何かしてます。

 無職だって退屈してません。「何か」してます。「何か」ってなんだ?

平成30年8月1日(水)~透析と海水浴

2018年08月01日 10時22分34秒 | 海,ダイビング

昭和38年詈察学校、翌39年高崎署に配置された。

このころから毎年新湯の海に行くようになり子供が小学校高学年になるまで続いた。

独身時代は友達ゃ同僚と、結婚してからは子供達と一緒に行った。

宿泊は民宿「さっそく屋」に決まっていた。


8月14日(金)~さざえ

2015年08月15日 00時16分34秒 | 海,ダイビング
曇り時々雨

夜中に さざえがどっさり届きました。(8月14日午前1時ころ)
          
 佐渡へキャンプ旅行に行った長男家族のお土産です。
 海に潜って採ったそうです。かなり大きいのものばかりです。
 
 早速ゆでて朝食にいただきました。
 特別おいしいわけではないが,海のかおりがたまりません。

 俺だって昔は素潜りで、さざえをとったり、魚を突いたりしたものです。  
≪参照ブログ≫
  素潜りの思い出  2013年11月13日付  (海・ダイビング)
  ダイビング~秘かな自慢 2011年3月8日付 (秘かな自慢 

 今自分が潜ったとしたら、発作を起こして死んじゃうかもね!  
   それも良いと思いますけど……      

  透析⇒結果良好

素潜りの思い出

2013年11月13日 23時44分46秒 | 海,ダイビング
11月13日(水) 晴れ 朝霜が降っていた 昼間風あり

 先日旧お店や物置を整理したとき出てきたものの一部です。
          
 これは 海で素潜りするときの足ひれなどです。
 若いころ タンクを背負って潜るスキューバダイビングをしていたことはお話しましたが これをやめた後は もっぱら 三点セット(足ひれ・シュノーケル・ゴーグル)で素もぐりを楽しみました。
 子供たちと海水浴に行ったとき 50歳当時岩木さんと椎名海岸で潜った思い出は忘れられませません。
 
 朝ドラの「あまちゃん」を見て 死ぬまでにもう一度潜りたいと思いました。
 それはさておき 海に潜ると多少の収穫があります。
 もりで突いた魚が暴れる感触 岩に張り付いているサザエをそっと捕らえるときの快感はなんともいえません。
          

 テレビで魚を突いたお笑い芸人が『とったど~』と叫んでいる場面を時々見ますが
その気持ちよく分かります。

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 透析 結果良好 ドライジャスト

 なめこゲームについて 
  しゅんくんから『ごつごつ原木のレベルを50』に
  ゆうくんから 『普通のなめこゲームのレベルアップ』
を命ぜられたので なめこパジャママンで 一日過ごしました。

海までドライブ

2008年11月25日 09時47分05秒 | 海,ダイビング
 甥から「最近のブログは、昔のことばっかり書いてるね。そろそろ危ないんじゃない?」と言われました。

 危ないのかもしれないし、そうでないかもしれない。それは、今のところわからない。(もちろん危ない兆しはない。)
 でも、そのときの心構えと覚悟はできつつある。

 そうは言っても何かを予期してブログ「思い出アーカイブス」を書いているわけでない。たくさんの思い出の中からの一部分を切り抜き、ひとつの形(ブログ)にする作業は案外楽しいものなのです。
 もちろん、これは『じじいの暇つぶし?』です。


          

 昭和60年の春(1985年 海水浴シーズンでない)?ころだったろうか?
 長男(小3)、長女(6歳)、甥の3兄弟、愛犬モコ、モコの子供2匹を自家用車に乗せて日本海をめざしてドライブした。

 関越道から北陸道に入り、柏崎インターで高速道路を降り東ノ輪海岸に到着した。
 さっそく屋に立ち寄ってから砂浜で遊んだ。蹴りこんでしまったサッカーボールが沖に流されていくのを「あーあ!」と思いながら見送った。
 みんな波をかぶってびっしょり。風邪でもひかれたら大変!
 洋品店に飛び込み適当な下着を買って着せた。

 楽しい日帰りドライブだった。 

海水浴の思い出(その5 東ノ輪海岸・番神海岸)

2008年11月24日 10時30分08秒 | 海,ダイビング
 昭和57年(1982年 26年前)7月、家族で海水浴に行った。
 夏休みをとって、民宿「さっそく屋」さんに2泊か3泊したかと思う。

          
《長男7歳、長女3歳、さっそく屋の長男『ひろくん』も7歳だったか?)


