世態迷想・・抽斗の書き溜め

虫メガネのようであり、潜望鏡のようでも・・解も掴めず、整わず、抜け道も見つからず

残像(1)霞の向こうに記憶の断片

2018-03-19 | 記憶の切れ端

 

 

新京の残像-

1941年の春、私は新京(長春)で生まれ、4歳までここで育った。

(中国東北部、かつての満州国の首都)

 

道幅の広い大通りを花電車が走っていた。

初めて花電車というものを見た。

正面をいっぱいの花で飾った路面電車が通りすぎていく。

それを横目に、大通り沿いの大きな病院の玄関をくぐった。

産まれたばかりの弟を見に連れて来られたのだ。

病院の廊下は長く暗かったが、逆光で床が光っていた。

前を行く家族の後ろ姿の陰を追うように、僕と妹は手をつないで歩いていった。

 

満人の穴居

鍋底のような形で、高さ4メートルぐらいだろうか、

小さな小さな山のような土盛り住居である。

何処かに空気が抜ける穴があるのだろうが、

見えていた出入り口はひとつだけ。

幅が半間ほど、高さは人が不自由なく通れる大きさだった

と思う。幼かったので記憶はとてもぼんやりだ。

その前を通ったとき、入り口に綿入りのマント状の中国服を着た弁髪の男が立ってい

て、こちらを睨んでいるように思えた。彼の中国服は汚れて黒光りしていた。

 

自転車部隊

父は満映でニュース映画の制作に携わっていた。

ボクの家族は新京市の郊外に住んでいた。

2階建て2戸続きに石作りの同じ家が連なり、

コの字型に住宅棟が並んだ集合住宅である。 

住民の大半は日本人家族であった。

その住宅地前の大きな道路を、

日本軍の自転車部隊が通り過ぎて行くのを遠目に見た。

そんな部隊が実在したのか分からないが、僕にはそう見えた。

 

結婚式

この集合住宅域に満州人も住んでいたのだと思う。或るとき、

住宅地内の道路に赤い敷物が敷かれ、

その上を華やかに進んでくる花嫁さんの行列を見た覚えがある。

 

母の外国語?

在留5年?ほどの新京の生活で 母は流暢に中国語を話していたような気がする。

子供心にそう思えただけかもしれない。

片言の日常用の中国語だったろうか。

 

父の出征

敗戦の色濃い終戦の数ヶ月前、父が最も遅い徴集を受け、出兵した。

路面電車の安全地帯で、出征する父を母たちと見送った。

ほどなく敗戦、 捕虜となった父はシベリアに抑留され、

復員したのは昭和23年だった。

徴兵されが、小隊全員に銃がゆきわたったことなど一度も無かったと言っていた。

とっくに日本軍の兵站は崩壊していたのだ。

 

防空壕

コの字型住宅団地の広場に大きな防空壕があった。

空襲でその中に潜った、入り口には扉の代わりに厚くて黒っぽく汚れた布団がかけられていた。

 

ロシア兵

敗戦直後、僕らの住宅地にもロシア兵が沢山来た。

そこにいた日本の大人達は強奪や暴行の恐怖で一杯だったと思うが、

4歳ほどの僕がそれを知ることもなく、兵士達を怖れた記憶もない。

一人のロシア兵が僕の弟を抱き上げてあやしていた。

1歳にも満たぬ弟が怖がるはずもなかった。

その兵士は腕に腕時計を何個も付けていた。略奪品のようだ。

僕は何でたくさん腕時計がいるのかと不思議がったら、7つ年上の姉が、

ロシア兵は止まった時計のネジの巻き方を知らないから、幾つも欲しがるのよ、

と言うので、僕は納得した。

 

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