現在・50年前・70年前

2012-09-04 18:00:00 | 故郷

「富士のあるまち おやま」・・・ 小山町 町制施行 100周年記念誌のページを何度となく捲っては
戻り 戻っては捲るを繰り返し懐かしんでいる
小山町に生まれて83年 小学校を卒った12歳で親や兄弟 友達と離れ 東京の旧制中学校に
入学の為 東京市大森区に・・・と云う事で小山町を後にした
半年ぐらいの間はホームシックで毎晩枕を濡らした・・・光陰矢の如し あっと言う間の老体に変化だ
83年中12年間は小山町の住人 残りの70年は正月とお盆その他帰省の数日を積み重ねている
だけの私である
然し 故郷があると云う事は有難い事である 心の拠りどころの存在は貴重な財産なのである

記念誌にはお宝的な昭和初期の写真が一杯である 記事を読んでも甦るものが多々ある
昭和8年 音淵区の93戸が全焼の大火 あのとき奥歯がガタガタ鳴り 体が震えた事を覚えて居る
東海道本線だった当時 特急つばめのSLが疾走していた雄姿もはっきり覚えている
天皇陛下のお召列車を見ることなく 通過し終わるまで最敬礼でお見送りした事もあった

東海道本線開通時の駅名は 「おやま」 私が生まれたころは 「するが」 現在の駅名は 「駿河小山」
勿論複線だったが あの戦争で鉄不足でレールは供出の運命となり 弾丸に化けて単線となった
モータリゼーションの影響で鉄道利用は減り 駿河小山駅は今年3月から無人駅になってしまった
    
ダイヤも1時間に1本 「昔の姿 今いずこ」 従って御殿場 駿河小山間のバスも1時間に1本
車を持たぬ者 住むべからずになったかな
ただ町内には 循環バス が狭い道にもに入り込み運行されており 皆さんの利用は多いようだ 
    
この道は旧246号 現在は走りやすく 又歩道も出来て良い道になりました
戦時中はガソリンが無く木炭バスでした 佐野川の横の登り道を走るには力のない木炭車なので
満員の時は男性の乗客は降ろされ車の後押しをさせられた覚えがあります 70年昔の話です
    
明治憲法下の国家体制 「現人神」・・・人の姿をしてこの世に現れた神 即ち天皇陛下を奉戴した
日本国民でありました
四方拝 紀元節 天長節 明治節の際は校長以下職員 全生徒全員でご真影(天皇・皇后の写真)
に対し最敬礼をし 校長の「教育勅語」の奉読が定められていました

校長室内に奉安所を設ける学校が多かったが 火災や地震で校舎倒壊の際にご真影が危険に晒
される可能性が高い 実際に校舎火災でご真影を守ろうとして殉職した校長の話は幾つもあった
そこで屋外に「奉安殿」をの傾向が高まり 神殿造が校庭に設けられるようになった
石垣で一段高く整地された所に芝生を植え 更に数mの城壁もどきの石垣を積み上げその上に
神殿造りの荘厳な建造物を建てた そこに天皇陛下 皇后陛下 教育勅語を保管仕った

6年生の一学期  担任の高橋 学先生と私は校長室へ来るように言われた。
「君に 警戒警報 空襲警報等の非常時に 両陛下のご真影を守って貰う ここに奉安殿の扉の鍵
がある 此処に大きな背嚢がある その中にご真影をお納めしなさい  素手は不可でありこの引き出し
に白手袋があるから必ず着用すること 2名の護衛をつけるが高橋先生と相談して決定しなさい」 と
指示された   

警報のサイレンが鳴ると校長室へ跳び込み、鍵を持ち背嚢を背負って奉安殿の石段を駆け昇った。
何の事故も無く任務を全うし 昭和17年3月 私は成美小学校を卒業した

上の写真は昭和17年とあった 当時小6の上に高等科(2年制)と云うのがあった
我が成美小学校は女子の高等科があり もう一つの明倫小学校には男子の高等科があった
ので、成美小学校男子は6年生が最上級生だったのである。
明倫卒の女子は成美の高等科へ 成美卒の男子は明倫の高等科へ進んだわけだが 上の写真
は小6には見えない 体が違うから高2 明倫小学校の奉安殿ではないのかなと推測している
成美小学校の奉安殿は石垣はもっと高かったという記憶である。

毎日の朝礼は1800人の全校生徒が運動場に整列した。宮城遥拝・・東の皇居に向かい最敬礼をする。
全校生徒の目が一点に集中する国旗掲揚台に上り、見上げれば首が痛くなるほど高い竿に日の丸を
一年間掲げる大役も仰せつかった。ラッパが吹き終わるのと、国旗が頂点に達するのを一致させるのに
慣れる訓練など懐かしい思い出多い小学生時代だった。



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