          
《さっそく屋さんには、家族同様に扱ってもらい『宿でも』楽しく過ごした。朝はみんなでラジオ体操》


          
《長男と『ひろ君』は、仲良く遊んだ。》


          
《7月の東ノ輪海岸は、波が静かで暖かい。子供連れの海水浴には最適です。》 


          
《どうにかみんなで、沖の防波堤までたどり着きました。》


          
《すいか割りも楽しかった。》


          
《長女の両足の包帯が痛々しい。
 前夜、砂浜で花火をした。花火の残骸を焚き火にほおり込んで後片付けをしていたところ、不発の花火が炸裂し長女に襲い掛かった。
 それでも長女は、元気に遊んでくれた!》

海水浴の思い出(その4 笠島海水浴場)

2008年11月20日 11時00分41秒 | 海,ダイビング
昭和55年(1980年、28年前)夏、兄貴の家族と義姉(兄貴の妻)の兄家族と私ども家族合計12人で笠島に行った。
 それぞれの家族に元気な子供たちが2人づついましたから、にぎやかで楽しい海水浴だった。

          
 (若かりしころ《36歳》の私が、長男と姪の恭子を遊ばせています。)


          
 (長男が5歳、長女が満1歳ちょっと前か?白粉は、日焼け止めかな。)


          
 (こんな写真が出てきた。息子が酒飲みになったのは、やはり親のせいだったのか?)

海水浴の思い出(その3 東ノ輪海岸・番神海岸)

2008年11月17日 20時33分30秒 | 海,ダイビング
【東の輪海岸・番神海岸】

 長女がまだ生まれていない昭和53年夏、3歳の長男を連れて海水浴に行った。
 民宿「さっそく屋」に宿泊し、宿の前方に広がる東の輪海岸や、その東側の番神海岸で遊んだ。

          

             

 このときお世話になった民宿「さっそく屋」さんには、この後10年間くらい(廃業するまで)ほぼ毎年お世話になり、楽しい思い出をたくさんいただきました。
 そして「さっそく屋」といえば、必ず後輩の西沢を思い出します。西沢に「さっそく屋」を紹介してもらったからです。

 実は私は、西沢に対して「いくら悔やんでも悔やみ足りない後悔の念」を持ち続けています。
 昔西沢から「彼女と結婚したいが、彼女のお祖母さんに反対されている。」と相談を受け、私がお祖母さんを説得し結婚にこぎつけたことがあります。しばらくたってから婿養子になり、彼女の家に入りました。
 平穏な家庭を築いていると思っていたところ、40歳半ばで「彼」は自殺してしまいました。
 うわさによると『家庭不和』が原因らしいと聞いています。

『私が一度だけ会ったお祖母さんは、とても頑固で気の強い人だった。気の優しい西沢は、このような家に入るべきでなかったのかもしれない。
 安易に私がお祖母さんを説得さえしなければ二人は分かれており、西沢が自殺に追い込まれることはなかったかもしれない。』
こう考えるといまだに後悔しきりです。 

海水浴の思い出(夕陽荘?)

2008年07月22日 13時10分27秒 | 海,ダイビング
 長女とお母さんと3人で海水浴に行った思い出がある。
 長男は行かなかった。サッカーの練習でもあったのか、親離れしたのかよく覚えていない。
 なじみの民宿『さっそくや』が廃業してしまい、東ノ輪海水浴場の『夕陽荘?』に泊まった。
 長女も一人遊びできる年齢になっていた。

          

 私も子供の面倒を見る必要がなく、一人遊びした。

           (華麗なるクロール)

           (豪快な飛び込み)

           (足からドボン)

           (回転ドボン)

           (ひらめを捕った。ご満悦!)

