厄年

2012-11-08 19:19:19 | 思い出

メロンパン1個  柿1個  コーヒー1杯これが朝食ではトレーニングメニューをこなしてサウナ
そして着替えの時には腹が空くわけである
コンビニで もなかアイス でん六豆 ポテトチップスを買い でん六豆をポリポリ食べ歩きで帰宅
     
氏神様の裏口には大分前から七五三の幟が立っている そうか今週末は可愛い子でいっぱい
になるな・・・それにしてももう11月半ばかと歳の流れの速さを感じた
        
傍らの厄年の数字をしげしげと眺めた
ネットを見ると 平安時代の「色葉字類抄」では「厄年 13・25・37・49・61・73・85・97」とあり
寛永の刊本では「厄年 13・25・37・49・61・85・99」
仏説灌頂菩薩経では「7・13・33・37・42・49・52・61・73・85・97・105」
その他色々なパターンの配列があって 何が何だか分からない・・・となってしまった
いまは俗に男25 42 61 女19 33 37 男は42をもって女は33をもって大厄となす其のよってくる所を知らず 男42の前年を前厄 翌年を挑厄(はねやく)といい 前後3年を忌む(今 俗に男の25歳 42歳 61歳 女の19歳 33歳 37歳を厄年だといっており 男の42歳と女の33歳は大厄で 男41歳を前厄 43を挑厄といい 41~43歳の前後3年は注意して過ごさなければならないといっている)とある。

何故厄歳かについては色々な記載があったが その理由は2は陰数であり 5は陽数であり つまり陰が上に 陽が下にあるから25歳を恐れ 42歳は4も2も陰数であり 読んで「死」 男性は最もこれを恐れる 19歳は10は陰数であり 9は陽数であり 陰が上に 陽が下にあり したがって女性はこれを恐れ 33は陽数が重なり 事の敗続するのを「散々」といい いずれも「サンザン」と同訓であるから最も恐れるとしている 
田宮仲宣の『橘庵漫筆』も同じように 「四十二は死と云訓にて三十三は散々と云音なり」という
林自見の『雑説嚢話』では 「俗の厄年ということ 旧記にこれなきこと也 また 俗に女は三十三を厄という 女は産を大厄とすれば 三十三の産の声を重ねるが故 厄年とす」とある

平凡社『大辞典』「厄年」の項によれば 19は重苦 25は5×5=25 後後二重後ととりなして死後のこととし 33は3・3と重なるから散々ととりなし 42は4・2と続くから死(しに)にとりなして忌むという・・・とあった
ゴロ合わせ的なものと感じさせる思いがしたが 統計学的にも例えば女性の33は離婚のケースが
最も多いとかの記述もあった

私事で恐縮であるが 42歳の2月22日に関東逓信病院に入院し 28日まで1週間人間ドックで
頭の毛の先から足の爪の先まで検査検査の連続徹底的にチェックして貰った
「虫歯になりかけが1本」と注意され退院 3月1日「今年の大厄は心配なし」と豪語して出社した

5月 千葉カントリークラブで製薬 化粧品 衛生等業界の大企業など120名以上による恒例の
コンペがあった
シングルプレーヤーは10人以上  日本アマ選手権出場経験者  プロテスト挑戦中の者も居た
当時の私はオフィシャルは11 とても敵う筈もないペ-ペーであった
れっきとしたチャンピオンコースで快調に前半のハーフは1ダボの2オ-バーであった
その余勢のまま後半を突っ走り ベストグロス準優勝を成し遂げた  これ超常現象だ 
順風満帆厄年なんてどこ吹く風だ 今年はラッキーづくめの良い年だと自信満々だった
優勝者と同ネットだが年齢順で高齢者のご同業G製薬の部長(ハンデ18)に持って行かれた
私は車のトランクに入りきらぬ賞品を後部座席に乗せて深夜堂々の帰宅であった

さてその翌朝 腹部の激痛で目が覚めた ゴルフによる筋肉痛としか考えられなかった
我慢できない 異常さを自覚したが車の運転は到底無理な激痛であった
横浜から五反田の関東逓信病院までタクシーで行った
第1外科で幸運であった  1外の医局は東大医学部出身で占められ 部長は東大医学部出身の
長洲教授であった
横浜国大卒一ツ橋大卒で横浜国大教授の後 1975年~1995年の5期20年間に亘り
神奈川県知事を務められた長洲 一二氏の実兄であった

担当医は抗生物質の投与で様子見の態 それが2週間位続いたが埒が明かない
奇病なのか・・・ロイジェームスとかいう外人タレントが居たと思うが 彼も同じであらゆる病院を
訪ね回ったと聞いたことがある ナースは10万人に一人と嚇かす これも超常現象  
やっとカルテが長洲部長に回ったのであろうか 部長の診察 診断を経て手術に至った
抜糸が済めばもう終わりで退院することが出来た 病名は「臍瘻」だった 

それから間もなくして 長洲部長は胃がんでお亡くなりになった 外科のあの部長先生がと驚いた
色々聞いてみたが 二重カルテで告知はされて居なかったとか 長洲部長は知らぬふりして
充分にご存知だったのだろうと推測申し上げている

話が長引きました 人間ドックで科学的に異常が認められず太鼓判を押されて退院した
それから僅か60日で大病 入院し手術・・・これでは42歳は厄年ではないとは言えない身である
人生色々ですね 
あの手術の時 ベット脇で全身麻酔の覚めるのをじっと待ってくれた義姉の通夜は明日です


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