真説・弥勒浄土      

道すなわち真理の奇蹟

第三章 天性の変化と修法 (九)識神・鬼魄・濁精・遊魂・妄意の五物について

2024-01-09 19:10:29 | 天道の淵源

(九)識神・鬼魄・濁精・遊魂・妄意の五物について

識神・鬼魄・濁精・遊魂・妄意の五物が我々の生活に及ぼす影響は大きく、用い方の違いによって吉凶禍福と異なった運命を招いてしまうのです。

以下に五物の性質を説いて参考に供します。

修行をされてゆく上において、裨益(ひえき:補い、助けになること)になればと思います。

(1)遊魂

これは数多くの輪廻を経歴してきたもので、人となるのも、悪魔となるのも、遊魂次第であり、善悪を行って聖賢・罪人となり、あるいは畜生動物と形が変わるのも遊魂がもたらした結果なのです。

遊魂は我々の体が生まれない前から来て、気がいまだ絶えない前に去ってしまいます。

懐胎月満ちて出生の時、口鼻から気が入って大きく泣く一声で、霊魂は玄関を通じて体内に入ります。

遊魂が一度竅(きゅう:穴から入る)すると、後天木性の気を受け、先天五行の気の元性と後天の命が相融合します。

泣かなければ成りません。

それが遊魂がいまだ入体しないと、たとえ元性であっても、単独では存在できないからです。先天性が真ならば後天命は仮になる訳です。

仮が真によって尊坐すると同時に、又、真も仮に世ララければ現世に留まることはできません。

ここに始めて後天の命となり、人の心と変わります。

(2)気魄

これは血液の霊気を借り、後天の金性の気を受けて凝結します。

生まれて七十七、四十九日目に始めて全うされ、生活の推進力になり、意志を固める力となります。

死後、七十七,四十九にして始めて滅び去る性質のものです。

俗に「亡者に七十七,四十九日の期あり」と言われているのはこれ故です。

よく魄力に富むとか、気魄に充ちるとか言っていますが、これも気魄の動きを指しています。

人によって旺盛であったり、衰弱したりしますが、これは精神の安定、不安定を大きく左右します。

遊魂は滅びずに絶えない輪廻を繰り返しているのに比べて、気魄は体に従って生まれ、体に従って消滅します。

つまり、個性という枠の存在となっています。

(3)識神

これは後天・火性の霊気によって生じたのですが、源は魂からでたのです。

識とは意識・記憶の意味ですが、釈尊は五蘊(ごうん:色・受・想・行・識)の心意の変化過程の中に識を終わりに置いています。

識神の本質は決して悪ではありませんが、過去と現在に経験したことで、善行の意識や記憶よりも悪と罪の方が遥かに多く刻まれているようです。

悪の力は強く、また忘れがたいので、これが苦厄と煩悩の種となっている故に、浄化して正しい識見を持つべきだと説いています。

識神は二つの極端性を持っています。

一つは、官能の赴くままに欲望と快楽に耽(ふけ)りたいという識念です。

これは卑しく低級で無益です。

一つは、自分を苦しめるのに夢中になってゆくことです。

不必要な卑屈感に落ちたり、強い精神分裂症に罹(かか)ったり、幻想にとらわれてしまったりして、自分を失ってしまいます。

これは下等で愚かしいことです。

この二つの極端を捨てて中道(天道)を悟れば、元神に返れます。

そうすれば、高い認識と深い洞察力が得られます。

(4)濁精

これは、後天・水性の霊気を受けて生じたのですが、元は魄から出たものです。

淫念や性欲の強い人、あるいは残忍性の欲望を抱く人は、この濁精を最も濃厚に持っている人です。

五臓・六腑から分泌される津液(じんえき:血以外のすべての体液の総称)や淫念や生理によって排泄される精血は、ともに濁精の部類に入ります。

これらが体内において調和や平均が欠けてしまうと魄力が衰え、元神が昏(蔵)くなります。

魂が動揺を来してしまいます。

中世欧州では、人間の体質をきめるには四つの体液があり、その混合の割合から種々の違った体質・気質の人間ができることを発見しました。

その一つに膵臓(すいぞう)から分泌する憂愁液(メランコリック)という液体があってこの液体の割合が大きい人は精神的に不安定で脅えやすく、感情や気分が急激に極端な変化をおこし、一度ある感情にとらわれると、それに夢中になって前後の見境がなくなってしまうことを明らかにしました。

この欲求不満の状態が感情の不安定へと発展してしまうのも、濁精の不均衡による作用からくるのです。

(5)妄意

これは後天・土性の霊気を受けて生じ、種々の顧慮(こりょ:深く考えて、それに思いをめぐらすこと)なり、思考や動作を発令するので、精・神・魂・魄の四物を使役する主的存在です。

物事はすべて心意から起こり、心意に基づき心意から成り立ちます。

もし、心意が穢れてしまうと言行が歪曲して苦悩や煩悩が後からついてきます。

ちょうど、車を引く牛の後に車がついてくるように離れないでしょう。

その反対に心意が清らかになり、無一念・無一物の境地に至れると、幸福と平安がついてきます。

ちょうど、影が我々に付き添って離れないのと同じです。

怨恨に対する復仇(ふくしゅう)の執念も意から出るものであり、恩義に対する感謝の一念も、意から発したものです。

喧嘩をおこすのも、仲良くするのも、それぞれみんな意念の働きによって決まるのですから、たとえ小さな動きでも重要な結果を生むことになります。

これらは皆我々の出生後に附着してきたのですから、これを後天命と言います。

この後天五物を得道によって正しい先天の五元・五徳の本善の性に還源すべきであります。

 続く


性理題釋~五十六、天人同体の趣旨

2024-01-09 19:07:31 | 性理題釋

五十六、天人同体の趣旨

宇宙は一つの大天であり、人は一つの小天であります。言い換えますと、人は一つの小宇宙ということであります。

宇宙には理・気・象がりますが、人間にも又理・気・象があります。

人の骨肉とその他の形体は象であり、呼吸と流通して身を週(めぐ)る力は気であり、全身を主宰(さい)する本性は理であります。

人間の象は宇宙の象と相接(哀切)し、人の気は又宇宙の気と相通じ人の性は宇宙の理と相通ずるのであります。

もし、宇宙の気が理に勝てば、宇宙の万事万物は即ちその中和を失い、四季は不正になり、風雨は調(ととの)わず、人心は乖舛(かいせん:背きもとる)して、社会は悪劣(あくれつ)になり、危険な状態が叢(むらが)り起こって、九九八一の劫災が斉しく現れるのであります。

人身の理(性)が気に蔽(おお)われると、その中和を失い、即ち真を迷い妄を遂(お)って、情をほしいままにし、慾に従って、自ら輪廻に堕(お)ち、生死を流浪(るろう)して永久に止むことがない訳であります。

続く