本日の日記
透析~結果良好
帰余 王将で夕食をとる。帰宅してすぐ就寝
零時ころ目が覚めてしまい裏ブログなどの整理をしている。
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下記は、当時作成したメモをまとめて裏ブログとして保存していたものです。
終活の一環として公表します。
《下記》
2006年12月28日(木)
溶接を頼んだ万能を取りに工場に行ったところ、義弟が一人で仕事をしていた。「血便が出る。」と心配していたので、医者に見てもらったほうがいいと話した。
2006年12月31日(日)
ゆ○さんと一緒に、検査入院している義弟の見舞いに行く。
「大腸癌摘出手術を1月25日にやる。」「はやく仕事をしたい。」旨を言っていた。
2007年1月24日(水)
22日に入院。当初、手術ができなくなったと医者に言われたが、話が変わり明日手術をする事になった。
午後ゆ○さんと激励に行く。「大腸にある癌は、転移したもの、手術をして、大元の癌がどこにあるか、どの程度のものかをはっきりさせる。」「摘出できないほど大きな癌があれば、なにもせず腹を閉じる。」「このままならば余命2年」旨を医者に言われた、と私に話した。そして、「手術が短時間か長時間かで先が決まる。」と気にしていた。
2007年1月25日(木)
手術日。午前11時ころ、ゆ○さん出かける、私は留守番。
ゆ○さんからの連絡【午後3時28分~手術室に親族が呼ばれた。】【午後3時42分~お腹は癌だらけ、何もせず閉めた。これから息子達(甥)を呼ぶ】【午後6時52分~これから帰る。3ヶ月くらいと医者が言った。】
2007年1月26日
ゆ○さんが甥たちの激励に工場へ行く。みんな気丈にやっていた。
医者がりゅ○○に「あと2週間」と言ったとのこと。
2007年1月28日
11時ころお見舞いに行く。点滴を受けながら一人でベットにいた。
「息子達が心配だ。キャンセルした仕事も出たらしい。」「手術して腹を開けたが、何もせずに閉じたと医師が言っていた。」「80歳までだな。あと15年くらいで(生きられれば)いいや」「親父は肺癌で死んだが、俺みたいに痛い思いをしなくてよかった。」「よく仕事をしている夢を見る。眼が覚めると手を動かしている。」「手術のとき肩に穴を開けた。ここから抗がん剤を入れるらしい。」などと言っていた。
痰が詰まったらしくせきをした。強烈な痛みが襲い、ベットの上に起き上がった。しばらく我慢していたが、看護婦さんを呼んで点滴で痛み止めを注入した。
1月31日
お見舞いに行く(はしごお見舞い)
2月10日ころ
退院
(11日、奥さんと嫁さんと孫達が家に遊びに行く)
(12日、2時間くらい工場に行く)
3月21日
再入院
3月23日
午前中工場、
午後お見舞い
顔を会わせた第一声が「だめだ。」・・意味は不明である。
痛み止めが効いているのか、思ったより元気だった。
4月7日
午前中お見舞いに行く
「昨日、医師から説明を聞いた。言いたいこともはっきり言った。」
「カテーテルによる患部薬剤注入はできないことはわかった。」
「当面一番強い抗がん剤の治療を受ける。」
「ここで2~3年治療を受けて治らないのなら、横浜の病院を紹介して貰う。かかる金は同じだ。」等言っていた。
また、75歳まで仕事をして、2~3年工場の掃除でもして過ごしたいなどと話しており、良い治療をすれば治ると思っているものと考えているようだ。
食事は出ていないが、売店で買って何でも食べてよいと医師に云われている、でも食べたくないと言っていた。
昼食時、配られたお茶を飲んでいた。
「睡眠薬を飲んだら、徘徊した」ことを話し、心配していた。
(4月10日菊枝さんから幸さんに電話内容
尿道がふさがる恐れがあるので、管を入れる手術を午後3時ころ、日高病院で行った。熱が出たので本日は日高病院に泊まるとのこと。)
(4月12日済生会病院に戻ったとのこと.)
