって、

うつくしいものを見たからといって、

旨い物を喰らったからといって、

物足りない気持ちが迫ってきて、焦ってしまう。

 

世界はプレイヤーとオーディアンスでできている、

または発信者と受信者でできている。

観客であるよりプレイヤーでありたいが、

私は祭りの渦中にいたことがない。

いつも群衆のなかで祭りを眺めている。

だから演者や競技者の高揚感を知らない。

 

持て余すような長い孤独の時がやってきたとき、

人はどうするのだろう。

何かを自身に問うて、何を満たしうるのだろか、

それでも迷い続けて、やがて死ぬ。

悔いが無くても多くても、人生の終末を実感する時、とても哀しい。

 

人は食べ物について語り過ぎる。美味しいことに溺れ過ぎている。

 

嗜好に偏っていないか、内臓を苛めていないか、副交感神経をリラックスさせて、

充分な体調回復を促せているか、そちらにもっと意識をおいた方がいい。

そして食べ物の残滓はさっさと排出しよう。

 

内臓を虐めすぎると、老化が早い。60代になるとその個人差が顕著になる。

とにかく若い時は身体に無理がきく。それがいけない。

 

取り込むことより、それを出すこと使う事にもっと注力した方がイイ。

 

筋力は蓄えるだけでなく、力として出すこと。使ってこその筋肉である。

 

・・知識は溜め込んでも役に立たない。

組み合わせたり、応用してアイディアを実現してこそ、知力である。

 

知識も筋力もお金も使ってこそ新たな価値を産む。

 

汗を出すこと然り、排泄然り、知恵だし然り、力出し、好奇心、意欲、

もろもろ出せである。

 

海を見て、思いの豊かな人なら、きっと海の広がりや深さや、

波の遠い向こうを様々な思うだろう。

海のなかを覗きたいと思ったり、

漁を思うかもしれない。

私は、波打ち際に立っても、いつもすぐ飽きる。

かぎりない広がりに、いっとき気持ちをもっていかれるが、

ざわざわとした波の動きと潮の香りを感じながら、

まもなく退屈する。

焦点を合わせようもない白紙の平面を眺めているような感覚に

なってしまう。

 

どこを向いても起伏の多い山がいい。色も匂いも豊かだ。

焦点を合わせたいところが次々とある。

山は遠くから見ても中に入っても興味が続く。

 

世の動きの真ん中に潜り込むより、外野席で見るほうが多い。

訪れた非日常の旅先で、

都合良く観察してしまいがちな旅人の目である。

渦中に入らないので、熱気も興奮も苦心も体感しない。

そう、外にいることはつまらないのである。

省みれば、ずっとそんな過ごし方である。

同じ伝か、チームや団体で作り出す躍動にも興味がうすい。

スポーツでも個人競技にずいぶん関心がいく。

プレイヤーであったことが少ないという薄味も、存外いい。

だが、渦中にある方が人生に正解なのだろう。

渦中の感動こそ味が濃い。濃すぎて水が欲しくないですか。

 

山並みの景観がイイ

高い空を見るのがイイ

ゴルフがイイ

競技で人の走る姿を見るのがイイ

見知らぬ場所を歩き回るのがイイ

賑やかさも悪くないが、独りでも退屈したことがない

賑やかな人もいい。静かな人もいい

一番いいのは、おさなごの笑顔だ。

 

自分が老いたせいだろう。

ひとを見て、もろもろ想像してしまう。

例えば、

若い顔、中年の顔、老い顔、街でも車内でも、tv画面などでも、

歳を重ねて人の顔の変わっていく図を無礼ながら、つい勝手に想像してしまう。

若い顔はその老い顔を想像し、老いた顔はその若き日の表情を浮かべて見る。

 

Tv画面に出てくる著名人を見て、あの人のこんな老い顔を見たくなかったと思ったりする。

 

顔のつくりは、地殻変動の如くに、歳を経るに従って変じる。

おやっと思うほど印象の変わる人もいる。

 

わたくしごと・・・独り身が退職後にやっていること

定年日から3ヶ月後に、思い立って6ヶ月間の語学留学した、

そのあと、思い立って18ヶ月間、指物を教えてくれる木工塾に通った

で、その仲間と5年間ほど、指物木工に嵌った

いまは、自作の家具に囲まれて、悦にいってる

日常品をくまなく断捨離している、なんともイイ心地

ゴルフの素振りを日課のように続けるようになった

たびたび、2時間ほどの散歩をするようになった

テレビは、BSかビデオ配信しか見ないようになった

脳体操として、podcastの英語ニュースを流し聞きしている

PCの検索窓を手軽な百科事典として頻繁に常用するようになった

幼い二人の孫のお守りが楽しくて楽しくて・・

ようやく倹約の大事さを心得るようになった、時遅しか・・

なんでもかんでも俯瞰するようになった・・いかんと思う

意あって、仏具を終い、繰り出し位牌を自製の桐箱に納めることにした

旅行の最少必携品の選別に嵌ってる、これが妙に楽しい、ほぼ趣味

Amazonの欲しいものbookリストに、多数の読みたい本が控えている

顔にしみが増えてきた、片脚スクワットに嵌ってる

見かけの元気だけで、オレは健康だとうそぶけない・・内臓の弱点がじわりじわり

3つの科目について、いかにも老年らしい定期診察を受けている

なぜか窓の外をボンヤリみている

ゴルフの前の晩、眠れないなんて興奮がなくなった

自炊が手際よく、テキトーに上手くなった

次の10年の元気度と過ごし様を考えるようになった

自分の歳は自分で決めればいい、と思えるようになってる

 

※ 一瞬の目撃

一瞬にして窓から飛び降り、自殺した人を、目撃したことがある。

はっとして、その窓から下を覗くと、落ちた彼の身体が地面でぴくぴくと動いて、止まった。

自殺にゆきつく・・絶望

何歳の人であれ自殺したというニュースを知ると、気持ちがずしんと重くなる。

辛くて苦しみ続け、拠り所をなくし、自虐的な一点しか見えないほど思考停止する、

人が死の恐怖を踏みつけて、一度きりの生命の破壊を決行する。

自分を自分で殺す。

そんな心理の流れを忌避する機能が、なぜ人の脳に備わっていないのだろう。

生きるための本能に満たされているはずの生体が、ストレスの重圧で踏み潰されている。

心が身体をつぶす。心身の痛みに人は負ける、そんなに強くない。

ただ飛び降りることにだけ、集中してしまう。

自分の体がどうつぶれるてしまうのか、そんな思いは過ることもないのか、

心理の綾なす道筋は、怖ろしいものだ。

 
 
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