真説・弥勒浄土      

道すなわち真理の奇蹟

【政治家利権】NTT法廃止なら、電話加入権返金せよ

2024-01-13 20:40:45 | ONEメッセージ

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年々増加・若年化している子宮頸がんの原因

2024-01-13 20:25:09 | ONEメッセージ

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第四章 三期末劫の起こるべき原因とその証明(一)青陽時代

2024-01-13 19:04:00 | 天道の淵源

第四章 三期末劫の起こるべき原因とその証明

我々が安楽光明の故郷である「理天」にいた頃の一つ一つの霊は純無垢にして、聖賢仙仏であり、菩薩・羅漢の姿でありました。

皆秀麗な理性と玲瓏(れいりょう)な智徳を備えていました。

老〇様(ラウム)はお独りの智能をもって森羅万象を形作り、天地万物を創造された後、我々九十六億の霊の兄弟姉妹を治世のためお遣わしになられました。

我々は共に命を受けて治世にくだされたからには当然、人間対人間の中に相互親愛の情がある筈であります。

また、人間対動物の間柄にも然りであれねばなりません。

昔は長年人間と動物との平和な同居時代がありました。

共存共栄にしていた清純な時代でも人間の智能が幾分高いという立場から動物軽視となり、抱腹と生存競争という理由から動物殺戮にまで移りました。

聖書の創世記にも神は、「私は全地のおもてにある、種を持つすべての草と、種のある実を結ぶすべての木とをあなた方に与える。これはあなた方の食物となるであろう。また、地のすべての獣、空のすべての鳥、地に這うすべてのもの、すなわち命あるものには食物として全ての青草を与える。」とありますが、肉食の味を覚えた人間は、経を勝手に解釈し、理由を正当化して擒猟(きんりょう)に狂奔(きょうほん)し出しました。

人間対動物の闘争がここから始まったのであります。

捕らえられた獣は皮を剥がされ肉を切り取られ、骨を削られてそれぞれの用にあてられました。

当初の純善な天性も片寄った種族保存の観念から、悪どい他族への生命侵害へと変わってゆき、闘争は人間対動物だけに止まらず、必然的に人間対人間の間でも激しく競り始め、我欲・貪欲の凝(こ)りは人を盲目にしてしまいました。

無分別な要求は血腥臭(ちなまぐさ)い結果に終わることは当然です。

人間対人間の争いは他人との間だけに終わらず、尊族身内の殺害も敢えてするほどの残忍性・暴虐性に発展しました。

倫理道徳を逸脱した人は変じて悪鬼の姿となります。

人対人との軽蔑・区別が昂(こう)じて、家対家、国対国の争いとなり、果ては侵略や戦争の凄惨(せいさん)な結果を招くに至っています。

実に奸巧(よこしま)な考えを持つことは恐ろしい限りであり、嘆かわしいことであります。

我々は昔から有形・無形の中に、無数の血債・罪業を積み重ねてきました。

一生の間に犯した過ちだけでも量(はか)り知れないのに、一つの霊が何百何千となく輪廻転生している間に、周囲何万何十万の人に迷惑をかけ、累を及ぼし、寃(あだ)を為し、仇(かたき)を結んだかは想像しがたいほどであります。

老〇様(ラウム)は公正無私であって、債(かり)ある人に返債することを拒絶されません。

因果の貸借関係を綺麗にすることを当然と思召(おぼしめ)されて、原因による結果、債務に対する返債がいかに苦痛であっても、清算するのを許さないわけにはまりません。

生命に深い怨恨があるならば、あるには命をもって償(つぐな)わねばならないでしょう。

いわゆる眼には眼を、歯には歯を、の例えの通りです。

乱暴な飲食は腹を壊し、体内に蓄積された毒物は腫瘍(できもの)となって排出されます。

信賞必罰(しんしょうしつばつ)、天網恢恢(てんもうかいかい)疏(そ)にして漏らさず、生霊を害し傷つけた罪が累(かさな)って、ここ三期の浩(おお)きな災難が生じてきたのも、決して偶然のことではありません。

