【アルクトゥルス】からのメッセージ「2024年にあなたに起こること。多くの古いものが崩壊し様々な変化を経験します。現実に目覚める運命なのです」
カズカズ退団 第三世界の主役「中東」今、日本はどう関わればいいのか。
(五)人生の真義
人の世の生活は愉快で楽しく素晴らしいと思う人もありましょうが、実際は非常に苦しく煩(わずら)わしいものであります。
貧乏には貧乏としての苦しみがあり、金持ちには金持ちとしての悩みがあります。
同じ苦しみでも人によって、或いは致命的であり、或いは軽微でありますが、ここに人生の寿命を平均七十五歳として、その中に楽しみと苦しみが何程(どれほど)ずつあるかを論じてみましょう。
三分の一の二十五年間は夜間の睡眠時間として、残りの五十年間に何程の苦しみがあるかを先ず述べてみたいと思います。
生存していく為に受ける種々の困難は確かに苦しみの障害です。
五十歳の初老担って愈々(いよいよ)老人の境に入りますと若い人に比べて視覚、聴覚は段々衰えていきます。
気力が日に日に衰弱し、記憶の減退や歯の脱落など次々と苦しみが身に沁(し)みて感じられます。
万病の併発、身体の故障等、相次いで起こり、或いは長年病床で呻吟(しんぎん)する様は決して楽ではありません。
死亡も亦、苦悶(くもん)の極みであります。
愛するということも身を焦がす段階になれば苦しみになります。
最愛の父母、妻子、兄弟との死別、生別も生身を割(さ)かれる思いであります。
憎悪(にくしみ)や怨恨(うらみ)も、お互いの限りない苦痛であります。
憤怒(いかり)や嫉妬(しっと)をするのもされるのも精神を痛めつけられます。
求めても得られない悩み、欲しくても思う通りに行かない焦燥(しょうそう)、才能が他人に劣る僻(ひが)み、衣、食、住の不安、災難に対する恐怖等、何一つ苦でないものはありません。
愚痴も煩悩(ぼんのう)も妄想も顛倒(てんとう)も雑念も闘争も喧嘩もみな苦しみの類(たぐい)に入ります。
私達の生涯には以上述べた苦しみをみな少なからず受けて来たか、受けなければならないものであります。
これらを除いて外に何程の楽しみと喜びが残っているでしょうか。
ほんとうに僅(わずか)なものです。
稲妻の閃光(せんこう)の如く瞬間的なものだけです。
人間の浅薄(せんぱく)な喜悦や快楽の後には必ず大きな悲哀と憂愁が待ち構えています。
他人の家庭や身分は幸福そうでこれを羨ましいと思っても、本人の立場から言わせれば、それなりに身を切られる様な苦しみがあるのです。
富貴の苦しみも貧賤の苦しみも同じように深刻な苦悩であります。
精神的、肉体的の差はあっても、本質的に苦痛は変わりありません。
こんな生活は義理やお世辞にも幸福とは言えません。
その為に宗教に入って精神の拠所を求めている人達もありますが、果たして悠久的に安心立命を得られるかは疑問です。
天道ではこれら一切の苦厄と恐怖と煩悩の因縁を洗い浄めて下さることを確信してお約束できます。
智慧の光を明らかに現わしている人には暗黒の陰影は破片(かけら)程も存在し得ないのです。
修道している人の心境と精神は已に苦しみを脱却している為、普通人の謂う苦しみは天道人には適用されません。
人生の航路は一筋の長い旅を続けているのと同じことです。
意のままに行かない種々の苦しみと悩みは限りなく私達の身辺に纏(まと)わり着いて離れません。
しかし若しここに全然苦しみと悩みを感覚しない人があるとすれば、なんと素晴らしく、全く羨ましくてあやかりたいと思いませんか。
そんな人がると信じますか。
それがあるのです。
天道を修めている人です。天道を修めている人は直接、神様の御神示に従って諸事を行っていますから苦悩は自然に解消されるのです。
人間の一生は夢であり、幻であり、泡沫(ほうまつ)であります。
仮定的、虚偽的の存在なのです。
霊の世界!これこそ私達が当然求めて到達せねばならない処であります。
ここだけが私達の真実に生きるべき境界(きょうがい)であります。
ここに帰ってこそ真の意義があり、実相の存在が得られるのです。
ここに至る道が神の道、天道であります。
続く
(二)苦楽の論議
楽だけを希求して苦を逃避するのは愚者であります。
楽の極は苦であり、苦の極は楽である理をよく知らなければなりません。
苦を厭(いと)わずに真面(まとも)に受けて進むとやがて楽が現れてまいります。