4月21日
退院自宅療養
4月29日11時ころ
家にお見舞いに行く。二階のベット 点滴 食事は取っていない
始終口から黄色い液を吐いていた。熱を測っていた。37度以上
「もう仕事は無理かな。」「10年くらいこんな調子で生きていく」旨の認識らしき言動
5月9日
自宅に見舞う。風呂から出た直後、裸でいた。
Xディーが近づいた感じをうけた。ビデオとDVDを置いてきた。
5月27日
入院。医師が家族に「あと数日」と告げた。
長男の嫁と孫達を連れて、家内と急行した。
5月28日
一日中病院で看病する。家内は先に帰り、帰りは見舞いに来た長男に送ってもらった。
5月29日
午後0時病院着。奥さんが用足しに行った間、一人で看病する。
5月30日
午前6時13分死亡
5月31日
お通夜
6月1日
お葬式
透析~結果良好
帰余 王将で夕食をとる。帰宅してすぐ就寝
零時ころ目が覚めてしまい裏ブログなどの整理をしている。
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下記は、当時作成したメモをまとめて裏ブログとして保存していたものです。
終活の一環として公表します。
《下記》
2006年12月28日(木)
溶接を頼んだ万能を取りに工場に行ったところ、義弟が一人で仕事をしていた。「血便が出る。」と心配していたので、医者に見てもらったほうがいいと話した。
2006年12月31日(日)
ゆ○さんと一緒に、検査入院している義弟の見舞いに行く。
「大腸癌摘出手術を1月25日にやる。」「はやく仕事をしたい。」旨を言っていた。
2007年1月24日(水)
22日に入院。当初、手術ができなくなったと医者に言われたが、話が変わり明日手術をする事になった。
午後ゆ○さんと激励に行く。「大腸にある癌は、転移したもの、手術をして、大元の癌がどこにあるか、どの程度のものかをはっきりさせる。」「摘出できないほど大きな癌があれば、なにもせず腹を閉じる。」「このままならば余命2年」旨を医者に言われた、と私に話した。そして、「手術が短時間か長時間かで先が決まる。」と気にしていた。
2007年1月25日(木)
手術日。午前11時ころ、ゆ○さん出かける、私は留守番。
ゆ○さんからの連絡【午後3時28分~手術室に親族が呼ばれた。】【午後3時42分~お腹は癌だらけ、何もせず閉めた。これから息子達(甥)を呼ぶ】【午後6時52分~これから帰る。3ヶ月くらいと医者が言った。】
2007年1月26日
ゆ○さんが甥たちの激励に工場へ行く。みんな気丈にやっていた。
医者がりゅ○○に「あと2週間」と言ったとのこと。
2007年1月28日
11時ころお見舞いに行く。点滴を受けながら一人でベットにいた。
「息子達が心配だ。キャンセルした仕事も出たらしい。」「手術して腹を開けたが、何もせずに閉じたと医師が言っていた。」「80歳までだな。あと15年くらいで(生きられれば)いいや」「親父は肺癌で死んだが、俺みたいに痛い思いをしなくてよかった。」「よく仕事をしている夢を見る。眼が覚めると手を動かしている。」「手術のとき肩に穴を開けた。ここから抗がん剤を入れるらしい。」などと言っていた。
痰が詰まったらしくせきをした。強烈な痛みが襲い、ベットの上に起き上がった。しばらく我慢していたが、看護婦さんを呼んで点滴で痛み止めを注入した。
1月31日
お見舞いに行く(はしごお見舞い)
2月10日ころ
退院
(11日、奥さんと嫁さんと孫達が家に遊びに行く)
(12日、2時間くらい工場に行く)
3月21日
再入院
3月23日
午前中工場、
午後お見舞い
顔を会わせた第一声が「だめだ。」・・意味は不明である。
痛み止めが効いているのか、思ったより元気だった。
4月7日
午前中お見舞いに行く
「昨日、医師から説明を聞いた。言いたいこともはっきり言った。」
「カテーテルによる患部薬剤注入はできないことはわかった。」
「当面一番強い抗がん剤の治療を受ける。」
「ここで2~3年治療を受けて治らないのなら、横浜の病院を紹介して貰う。かかる金は同じだ。」等言っていた。
また、75歳まで仕事をして、2~3年工場の掃除でもして過ごしたいなどと話しており、良い治療をすれば治ると思っているものと考えているようだ。
食事は出ていないが、売店で買って何でも食べてよいと医師に云われている、でも食べたくないと言っていた。
昼食時、配られたお茶を飲んでいた。
「睡眠薬を飲んだら、徘徊した」ことを話し、心配していた。
(4月10日菊枝さんから幸さんに電話内容
尿道がふさがる恐れがあるので、管を入れる手術を午後3時ころ、日高病院で行った。熱が出たので本日は日高病院に泊まるとのこと。)
(4月12日済生会病院に戻ったとのこと.)
4月21日
退院自宅療養
4月29日11時ころ
家にお見舞いに行く。二階のベット 点滴 食事は取っていない
始終口から黄色い液を吐いていた。熱を測っていた。37度以上
「もう仕事は無理かな。」「10年くらいこんな調子で生きていく」旨の認識らしき言動
5月9日
自宅に見舞う。風呂から出た直後、裸でいた。
Xディーが近づいた感じをうけた。ビデオとDVDを置いてきた。
5月27日
入院。医師が家族に「あと数日」と告げた。
長男の嫁と孫達を連れて、家内と急行した。
5月28日
一日中病院で看病する。家内は先に帰り、帰りは見舞いに来た長男に送ってもらった。
5月29日
午後0時病院着。奥さんが用足しに行った間、一人で看病する。
5月30日
午前6時13分死亡
5月31日
お通夜
6月1日
お葬式