goo blog サービス終了のお知らせ 

何かしてます。

 無職だって退屈してません。「何か」してます。「何か」ってなんだ?

思い出アーカイブス(柔道初段)

2008年04月13日 22時35分34秒 | スポーツなど
 息子は中学3年生の夏、柔道初段を取りました。

         

 小学校時代は、少年サッカークラブに所属して活躍していました。

         
 (『第11回 全日本少年サッカー群馬県大会』高崎北SC記念パネル 当時6年生、ぼかし処理済)

 実は私自身は、高校2年生から柔道を始めました。結構楽しく柔道生活を送りましたが、ちょっとだけ心残りがあります。それは、せめて中学から始めていればもっと強くなったかもしれないという思いでした。
 親の勝手ながら『息子は中学から柔道をやらせたい!』と内心思っていたものです。
 そんな親の気持ちを察したのか、息子は中学校の部活で柔道を始めました。
 やがて町道場に通って熱心に練習に励む息子につられて、私も道場に通い親子で練習に励んだものです。これは、心温まる私の大切な思い出です。

 息子は順調に力をつけ、期待どおり3年生で黒帯になりました。私の誇りです。

 高校生になった息子は、サッカーに戻りました。
 それが自然の流れだったようです。今でも社会人サッカーの現役で活躍しています。
  立派なものです。
  
 

今でも乗れるぜ(一輪車)

2008年04月05日 15時55分14秒 | スポーツなど
 ご近所に遊びに来た小学2年生の女の子「まほちゃん」が、一生懸命一輪車に乗っているのを見て久しぶりに私も乗りたくなった。
 何を隠そう、私は一輪車の名人(自称)なのです。
 ユーターン、S字走行、停止、バックなど自己流ですが何でもできます。前橋から高崎までの長距離走行もしたことがあります。

 長男が3歳当時(私が34歳当時、昭和53年ころ)、よく太田運動公園に遊びに行きました。
 三輪車に乗って遊んでいる長男の面倒を見ながら手持ちぶたさでいるとき、この時間をダイエット運動に使えないか、一輪車なら子供から目を離さずに効果的な運動ができると『ひらめいた』のです。

 すぐ一輪車を買ってきて練習を始めましたが、まったく乗ることができあず1週間であきらめました。一輪車は物置に突っ込んでおきました。
 半年後どうゆうわけか、再びやる気がでて練習を再開し、それから約半年かかってやっと乗れるようになったのです。
 一時は熱中しましたがやがて飽きてしまい、時々乗るだけになり、45歳ころからまったく一輪車を乗ることがなくなりました。

 このたび、どうにか乗ることができた。でも昔のように楽しくない。身体に負担が多すぎる。
 これが最後の一輪車乗りになるのか・・・・・・ 

思い出アーカイブス(スキー)

2008年02月17日 21時48分16秒 | スポーツなど
 「寒さが体にしみる。歳のせいかな?」と娘に言ったら、「このところ寒い日が続いている。歳に関係なくみんな寒いんだよ。」と慰められた。
 
 スキーを楽しみにしていたころは、この寒さを歓迎していたものである。

 高校生のころ、何回か兄貴に、谷川や湯沢に連れて行ってもらって滑ったことがあったが、20歳のとき交通事故で右足首を痛め、以後まったくスキーはやめた。

 【谷川岳天神平にて(当時の兄貴と私)】

            

 
 
 そのうち子供たちが、学校行事などがきっかけでスキーに興味をもつようになった。

 【平成元年お正月一日、武尊オリンピアスキー場にて。息子が中一、娘が小三(お母さん撮影)】

          

          

 息子にせがまれ軽井沢スキー場に行ったとき、レンタルスキーで滑ってみた。昔のスキー靴と違い、靴が簡単に曲がらせてくれることに驚いた。
 これなら、私でも滑れる。中級くらいのコースで、歳相応でいいからそれなりにかっこよく滑れるようになりたいと思い、スキーにはまった。

 このころ、一泊して家族で中里スキー場へ行った。
○雪だるま兄妹

          

○子供たちにつられて、スキーにのった・・・(考えてみると、成長する子供たちにつられて楽しんだり、喜んだりして人生を送っているのかも?)

          

          
(お母さんのスキーは、これが最初で最後であった。)

 息子と二人で滑りに行ったのをきっかけに、45歳から50歳まで大いにスキーを楽しんだ。 
  軽井沢のスキー場で、中学生の息子と足腰がパンパンになるまで滑った。
  泊りがけで中里・草津に家族で行った。  
  少し上手になってから職場の仲間と、草津・軽井沢・白根・丸沼などに行った。同年輩の高橋武久さんと行ったスキーは特に楽しかった。
  兄貴と二人で、あるいは義姉も一緒に軽井沢・草津・宝台樹などへ行った。
  
 またチャンスがあったら、いつでも滑りたいと思っている。

                 

 

思い出アーカイブス(海技免状)

2007年11月25日 11時58分33秒 | スポーツなど
           

 昭和55年10月27日、日本政府運輸大臣から『四級小型船舶操縦士』の海技免状の交付を受けました。前期太田時代・36歳のときのことです。

 免許を取る気になったきっかけは、後輩(岩崎と田村)に誘われたからです。
 『今は無理だが、定年近くになればモーターボート1台くらいは買えるるだろう。大洗か寺泊に停泊させておき、時々乗りに行こう。定年後のレジャーにもってこいだ。』などと考え、免許を取る気になったのです。

 桐生の内山さんがやっている講習を受け、実技は赤城山大沼で勉強しました。

 確か10万円くらいがかかったと覚えていますが、順調に免許を取ることができました。

 そして、大海原を疾走することを夢見て公私ともどもそれなりに頑張って現在に至っています。
 
 定年を迎え『ひま』ができました。ボートくらい買える金もあります。

 いよいよ、若き日に取った船舶操縦士免許が役に立つときがきたのです。

 ところが皮肉なもので、『その気』がなくなってしまいました。
 海まで行くのが面倒だ、家でテレビを見ているほうがいい、歳のせいか『海に出るのが怖い』、健康に自信がないなどと思うようになってきたのです。

 せっかく取った海技免状も宝の持ち腐れになってしまいそうです。
 


思い出アーカイブス(息子の勇姿)

2007年09月13日 12時01分13秒 | スポーツなど
「やあ、やあ、遠からん者は音にも聞け、近くば寄って目にも見よ。これぞ我が息子の勇姿なり!」
 時は、西暦1993年、平成5年8月15日昼下がり、息子がキーパーをつとめる高校サッカー部が白熱の試合をくりひろげていたときのことである。
 同点のままPK戦にもつれこんだ。このときの息子の勇ましい戦いぶりは目を見張るものであった。
 「虚と見せては実と変わり、実と見せては虚と変わる。まこと変化の早業は水に写れる月影の波のうねるに似たり。」
 
          


          

          


          


           

 みごとPK戦を制し、貴重な1勝をものにした。