三期とは、三つの時期であり、劫(きょう)とは愚悪を警醒させるための天意による鞭であり、末劫とは、第三期の最後の災いを意味します。

従って前二期にも災難があった訳です。

三つの時期とは、青陽期・紅陽期・白陽期であります。

次にこの三期について詳細を述べてみましょう。

(一)青陽期時代

青陽期は、伏羲氏(ふくぎし)時代(メソポタミア国家時代)から商の太丁(たいてい)まで、ミケーネ・トロイが滅亡してギリシャ世界成立までの千八百八十六年間であります。

紅陽期は、周公から清の末期(千九百年・明治に中期頃)までの約三千年間であります。

白陽期は、今から未来1万八百年間であります。

災難はその時期の変更期か、その時代の間に起こる自然的・人工的な淘汰であります。

この三期を通じて見逃してならないことは、災難は時代の変遷に従って愈々激化し残酷化してゆくのであります。

そして部分から全面的に拡大されて、大量殺戮に変じていくのであります。

物質科学文明の急速な発達や進歩に伴って数倍数十倍苛酷・残忍性を帯びてきます。

それは、人心の腐敗と大きな関連があるからで、「青陽時代」は商の太丁、すなわち周王季(しゅうおうき)の時代で終わっています。

この時代、世道人心の罪悪は比較的軽微だったので九つの劫難によって清算されました。

名づけて「竜漢水劫(りゅうかんすいきょう)」といいます。

つまり、この時代に九回の大災難・大戦争が起こった訳で、わけても洪水の害が酷(ひど)かったので水劫と名づけられました。

古代文明の成立発祥地は、自然的条件との関係が深く、地勢・気候、わけても大河のほとりに集まりました。

従って恐ろしい氾濫で人類に大きな害を与えたもので、被害の屍(しかばね)は山の如く、血は流れて河の如くになりました。

一つの時代から次の時代に変わる度毎に苛烈(かれつ)な災難が人類の上に見舞ってきました。

当時の中国は、九つの時代に分けられ、神農(しんのう)・黄帝(こうてい)・少昊(しょうこう)・顓頊(せんぎょう)・帝嚳(ていこく)・堯(ぎょう)・舜(しゅん)・禹(う)・湯(とう)など九帝時代で、その都度に必ず無数の人命が滅ぼされました。

