真説・弥勒浄土      

道すなわち真理の奇蹟

第三章 天性の変化と修法 (十一)妙智慧・天性・天理・天心と各聖者の論

2024-01-11 21:49:28 | 天道の淵源

(十一)妙智慧・天性・天理・天心と各聖者の論

天道では、妙智慧はすなわち天性であると説いています。

妙智慧は普通でいう知識・常識の智慧ではなく、真智・霊智であり、すべての真諦を観じ得る姿であります。

性(たましい)はもと、老〇様(ラウム)から与えられたもので、先天性・後天性が一体となって肉体に寓(ぐう)し心となって働く姿であります。

言うならば、生命は天から与えられたものであり、妙智慧はその人間の働きが加わってすべての迷いを破り、悟りを開いた本性の姿であります。

性(たましい)は平等であり、妙智慧は分別性であります。

性は神の子であるということで乾坤男女(けんこんなんにょ)を問わず、同一に備(そな)わっております。

輪廻に環(めぐ)って善悪正邪を行い、迷いと悟りの道を歩む違いによって、輝く妙智慧もあれば、汚されて暗愚になる魂もあります。

妙智慧の門は同じく開かれても、その働きに違いがあります。

慈愛の道を行い、内功外功を行って、自他の霊気を磨き救った人は、天性に返り仙仏となることができます。

罪悪を犯し、堕落顛倒した人は性命が害(そこな)われて気邪亡霊と変わってしまいます。

同じ性命を持っていても迷悟の行いの違いによって、妙智慧に高下・大小の分別を生じてしまいます。

従って妙智慧は性命の働きであり、性命は妙智慧の主体であります。

つまり、性命とは、老〇様(ラウム)から与えられ、妙智慧とは老〇様(ラウム)に還源する性命であります。

先天性・後天命の相交わる状態を易経では「二五(にご)の精、妙合して凝(かたま)る」と言い、御聖訓に「三五凝結して人天に貫く」と諭(さと)されています。

二とは両眼であり、五とは仁義礼智信の五常であります。

二五は天に在っては日月となって相対しています。

人間も同じく霊光をめぐらせて凝結し、散漫させなければ、源に返る法を完成したことになります。

中和の道を孔子様は説いていますが、これも中は先天性を指し、和は後天命を指しておられます。

先天が動けば後天がそれに従って成就し、後天が動けば先天がまたそれに和して円熟を得られるのです。

つまり、真は仮を離れず、仮によって全うし、仮は真に頼って存在します。

御聖訓に「修行者は内功外功に勤むべし。内に聖人の如く、外に王者の如く風格を抱くべし」と諭されています。

内功は己の心意を磨き修める克苦(こっく)の法ですが、必ず形となって人々と和し、衆生を同化していける法力となるのです。

身心一如の状態を釈尊は「空は色に異ならず、色は空に異ならず、色即ちこれ空、空即ちこれ色なり。」と説かれました。

こうして混然一体の中に分別があって傷つけ、損なわれたりすることなく、覚智をいよいよ円満にして仙仏の相が具足されるのです。

その実相が本来の我々の姿であり、あるいは天心、真心、妙明の心と表現されています。

これが「天人合一の心」になったときに常に清潔にして埃(よごれ)なく、清静の心となります。

程子(ていし)様は「天心は天理よりなり、天理は天道よりなる。」と講じられました。

もちろん天性は天道より生ずるものであります。

天心も天理・天性・天道も無形であり無象ですから絶対的の名称を冠することはできません。

ただ、理解して頂きたいのは、良心は天心の発する所であり、常に天徳が具わっていますから、心を尽くしさえすれば天と合一できることは必然のことであります。

孟子様は、時には「赤子の心」と言い、「大人は其(そ)の赤子の心を失わざる者なり。」と言われました。これは赤子の心が、純正にして偽りがないから有徳の君子の心常に赤子のようだと述べておられるのです。

