世態迷想・・抽斗の書き溜め

虫メガネのようであり、潜望鏡のようでも・・解も掴めず、整わず、抜け道も見つからず

トイレで挨拶

2023-03-22 | 人との間合い

📌

過日、イトーヨーカ堂の伊藤雅俊氏死去のニュースが流れた。

僕はずっと昔日に氏を見かけた日のことをよく覚えている。

この会社の本社が英国大使館の近くにあった頃、

動き出したコンビニ展開を取材したくてこの会社を訪問した。

まだセブンイレブンが3店しか展開されてなく、

4店目がまもなく開店に漕ぎ着けるという時期だった。

 

建物に入った僕は受付に進む前に、玄関ホールの近くにあったトイレに入った。

普通に広めで78人は並んで用を足せる。誰もいなかった。

そこで用を足している時に、背丈のある姿のいい人が静かに入ってきた。

伊藤社長だと僕はすぐ気がついた。

面識もなく今日訪ねる相手でもなかったし、トイレの中だし、僕は無反応で通した。

だがその用を足すわずかな時間に、伊藤社長から『いらっしゃいませ』と丁寧な挨拶を

された。僕はちょっとびっくりした。

若い見知らぬ人間にトイレであっても声をかける社長は初めてだったからだ。

 

僕は何かいい経営者の見本を見たような思いだった。

なかなかできることではない。

僕を無視してもなんの支障も、無視されても不快も生じないのにである。

ふっと頭を過ったのは、伊藤社長は社員全部の顔を知っているんだと。

この見知らぬ顔は会社を訪ねてきた客だと察知されたに違いない。

であっても、無反応、無視してもいいケースだ。ましてトイレの中だ。

僕はその一瞬の声かけに、戸惑い、そしてとても感心させられた。

家業の小さな商店から日本有数の小売チェーンに飛躍させた事業家だ。

セブンイレブン担当部門に行く前に、この朝、伊藤社長から受けた印象から、

小売業の雄として大きく展開し始めた会社の踏み込みの深さを印象づけられたのだ。

 

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顔を見る

2022-08-17 | 人との間合い

📌

人を見て、どんな人物だろうと推測することは面白くもある。

見かけの表情や発言から、その人の印象をつい直感するものだ。

だが、その直感は偏見に走り易い面がある。

 

それが同性の場合は、案外に観察を違えていないように思っている。

同性の男たちとは、子供時代から陰に陽にうんざりするほど向き合って来ているし、

対峙して来ている、内なる競いを重ねて来ているので、

自分の中に観察のルールみたいなものが身についている。

ほとんど自分の内側を見るのと、変わりないものだ。

 

ところが、その対象が異性の場合、そうした経験則に基づくような拠り所がない。

途端に外目の印象に流されてしまいがちだ。

自分の中の異性に対する思い込み、化粧や服装などで、バイアスのかかった観察に

陥ってないか、女性の反応などについて男には概ね不明である。

同性を観察する場合と比して、推測が役に立たないように思う。

自分側にも相手側にも素直に見通せなくしてしまう夾雑物が多い。

 

であるから、対象が異性の場合、その人物像を自分なりに想定し易い手立てが要る。

つまり、直感的な印象を今一度修正してみる一手が必要だ。

どうやって,その人の表だった印象を修正しているか、自分なりに納得しようとするか、

僕なりの手順がある。

 

と言っても何のことはない。

当該女性を男の姿に置き換える想像をするだけだ。

コレが僕にとって、人物像の想定への近道である。

まず、女性の外見には、男性に縁のない装飾が姿全体にある。

化けて装ってるので、見誤るのである。

 

だから始めに、その姿から髪型や化粧を消した像をイメージする・・と,

その女性の顔から、その弟や兄の顔が見えて来る、置き換えてみる。

すると、あゝあういうタイプか・・と、経験則から人物像をずっと推定し易くなる。

何かしらその人の素が見えた気になる。

それが正解ではないにしても、僕なりに納得し易い。

 

社会の前面にある人も、市井の人も、電車の中で見かけた人も、

僕はたびたび,そうやって異性の人を観ている。

 

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人との間合い

2018-10-08 | 人との間合い

📌

あくまでも比較の問題だが、

日本は公徳心の崩れが少ない国だと思われている。

犯罪が少ない、社会道徳が広範に浸透している。

礼儀、自律心、勤勉勤労心が高いなどと、外国からの評判を得ることが珍しくない。

日本人から見れば、

幼児が自然に言葉を覚えるように、さしたる意識もなくそうしたことを

身につけるものだと理解している。

それらは古くから、

村社会とか武士社会の習俗や習慣や作法を経ながら育まれてきたに違いない。

人々の調和を図る知恵、ルール、共通項であっただろう。

それらは根強い習性になっている。

とにかくその作法の醸成には時代を重ねた長い時間がかかっている。

 