           (夜は花火)・撮影はすべてお母さんです。

海水浴の思い出(その1・角田浜)

2008年07月13日 22時59分04秒 | 海,ダイビング
 海水浴の季節になってきた。海なし県に生まれ育った私にとって、海は『あこがれ』です。

 特に、思い出がある海水浴場が3つある。
 ひとつは、独身時代に遊んだ角田浜
 ひとつは、家族と楽しんだ東の輪海岸・すぐ隣の西番神海岸
 ひとつは、熟年になってから趣味(スキンダイビング)を楽しんだ椎谷海岸

 【まずは角田浜】

 昭和45年の夏(渋川時代、当時24歳)、職場の先輩と角田浜海水浴に行くことになった。先輩たちは家族を連れてゆき、独身の私は彼女を連れてゆく約束をさせられた。(先輩には逆らえない)
 私は困ってしまった。見栄を張り彼女がいるようなことを言ってしまったが、つれて行けるような彼女がいなかったのである。
 背に腹は変えられず、やむを得ず『元カノ』に声をかけた。
 幸か不幸か『元カノ』は、二つ返事でついて来てくれた。(後々考えると、これが運命の分かれ道だった。)先輩には『元』を省いて紹介して面目を保った。

 それから4年後、再び角田浜に行った(2度目の高崎時代、当時28歳)。
 職場の後輩たちと海水浴に行ったのであるが、当時の写真を見るとなんと『元カノ』が写っている。
 実はどう結う訳か(??)、『元カノ』と縁りが戻っていたのです。

           

思い出アーカイブス(スキュウバーダイビング)

2007年09月16日 15時30分49秒 | 海,ダイビング
 今から34年前に買ったスキュバーダイビングセットです。当時はボンベ、レギュレータ、残圧計などもあり一式そろっていた。『どうしても捨てられないもの一つをもってこい』と言われたら、おそらくこれを選ぶでしょう。

 29歳から31歳まで(昭和48~50年)の3年間、スキューバダイビングに熱中した。
 この間、練習を除き実際に海などに潜ったのは5回だけ。続けたい趣味だったが、なんせ当時の『海は遠かった』。転勤したこともあり、自然に遠ざかってしまった。

 始めるきっかけは、『沖縄国際海洋博覧会』の宣伝に惑わされたことだった。職場の先輩の木村さんと一緒に前橋のダイビング店(柳田さん)の講習を受けた。その後高崎のセフィティーダイビングクラブ(笠井あきらさん)に所属した。
 そして、5回潜った。どれも思い出深い。今でも夢に見ます。

1 八丈島でダイビング~昭和49年2月
  冬でも潜れるというので、新婚旅行に八丈島へ行くことにした。新妻を放り出して初めて海に潜った。テーブルサンゴ、色鮮やかな魚の群れ、夢の世界だった。

2 佐渡島でダイビング~昭和49年夏
  セフィティーダイビングの仲間や木村さんと2泊でダイビングツアーに行った。地元で船外機を借りて潜水スポットまで行き、おっかなびっくり水深30メートルまで潜った。

3 利根川でダイビング~昭和49年夏
  セフィティーダイビングの仲間や木村さんと奥利根館脇の水深9メートルの利根川に潜った。軍手でお魚をつかみ取りして、バーベキューしました。

4 真鶴・琴が浜でダイビング~昭和50年夏
  笠井アキラさんに、木村さんと一緒に連れて行ってもらった。大イソギンチャクを見せてもらい、感動した。

5 番神海岸でダイビング~昭和50年夏
  潜りたい、しかし仕事の関係で海へ行く時間が取れない。そんななか、同僚で時間が合わせやすい木村さんと二人で近場の柏崎・番神海岸に行った。案の定潜り始めるとすぐ、地元の漁協の方が来た。ろくに潜れなかった。