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岸田内閣で、死刑囚の刑が執行された。
やはり、すぐさま死刑廃止論者が抗議の声明を出した。
私は、社会の法として死刑を廃止すべきではないと考えている。
死刑は執行されるべきと考えている。
被害者は命を奪われて運が悪かったね、でも殺人者の命は守らなくてはね、
それが目指すべき社会だよ。と死刑廃止論者は言いたいようだ。
計画的に無差別に殺人が行われる。
自暴自棄で他人に襲い掛かって命をあっけなく奪ってしまう。
恨み通して殺人におよぶ、金銭欲や、嫉妬から他者の生命を消してしまう。
残忍極まりない殺人が後を絶たない。
どんな背景があれ、おのれ中心の殺意で他人の生命を消すのである。
被害者はあっさり地球上から消し去られてしまう。
なんの言葉を発することも出来ない。
なぜだ!苦しい!という瞬間さえあっただろうか。
秋葉原の無差別通り魔、京アニの多数の死亡者、大阪ビルの放火事件の
多数の死亡者を知ってもなお、
死刑廃止論者は、加害が明白なる者の死刑に反対なのだろう。
なんと殺人者に優しいのだろう。
優しさが望まれてる場面は、社会の別な場面にたくさんあるというのに。
誤判の恐れを論拠とする主張や刑の執行の残虐性を彼らは喧伝する。
世界の潮流だとも言う。殺人者の人権を法は守れという。
彼らの言葉には、被害者の無念とその失われた生命の尊厳が言及されない。
生きてる加害者の今後の命を声高に守ろうとする。
社会の法は、宗教ではない。親鸞でもない。
加害者をなんとしても、生死の勝者にしたいのか。
かれら廃止論者は被害者をアンラッキーな人々として同情するだけのようである。
一人一人の人生の未来と重みを脇に置いて、ひたすら殺人者を死なすまいとする。
それが成熟した社会の目指すべき倫理と考えているのだろう。
あげく無残な死に方をした被害者は、冷淡にも統計上の数に加えられるだけだ。
規律があってどうにかこうにか社会の運営がなされている。
法を堅く守って人生を送っているのが人々の社会である。
最悪で残酷な罪に対し、なぜ法の原点を薄めようとするのか。
殺人という罪は、法のどのあたりにあるのか。
そこに社会の高みがあるというのか。倫理の遊びをするんじゃないよ。
人間愛を象徴する主張とは思えない。
ドブに蓋をするような倫理だ。究極の自己欺瞞である。
廃止論者は自分の家族が無残な被害の当事者になっても、
きっと加害者に向かって、安心しなさい死刑にはならないからと言えるのだろう。
神のようでもあり、無感覚な人だと思う。
悔悟や更生で生まれ変わるとしても、それこそが殺人者個人の利得である。
ここでも加害者の勝利である。
そんな微かな効果を、廃止論者や弁護者が手柄のことのように言うべきではない。
非情にも地球上から消されてしまった被害者にはなんの恩恵もないのだから。
世界の70%の国が廃止に向かってるという。
むしろ、それがはなはだしく妄想である。
社会の倫理に酔い過ぎてはいないか、
究極の罪の償いがないならば、悍ましい殺人行為は増え続ける。
刑務所は更正施設ではない。そう信じている美しい人々の幻想である。
宗教さえ諍いや暴力を誘発することが、世界中で頻繁に表出してるのに、
一方だけの生命尊重で、社会を美化しないでもらいたい。
そのうち、社会には刑務所が要らないと言い始めるのではないか。
社会の少数者や弱者を救済する、それが社会の成熟である。
殺人者は弱者ではない。
殺人者を生命の勝者にしようとするばかりじゃないか。
もし死刑廃止に目を向けるなら、被害者の家族が加害者を許した場合だけである。
判決に示される数量的な刑罰の基準さえ、根拠希薄である。
被害者の受けた人生の喪失にたいし、冷淡な基準でしかない。
死刑廃止の社会の未来図を描くのは、倫理のマスターべ−ションだと思う。