 📌

自己主張、譲る、恥の感覚、間合い、

そうしたことをバランスよく身につけている人が良い人の有り様、

それは日本人の暗黙知となっている。

大方の日本人は、自己主張の強い人を訝る、

誤りを認めない人を厚顔無恥と思う。

 

だが、世界の様々な交流が入り込む今の時代、

異国ではそれぞれが随分違うもので有ることを知ることになった。

むしろ日本的な感覚の反対が世界の主流のようである。

 明らかに非があっても謝らず、徹底して抗弁する。

控えめは罪悪なのか。

色んな場面で、個々の日本人はそのことで戸惑ったり、

困惑したりする。

自己主張の強い異国人から、自己主張が弱いと不思議がられる。

 

📌

表向きの社会の姿から、その内なる本質を探るのことは異国人にとって容易ではない。

特有の倫理観や習俗の深さが見えないからである。

何が彼らの恥なのか、何が彼らの誇りなのか。

 

📌

どの社会にも組織にも、犯意を持つ人物が潜んでいる。無作法な人間がいる。

どの社会もそうした不始末を避けるべく、社会を規制する。

人としての生き方は、家庭で育まれ、個人の規範として根強い習性となる。

社会の法が先行するものではないはずだ。法は社会行動の規範に過ぎない。

家庭は、生き方の作法を育む最良で唯一の場である。

 

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言葉を覚えるように

2018-10-05 | 人との間合い

📌

人々の公徳心はほぼ幼少期に育まれる。

日本の社会は、比較的によく具現化しているのではないだろうか。

あいさつ、いたわり、協力、掃除や清潔さなど、

社会行動の基礎的な作法が、およそこの時期に身についていく。

他国との比較で日本人の作法がもし良とされるなら、

それはその成果だ。

人に迷惑をかけないように、

あるいは親切に、

恥ずかしいことをしないで・・と

日本のどの家庭でも親が繰り返す言葉である。

どの日本人の耳の底にもある。

何が人としての恥なのか、子供たちは理解し始める。

知識ではなく身につける振る舞いとして、

年少期に繰り返し繰り返し教えられて根付くものである。

 

教育の場より以前に家庭でそれが育まれることが効果が高い。

幼児が言葉を覚えるように、繰り返されることでそれは身につく。

その親もそういう育ち方をしてきたに違いないし、

それは生活の戒めとして

何世代にも渡って普遍化した作法である。

法ではなく、知恵であり道徳である。

 

小学校での掃除や整列や給食係の経験など、

社会行動の疑似体験がそのまま作法の育成となっている。

言い換えれば、ままごとの効用である。

行儀と社会ルールの繋がりを知るのもこうした経験からである。

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地球の隅々

2017-07-14 | 人との間合い

📌

地球上で、人は同じ営みをしているように見える。

ではあるが、人は風土に育てられている。

何世代も連綿と集積された固有の自然観、

学習環境、習慣、道徳、価値観で

しっかりと全身を包んでいる。

否、閉じ込められているのかもしれない。

 

📌

何を目安に分けたのか、世界には国と呼ぶ200近い区分けがある。

それぞれの社会風土の違いは、他への不理解と不寛容を生んでしまう。

領土や人種や宗教の争いは、根深い紛争となって容易には終息しない。

地球の隅々まで苦もなく往来ができて、

自由な通信が世界中を駆け巡ってる今日でも、

異文化の柔軟な受け入れや理解は容易なことではない。

 

📌

グローバリズムは、経済勢力の進軍を許容することに過ぎない。

場を見つけてはまた進む。

人類が営々と積み重ねてきた個々の文化を、一方で惜しみながらも、

見事に無視し消し去ってしまうことを厭わない作業が、

グローバル化である。

嘗て、宗教が至るところに聖職者を先陣として送り出し、

続いて軍隊と商隊を投入した。

武力に劣る個々の民族文化は跡形も無く消えて行った。

かつての布教はグローバル化の先駆である。

 

📌

ずっと以前の人々

ずっとずっとずっとむかし、

考えることを深めはじめた人間たちは、何を拠りどころに

生きる価値を見出せばいいのか、おおいに迷ったことだろう

見渡せば、食べることや、命の不安に脅かされてばかり

意思をどこに向ければ、安心を手に入れられるのか、

おおいなる知恵と工夫を迫られただろう

 

古代人の生き方が現代のそれと違う点は、

道具が少ないこと、迷信が多いこと、それだけではないだろうか。

文明が進んでいても、現代人の人間性が高いとは言えない。

5000年前、10000年前に生を得た人々より、

私たちが繊細な感性を持っているわけではない。

考えが深いわけでもなく、表現がうまいわけでもなく、

愛が強いわけでもなかろう。

人間世界とは何か、

彼らよりも深く解き明かしたとも言えない。

幾千年の時を経て,

人の精神は広がっているのか,狭まっているのか。

私たちは、発明や発見、科学的な解明、

思索の積み重ねによって実現している環境にいるだけである。

現代は、

彼らをはるかに超えて策謀と残虐さにも磨きをかけていることだけは、

間違いない。

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