また、「その心を存し、その性を養うは天に事(つか)える所以(ゆえん)なり。」と言われました。

つまり、心性を存養していることが、天に仕えることだという意味であります。

朱子(しゅし)様は、「心は天理を包み、同時に万物の理も含んでいるから、人間が万物の理を求め究めていれば、同時に天理を知ることができる。宇宙は一つの理によって構成されている故に天心は即ち天理である。」と主張されました。

王陽明(おうようめい)様も同じく、人心に中に天理が含まれているとなし、「この心を尽くして行けば、天理を知ることができるし、天理が明らかになれば、自然に天心や万理が明らかになるであろう。」と説かれました。

俗の語によく、「天理は良心に対して、良心は天理に対す。」と言われています。

仏教では、「万法唯心(ばんぽうゆいしん)」また「心即仏(しんそくぶつ)」「静心即仏(せいしんそくぶつ)」と説かれているのも、天性の価値と意義を示しています。

極楽への道は、我々の心眼が開かれ、それが糸口となって辿(たど)ってこそ、始めて達せられます。

そこが至善の地であり、妙智慧の根源であります。

本性を明らかにするには、その一番大事なことは、明師に会って玄関の扉を点破されるべきです。

そうなれば一つの悟りが連鎖的に次の悟りを呼んで無明は無くなります。

つまり天道は盲目の人の手をいちいち引いてあげるよりも、直にその盲目を開いて明眼にさせるのです。

外から汲(く)んできた水を与えるよりも、自性の中に井戸を掘って無限の智慧を滾(わ)かす道であります。」

続く


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済渡の心構え 応用 十六

2024-01-11 21:47:28 | 済渡の心構え

十六、一寸の光陰は皆天時にして、無益に浪費せず公益に供すべし。

一切の時間は救霊に収約さる。

戯楽に貴重なる寶を失う勿れ。

殊に軽率なる言動を発せば自らの徳を損なう。

儀式の後、長居せば世間に人情話に移りて互いの口耳を穢し易し。

式後、道話無き限り座を離れて、次の道業に移るべし。

続く


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性理題釋~五十八、気天象天は破壊す

2024-01-11 21:45:57 | 性理題釋

五十八、気天象天は破壊す

気天は陰陽あり、変化あって即ち生死があります。生死があれば即ち終始があります。

孔子様は『物に本末あり、事に終始あり』と申されました。然るに天地日月、鬼神や人類飛落の動植物は皆物でありますので、一切本末があります。

四季の循環の寒来たりて暑去る事や、風雪雲晴、日月の盈虧(えいき:物事が栄えたり衰えたりすること)、晦弦(かいげん)や朔望(さくぼう)等は一切事でありますので、皆終始がある訳であります。

気天の終始は十二万九千六百年で十二会に定められ、子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥を以て名づけたのであります。その中の六会は物が閉収してなくなる訳であります。

子会より午会に至るまでは、無から有をなし遂げた境地であり、午会から子会に至るまでは有から無に還るのであります。

天は子会に開き、戌会に没しますが、地は丑会に闢(ひら)き酉会に没します。人は寅会に生まれて、申会に没し、亥会に混沌に入り、子会に至って又天が生ずる訳で、このように循環してやまないのであります。

史記に『天は子に開き、地は丑に闢き、人は寅に生ず』と記されてありますが、このように説いたのは、すべて気天には終始があることを証明したのであります。

気天に終始あれば、象天の終始は当然説く必要がない訳であります。

又気天の変化は、小さいものを以て大きく推(お)して見ても同様であります。

例えば一日には昼夜があり、又十二時間に分けられますが、その昼は陽に属し、夜は陰に属して、一日は一開と一閉があり、日々同様に廻るのであります。

一年には四季があり、ちょうど十二ヶ月に分けられ、春夏は陽をなし、秋冬は陰をなして、一年もまた一開と一閉があって、年々同じようにめぐるのであります。

これを推して一元を見ますと、一元も又十二会に分けられ、子会に陽が生じ、午会に陰が降りますが、午会はちょうど一日の正午に当たる訳であります。又子会はちょうど一日の夜半に当たりますが、子は万物を開く始めとなり、午は万物を閉じる始めとなります。