つまり、限りない苦の土台の上に有限の楽が僅(わず)かにしか乗っていない訳で、やがて楽が尽きるとさらに彫の深い苦が加わってきます。
「歓楽極まって哀情多し」で、苦と楽とは相隣に住み、交互的に循環する性質のものであり、切り離すことは不可能であります。
菜根譚(さいこんたん)に、「一つの楽境界あれば、就(すなわ)ち一つの不楽的の相対待(あいたいじ)するあり。一つの好光景あれば、一つの不好的の相乗除するあり。」 とあります。
従って、「成功があれば必ず失敗もあることを知れ、されば成功を求める心がそう堅くならないであろう。 生があれば必ず死を避けられないことを知れ。 されば生を保つことに過労しないであろう。」 とも述べられています。
沢山集積された長い欲望の輪廻を背負った束の間の楽もやがて尽きれば、残された数多くの苦の種の処置に手を焼く結果となり、心身ともに疲労困憊して生をさえ持て余すようになります。
故に真の苦を願わないならば、楽だけを求める心をやめることです。
楽が大きければ苦もまた多いのですから、楽を無くせば苦もまた滅します。
所得が増加すると欲望も急伸して競争を続けてゆきますから、休戦をした方が楽です。
そして、苦楽を超越するのです。
それが極楽です。
苦も楽も排除したら詰まらないと想うでしょうが、苦楽の繰り返しに惑わされなければ、我々はもっと進歩していたはずです。
少なくとも一つの所を堂々巡りをしなくて済むでしょう。
本来無一物です。
結果は無です。
元来、我々が使っている言葉も物も考えることも常識的、外来的なものを寄せ集めただけで、何一つ我々のものではなく、また我々の所有物にもなりません。
それを悟ることを諦観と言い、「諦(あき)らかに其の実態を観透(みとお)す」ですが、勿論これは、心眼でなければ、その真義を知ることはできません。
つまり諦めることです。
諦らかにその真の姿を観たから諦められるのです。
但し、賢人と愚人によって諦め方が違って来ます。
愚人の諦めには至って不自然さがあり、苦しんで争ってあらゆる面に行き詰った場合です。
究極まで妄執(もうしゅう)し奪い合った揚句、破れ果て仕方なく諦めるので、これは狭量で、自尊的で、傲慢不遜の敗退振りです。
従ってその生活は自暴自棄に陥(おちい)り易(やす)く堕落になりがちです。
相手の権力に屈したものですから卑屈で、非常に孤独で、他を見下し、心から人を侮蔑(ぶべつ)し、他に限りなく憎悪と怨恨を抱くものであります。
表面は慇懃丁寧(いんぎんていねい)であるかのように装って次の機会を虎視眈々(こしたんたん)として、深い意図を蔵(ひそ)めています。
やがて時至ると権力をもって相手を服せしめ、冷酷無情の刑罰を科して、自己を決定的に優位におこうとします。
慈愛がないから常にことが起こるたびに心身が動揺し、あまつさえ他に害を及ぼし、野心満々のくせに小心翼々として環境に染まり易く、物事の判断は正確を欠き、見通しは到って狭く近いものであります。
続く
六十六、智慧(智慧)の二字は人の性命
吾道(ごどう)の説く所の智慧は、則ち性命であります。
明かに見るを智となし、あらゆる理を具(そな)えることが出来るを慧と申します。
万事に応ずることが出来て知行合一(ちぎょうごういつ)し、体と用が兼ねていることを智慧と言うのであります。
何故(なぜ)かと言えば、人が先天にいた時は、乾(けん)は性で、坤(こん)は命でありましたが、一度後天(こうてん)に落ちれば、乾は中の爻(こう)の陽を失い、坤の宮(きゅう)に入りて、乾三連(けんさんれん)は変わって離中虚(りちゅうきょ)となり、坤六断(こんろくだん)は変じて坎中満(かんちゅうまん)となってしまいます。
故に後天では離が性で、坎が命となります。
坎は水の属し、水は智に属しますので、論語に『智は水を楽しむ』と申されました。
今、本原(ほんげん)に返還(へんかん)する工夫(修行法)を用い、甘露(かんろ)を上昇させ、離火を下降せしめて、常に水火を相交わらしめて智慧を合一すれば、成道せずに何になりましょうか。
本来この道は先天に属するが、後天に由(よ)って修めなければなりません。
故に易(えき)に『一陰一陽これを道と謂う』と申されました。
又分天巻(ぶんてんかん)という書上には『八卦周流(はっけしゅうりゅう)して呼吸を運ぶを、古今に知る人幾人ありや、愚人は紙上に大道を尋ねる、誰か大道は坎離(かんり)あるを知るや』と申され、坎(かん)と離(り)に大道の宿る事を説かれました。
続く