桀王(けつおう)の如き無道・暴虐によって起こった戦乱は残酷極まるものでありました。

これらは皆黄河の流域を中心にして行われ、禹帝は治水のため十三年間も家に帰らなかったほどです。

水を治めることは、国を治めることよりも困難なことでした。

印度(インド)のインダス川流域(現代のパキスタン国)にあるモヘンジョ・ダロは、五千年間は立派な都市でした。

例えば街路は東西と南北に直角に走り、排水施設も整っていました。

この古代インダス文明も大洪水によって消滅し、最古メソポタミアの興亡もチグリス・ユーフラテス河の周辺で繰り返されました。

アムル(アモリ)人が侵入して来て、シュメール人はこの世から姿を消しました。

このバビロン朝もインド、ヨーロッパの移動民族によってまた滅亡されました。

古代エジプトの文明もまた、ナイル河無くてはあり得ません。

ナイル河の増水を知るために天文学や暦が発達しましたが、洪水の為に無数の人類が死亡しました。

災難と言えば、ピラミッド建立の犠牲もまた凄惨無類でありました。

青陽時代の仙家は九の珠(たま)を伝えて、「九天の金丹」としていました。

上古の時代には文字がないので珠をもって数に代え、一個の珠をもって一つの劫難とし、旧子で都合九劫を表しています。

それでもこの時代の人間の悪は少なく善が多かったため九つの劫ですみました。

この時代の天道は専ら帝王にありました

帝王一人が天命を担えば、衆生を救い教えるのに困難ではなく、もっぱら道を宣揚し心法を伝えました。

この時代の人間は獣面ではあるが、仙仏の心をもっていました。

従って済度するのに比較的苦労はありませんでした。

どうして青陽時代と号していたかと言いますと、当時の道運の方位は東方に在ったからです。

天に在りては元(げん)・亨(こう)・利(り)・貞(てい)の元正に位し、地に在っては春季にあたります。

春季は青、苗芽(みょうが)の一斉に咲き萌える気候です。

四方では東方にあたります。

東方は五行の説では木に属し、五色では青であります。

故に青陽と言います。この間の人類の生活を見るに大方青色を最上としていました。

原始生活は一番青に近い関係からも想像できます。

衣・食・住ともに青色・青物を使用していました。

天命は人王伏羲氏に始めて降りました。

伏羲氏は苦心して八卦を完成し、河図・洛書を書いて万古不易の宇宙易理を明らかにされました。

当時の明君はすべて天道を奉戴(ほうたい)して人類に及ぼし、三宝の法印は、「玄関の一点」と「十六文字の真教」と「蓮の合同」をもってあたえられました。

蓮の色はやはり青です。

「道あれば明君、道なければ昏君(こんくん)」と言われたのもこの時代です。異常が青陽時代とその災難の説明であります。

続く


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済渡の心構え 応用 十九 完

2024-01-13 19:02:37 | 済渡の心構え

十九、明確なる志願目標を立てて、達成に尽瘁(じんすい)すべし。

計画なくば闇夜に這いて歩む如く遅く、立つれもば白昼に駆けるが如く速やかなり。

その場限りの思い付きにて行ぜば、遂に事成る時なからん。

立願は、志気を振るわせ実践を与え功績を齎す最上の必須条件なり。

常に志に照らして道を誤ることなかれ。

天監は厳格にして、一毫(いちごう)も洩らすことなからん。

以上数箇条を列するも皆、悉く外功に繋がる内功の義なり。

今、當に世は激動の時期にして、前世よりの因果の応報清算甚だしく、殺害は至る処にて行わる。

道内と雖も亦洩れず。

紛紛としてその忠志を試さる。

試練を受けて無きが如く無自覚なる時こそ、最も身を慎め。

九分九厘功を積むも、後一厘に躓(つまず)けば悉く崩壊し微塵だにも無し。

実に天の真実霊眼は隈(くま)なく被(おお)いて誠の真偽を判別する。

小局を見れば大局を失い、以って全体を誤るなり。

誠に縁を問わるるか、份(ぶん)を問わるるか、時命が来れば縁份切れし者は乱る。

是れ悉く徒(でし)皆に言える事なり。

帰天する最後まで、是非善悪を量られ、昇降を定めらる。

誠に慎むべき哉(かな)。

又、恐ろしき事哉。

常に身を低くして心を下して、天言師勅に報答すべし。

高く上がる程に身を慎み、天意の定めし処に心命を置くべし。

自説・自論に執(とら)われず、自行自験に牽(ひ)かれず、無心無我なる心眼にて一切を判断すべし。

中心を誤まらば一切が誤まる。

善徳を失わざるべく刹那(せつな)に天上の声を聴け、余、弓長の本心を尋ねるべし。


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性理題釋~六十、聖賢と愚凡の区別

2024-01-13 19:01:15 | 性理題釋

六十、聖賢と愚凡の区別

聖賢(せいけん)と愚凡(ぐぼん)を分ける理は、大変簡単に明らかにすることが出来ます。

それは人間各々の気稟(きひん:気質)が同じでなく、物慾の異なることに因って、理性の発展が違うからであります。

気稟が浅く、物慾が少なければ、理性の発展が強く、志を立てて古聖(こせい)や先賢(せんけん)の法を効(なら)う者は、即ち聖人賢人であります。

然し、気稟は深く、物慾が多ければ、理性の発展が弱く、鏡花(きょうか)のような仮景(かけい)を貪恋(どんれん)する者は、即ち愚人(ぐじん)凡夫(ぼんぷ)であります。

言葉を換えますと、誰でも気と慾にうち克(か)って理性を明らかに復(かえ)す事が出来れば、即ち聖賢であり、気と慾にうち克って理性を恢復(かいふく)することが出来なければ、即ち愚凡であります。

譬(たと)えば、明るい鏡の本体は原来純明(がんらいじゅんめい)でありますが、然し、時の経過が多ければ、段々と塵埃(じんあい)がついて来て、もしも洗ったり拭(ふ)いたりしなければ、その明鏡(めいきょう)も決して再び明るくなることはありません。

人の理性も又この通りであります。

故に儒教では『存心養性(ぞんしんようせい)』を説き、道教では『修心煉性(しゅうしんれんせい)』を説き、又釋教(仏教)では『明心見性(めいしんけんしょう)』を説かれましたが、その法は同じからずと雖(いえど)も、人に理性を恢復(かいふく)せしめることを教える所は即ち一つであります。

続く


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