午会以前は無より有に入り、午会以後は有より無に入る訳で、午会は一元中に極めて大きな関頭に当たる訳であります。

故に午会の気数の変化は、又一つの大きな奇局になるのであります。そこでこの理を推して考えて見ると、今日を以て明日を推すことが出来、今年を以て明年を推測することは勿論、大小は一理でこれを以て推して行けば、必ず一元会を知ることが出来るのであります。前の一元会を推して、後の一元会を同様に知ることが出来るので、これは符節を合わす如く、我々の心にはっきり致す訳であります。

続く

理天・気天・象天の図

元会の図

 

十二元会図


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1月1日巨大地震、未明に届いたメッセージ。神の意図と目覚める日本人へ大切なメッセージ。

2024-01-11 17:10:44 | 道を求める聖なる物語(人・日本・世・宇宙)

1月1日巨大地震、未明に届いたメッセージ。神の意図と目覚める日本人へ大切なメッセージ。


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【Ray:邪馬台国は諏訪!】『完全版』邪馬台国の場所が判明!歴史のミステリーがついに解明される!

2024-01-11 15:40:32 | 道を求める聖なる物語(人・日本・世・宇宙)

諏訪湖周辺には古墳がたくさんあります。

古墳は「永遠の命」を求める象徴。

近年では空海が開いた高野山に権力者などの墓が乱立していることも同義です。

空海が桓武天皇の時代(782~806)唐に渡り、真言密教の第七代祖恵果阿闍梨から奥義を伝授されたとしていますが、空海や恵果はユダヤ人で天命は得る者ではありません。インドの邪教(庶民呪術)を掲げ権力の神権としていました。

神武天皇以前の歴史は、中国の神話時代、大道が降世した伏羲(先天八卦を作り、万物化育を顕し始まり、紀元前1000年ぐらいから豪族を束ね国家という概念が始まりました。周公によって大礼を制定し、老子が道徳経・清静経を遺し、人類の教化が行われました。

日本では、仏教伝来と紀元600年ごろ聖徳太子によって律令制が発布され国家の体裁が確立されてゆきました。

現在の状況は、この時代と同じように、世界196各国が天皇などの支配階級が無くなり、新たな共存の生活英知を生み出さなければなりません。

聖徳太子は、十七条の憲法によって今日のために天命を得る「三宝」を歴史に遺しました。

この動画の卑弥呼と邪馬台国の問題は、大道降世紀元前3000年前から天命の天盤を釈迦牟尼仏、道盤を文王(中国の聖人)が掌った時代、今日の弥勒浄土の準備を始めた紀元前800年ごろから、大和朝廷に至る時期、世界の雛形である日本の歴史を日本書記や古事記で隠蔽した形になっています。

説明が解りずらいと思いますが、この後の動画見て頂きたいのですが、これからはこの世で行われて来た歴史と天意を推し測ることが重要になります。

新しい時代(弥勒浄土)は天意と皆さんの生活が一体となる時代だからです。

卑弥呼というのは天意を伝え護るいわゆる巫女です。

しかし、天命が「聖人から聖人へ、一指相伝」に遷ったため、その期間の日本の役割を担う役割です。

邪馬台国は、諏訪です。

【Ray:文王は天命が師儒僧侶にあった時代に道盤を掌った聖人!】【ゆっくり歴史解説】周王列伝 第1回 聖なる王 文王【周】ゆっくり中国古代史語り

縄文時代が12000年以上も続いたのは、人々が天意を体得していたからです。

空海のように天意を得られない時代、古代にならい権勢が神託のように偽装しなければなりません。

新時代(弥勒浄土)は、天と人とが一体となって行司られます。

『完全版』邪馬台国の場所が判明!歴史のミステリーがついに解明される!


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