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(六)心眼の点破により、心霊の曇りが拭(ぬぐ)われる
人間が赤子の頃は、第一天性と第二天性をあわせ兼ねた本性を持っていますが、一応、先天性と後天性と分けて説明できます。
自然に顕れてくる動作の中で天真爛漫であり欲情邪念がないのは先天性の然(しか)らしむ所によるものであります。
しかし、後天命は過去の後天性の引き続きですから、宿命的に前世の行為を踏襲したり清算したりするようにさせられます。
肉体の生長に従って物欲の心も強くなってゆくと、どうしても押さえようのない衝動にかられ、また過ちを重ねてゆくものです。
よく裕福な家庭に生まれた子女が、小物を盗む癖があるのを見うけるのはそのような例です。
このような気稟性(きひんせい)、つまり、善・不善のどちらにも傾くこの心を、天賦の元の純真に磨き上げるのには、後天命を持つわれわれの決意一つで大きく転換することができます。
智徳兼備とよくいわれますが、これは智慧と徳行が同じ比重で倶(そな)わっている意味です。
われわれの本来の霊性がそれなのです。
それは周囲の因果関係によって遮(さえぎ)られ纏(まと)われる障害物がないから玲瓏秀麗(れいろうしゅうれい)で、仁義礼智信の五元徳を充分に発揮でるのです。
第二先天性は多分にその因素が含まれている為に、人によっていわゆる先天的に臆病・小心・乱暴・短期・低脳・白痴などの異常性格や極端な個性となって生まれてきます。
ここでいう先天的とは、第二先天性のことで、つまり生まれつきのこと言っていますが、この第二先天性を第一先天性に戻すには、多分に今の後天命と修煉によらねばなりません。
気質化されたこの心命を還源するには、何よりも正しい道に就くこと、明師に遇って心眼を開かれることが肝腎です。
もっともわれわれの今の心意の働きが縁の厚薄(こうはく)に大きな関連がありますが、とにかく善と悪によらず、すべての物事は因と果が一つの輪となって交互に循環しています。
心ある人は、ちょっとした心意の工夫によって霊気の浄化をはかることができます。
過去がどんなに優れても今生の行為や心の在り方に欠陥や罪悪があれば、たちまち、われわれの霊が刺激と動揺を来たしてしまいます。
また、過去にどんな悪い宿業があっても、今生に目覚め悟り充分な積善や累徳があれば補って余りあることも有り得ます。
何れとも今の後天命の決意と行為次第で大きく運命が左右されるに違いありません。
因(ちな)みに今、二組の人の愛憎による結びつきを例に取って述べてみたいと思います。
ある一組の人がお互いに敬慕・愛情を抱いているとし、別の一組の人はお互いに根深く憎悪・怨恨の念を抱いているとします。
これが年が重なるにつれて、複算的に深まって、ついに固い関係を結んでしまいます。
つまり、恩仇(おんしゅう)としての強い繋がりの因果が結ばれるわけです。
その影響が次の転生の結果に現れます。
その場合、慈愛の行為は相助ける間柄として生まれ、憎しみの行為は相傷つけ合う因縁として生まれます。
人に良きことをすれば己の霊気は輝き、人に悪しきことをすれば返って自分の心を害うのみであります。
慈愛の行為は、より素直と聡明と智徳の報酬を得られ、憎悪の行為はひどい愚劣と無智と軽薄の応報を受けねばなりません。
従って常に慈愛の心を持つ人の霊光の輝きは、怨恨の情を抱く人の霊よりも冴えて明るく浩然の気として養われ、周囲の人々を潤すことができます。
聖者の霊は円通無礙(えんつうむげ)であり、多方面に和合する徳性があり、縦横無尽にすべての事物に対処する智能を有しています。
培われた天性はより高い聖賢の気品と素養が加えられ、霊波は順調に保たれて、日一日といよいよ円熟になり、安心立命を得て永遠の将来を見透せます。
怨恨、増悪の心を抱く人は発作的感情的になりやすく、思慮分別性を欠き、その身辺は常に害毒の気や妖気が漂って人々を刺激します。
この習性の働きは己を傷つけ、起居は不安と恐怖におびえ、過失の上にまた過失が加わり、理性と良心が麻痺して正邪善悪の判断力がと乏しくなり、心は常に偏狭的で利己中心の執念で固まり、物事を肉欲的に考えようとします。
これは全く、弱い霊光、乏しい生命からきたものです。
世の中には元来悪人はいません。本性は善に属しているが故ですが、一歩裏を返せばどんな凶悪なことでもしかねないので、実に心性の動きは恐ろしいものであります。
結局、われわれは今の心の迷いか、悟りかによって聖賢と罪悪人に分かれていきます。
心の転換には勇気を要します。
元の美しい天性へ戻すにも縁と時期があります。
現代は末法の世となり、そこで正法が新たに普遍的に降され、一人ひとりの心眼を点破して霊の還源を希(ねが)っています。
古語に「屠刀(ととう)を放下(ほうか)すれば、たち所に成仏す。」といわれています。
過去を懺悔し、正しい天命の道に従い、明師について心性の修練にいそしむべきです。
得道して、心眼を開かれ、心の曇りが拭(ぬぐ)われ、霊の汚れが払われれば元の自在菩薩(じざいぼさつ)へ帰るのであります。
続く