世態迷想・・抽斗の書き溜め

虫メガネのようであり、潜望鏡のようでも・・解も掴めず、整わず、抜け道も見つからず

残像(9)勝子先生

2018-03-19 | 記憶の切れ端

 

小学2年と3年時の担当教師福山勝子先生を、ボクは忘れることが出来ない。

敗戦直後のことで、彼女は教員の不足を補う代用教員だった。

大学を卒業するかしないかの年齢であったろうと思う。 

ボクはこのきれいな先生が大好きで、幼いながらうっとりした初めての女性だった。

勝子先生からはかなりえこひいきに可愛がられた。

みんなが帰った教室で、ボクは答案用紙の点数をつけている先生の膝に抱かれて、

一緒に答案用紙を見ていたりした。

そういう折に嗅いだ勝子先生の化粧の匂いが、

この後も長い間、女性の匂いとして甘くボクの嗅覚の記憶に残っていた。

先生がくれた手編み手袋からも同じ匂いを感じて、そっと顔に当てていた。

先生の家を一度だけ尋ねたことがある。

同級生が知らない秘密の場所に入り込んだような心地がした。

先生は母親と二人暮らしで、そのお母さんも同じく優しかった。

多分、ボクは10歳以上違うこの美しい先生に、初めての恋をしていたのだと思う。

4年生になると、クラスも担任の先生も変わった。

勝子先生は学校を辞め、ボクは新しいクラスを楽しんでいた。

間もなくして、ボクの勝子先生がどこかの会社員と結婚したとの話を耳にした。

その後もずっと長い間、勝子先生のおしろいの匂いの記憶だけはボクに残った。

 

いつも努力賞

小学校高学年になると、学期ごとにクラスの優秀賞と努力賞が発表されていた。

優秀賞は、いわば金メダル、努力賞は銀や銅にあたり上位5番目ぐらいまでだった。

当時のこと、どのクラスも60名ほど生徒がいた。

ボクは一度も優秀賞をもらったことがない。もらえるものだと思ったこともない。

いつも努力賞だった。

これでも悪くないんだが、何かしらそれが自分の限界のような気がしていた。

みんな予習復習なんてしてなかったと思うし、宿題のほか何もやった覚えがない。

一番にはなれないんだからという諦観のようなことを自身で承服していた。

ただ、努力賞ポジションは居心地がイイのだ

一番のように目立つこともなかったし、リスペクトされる期待はできなかったけれど、

侮られたり軽い扱いを受けることもなく、

何事にも臆することなく過ごせるグッドな環境なのだ。

こうした身のおき方は、何かボクの先行きを暗示していたのかも知れなかった。

今ひとつ欲に欠けているとの自覚があるが、とかく楽観的で、気楽に過ぎる性分に落ち着いてしまったようだ。

 

横溝先生

4年から卒業までの担任は横溝先生だ。

もう下の名前を思い出せない。

学徒訓練を受けた世代で、教師になって間もない先生だった。

一番の仲良しにボクより成績が上の紙問屋の順三がいた。

ボクには裕福な紙問屋に思えた。彼の家には入り浸りで、

風呂も夕食も何度となくお世話になっていた。

昔ながらの奥行きの深い商家で、この家の間取りをぼんやり思い出せる。

一番奥の殆ど使われていない中2階の部屋で遊んだり、

裏の敷地にあったグミの実を摘まんだりしていた記憶がある。

 

この順三とボクは横溝先生に可愛がられた。

先生が当直の夜は二人で当直室に遊びにいき、将棋を差したりしていた。

帰り道は順三と方向が違い、一人で真っ暗い運動場を通りぬけなければならない。

当時のことだから、

街灯など整備されていず、家々から漏れる明かりさえ薄っすらである。

月のない夜はほぼ真っ暗だ。運動場の真ん中を急ぎ足で過ぎて、

小さな橋を渡って商店街方向に抜けていくのがボクの帰り道。

その橋の脇にには大きな柳の木が並んでおり、昔ここに馬の骨がぶら下がっていたと

聞いたことがあるので、見るまいと思いながらも

つい恐々に揺れる柳を見ながら渡っていた。

 

先生の家は隣村の農家だったので、田植えの時期に、順三と二人して手伝いにいった。

二人とも町の子供で、田植えは初めて、

水田の土が裸足の指の間をぬるりと抜ける感触が妙に心地よかった。

その夜は泊まることにし、先生の部屋に三人並んで寝た。

朝起きて布団をたたむとき、

先生が毛布の四隅をきちんと合わせて手早く畳んだのを見て、

先生の意外な一面を見た思いだった。

教師とはいえ農家の青年がそうしたことに神経を配るのは、らしくなかったからだ。

きっと学徒訓練でそういうことを身につけたに違いない。

 

順三とは別の中学に進み、次第に疎遠になった。

彼の家は紙問屋をたたみ家も人手に渡ったと、ずいぶん後に耳にした。

何年も後になって、かの先生の近況を誰かに訊ねたら、体罰を与える教師という

良くない評判を聞いた。終戦から少し時を経たので、親たちにも学校の子供に目が届く

余裕が出来たのだろうか。

 

T先生に喰らったべろべろ事件

小学校は、中庭を挟んで、3棟が並列した木造校舎でうち一棟は2階建て、

明治時代に建てられたものであった。

それぞれの棟を2本の渡り廊下で連絡していた。

どの廊下も広くピカピカ光っていた。 運動場が、3並列校舎を挟んで二つ。 

威厳を感じさせる堂々とた講堂が別建てであった。

春先の暖かい日、この講堂を大勢でのにぎやかな拭き掃除が終わって、

三々五々に散り始めた時、

指揮していた50年配の男の先生に僕はふっと抱き上げられ、ほっぺたをベロッとなめら

れた。 するめをグチャグチャに噛んだような匂いがして、とても嫌な気持ちだった。

それまで近付いたこともない先生で、何のためかまったく判らずびっくりした。

何か大人の隠れた姿をホッペタに感じたが、不快さを隠して急ぎ皆の後を追った。

 

卒業式の校長先生の訓話

小学校の卒業式で覚えていることが二つある。

仰げば尊し・・の斉唱にとてもジンときて、得も言われぬ浮遊感を覚えたこと。 

それに、大塚校長先生の訓示だ。

「良いことも悪いことも、自分が行ったことは必ず自分に返ってくる。

それを自分で受け止めなければならない。それが自立ということだ・・」

そんな内容だったと思うが、とても解りやすく心に入っていった。 

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 残像(10)遠足のウンチ堪え | トップ | 残像(8)初めての自転車 »

コメントを投稿