真説・弥勒浄土      

道すなわち真理の奇蹟

【Ray:「道を得る」は有り得難しこと!】奇跡が起こる不思議な言霊。あなたのありがとうがすべてを救う🤲

2024-01-01 21:55:43 | ONEメッセージ

礼節と楽しみ “ありがとう”は創造の源泉

このごろの「礼節」として「ありがとう」と言う言葉がはやっています。

消費時代が過ぎ、「楽しみ」も変り、デパートやスーパーでさえ298円セールとか安い印象の価格設定の薄っぺらな投げかけにもかげりが見られ、ネットなど上代を大幅に引き下げた良いものが人気で、一店舗の限られた品物よりもあらゆる品物と価格を比較できるネットショッピングの方に人気があるのは至極当然です。

コンピュータが苦手な高齢者のピーク2030年の前に買い物の形態が変わってもっと斬新な新しい生活形態も生れることでしょう。

楽しみと言えばそのほかにも旅行やアート・スポーツみんな「多様化」という名目で変ってきていますが、見方によっては崩壊していると言えます。

この変化の中で学んでいることは、今までのように押し付けの社会・押し付けの消費生活、商売人の邪な押し付けプランではなく、それによって長年にわたって鍛えられ精錬されてきた自分自身の選択が純熟して、礼儀にしても楽しみにしても、自分にとって礼節や楽しみそれぞれの本質を悟るべきです。

例えば「ありがとう」と言う言葉は、感謝と言う意味をあらわしていますが、本来は「有り得ないようなこと(有得難し=ありえがたし)」の意味から庶民化したもので神聖な語源の意味からすると「道を得ること」であり、それが「有得難し(絶対ありえない)」と言う意味になります。

その“有り得ない”時が来た今、「ありがとう」と言う言葉が頻繁に使われ人々の心の交流の触媒になっている状況はデジャブ的な不思議でありがたい光景ですが、心の中では「ありえない時期(弥勒浄土)が来ています」と発したいところです。

井戸は必ず源泉に達するまで掘ってはじめて深く掘った意味があるように、人の智慧や行動も必ず到達してはじめて本位に到達した真の造詣(ぞうけい)といえるわけです。

創造の源泉である道の軌道をなす者は、志を成就できずまるで高い山に登る者が頂上に到達する前に力尽きてしまうことを最も忌むべきです。

神聖な道と俗事は、その根元が交錯していますが、これはみなさんの智が試されていることで、信ずる心に打撃を与え失望し脅威を受けることは忍耐力を磨くことになります。

つまり、世の中に失敗はなく、あなたがまだ最も良い方法を見出していないだけなのです。

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奇跡が起こる不思議な言霊。あなたのありがとうがすべてを救う🤲


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第三章 天性の変化と修法 (一)天性は円通無礙(えんつうむげ)であるが人心は喜怒哀楽に変ずる

2024-01-01 21:28:37 | 天道の淵源

(一)天性は円通無礙(えんつうむげ)であるが人心は喜怒哀楽に変ずる

天性の変化と修法について述べてみたいと思います。

形象なき天性を論理的に説明ができても、実際にこれを深く分析・解剖し、その由来と起源を明らかにすることは、困難な問題でもあります。

しかしこれは、われわれ天道人の最も重大な課題であって、自分をもふくめて、すべての人々の天性を明らかに浄化し、元の姿に回復させる責任があります。

天性とは、われわれの「真如」の姿であり「本来の面目」であります。

つまり、われわれにも一如来が存在している訳で、汚れなき美しい光明体なのです。

それが歴世の輪廻に入り、悪の因果と業縁を繰り返しているうちに、すっかり堕落腐敗して本性が極度に汚染され、光沢を失ってしまいました。

果ては残霊と化したり、破廉恥行為によって天真爛漫な本性が深い傷痕を残してしまいました。

たとえ家の中に電球がついていても、戸口や窓を締め幕を引いては光が遮断されてしまいます。

聖賢に値するほどの霊も、それを内に秘めては人々に及ぼす徳光にはなりません。

また何百燭光の電球も、内の発光線が切れていては本来の用途を喪失(そうしつ)するのと同じく、仙仏の器たる本霊を持っていても神と通ずる線が切れていては元の機能が損なわれます。

腐敗するには腐敗する原因があり、悪化するには必ずその由来があります。

それを究明し、それを根治して真理・神仏との交わりを結ぶのが、天命を帯びて働くわれわれの本務であります。

天道は、われわれの真面目を復活して欠けることのない円通無礙(えんつうむげ:すらすらと物事が運ぶ)の姿に返らせる法授がります。

天性とは、父母未生以来の面目であり、人間の喜怒哀楽の情、いずれにも意未だ流れていない時の中に和なるところの霊をいっているのであります。

修道とは、この玲瓏(れいろう)天真なる天性の清明に到達することを目標とし、悪濁なる俗塵に曇らされた霊気をだんだんと浄化して行くを言います。

われわれの霊の当初は、老〇様(ラウム)によって賦(さず)けられ、純然たる羅漢・菩薩の姿であり、神の御子にふさわしい聖霊でありました。

もともと神ラウムが創り給うた原子霊でありましたが、約六万年間、三界を転生しているうちに絶え間なく過失と清算が繰り返され、その過程をへて現世に賢愚聖凡の別が生じたわけであります。

宿命とは、前世の貸し借りの因縁を背負って今生に受けている境遇のことで、一つの霊が過去に何百回、何千回と形を換えて生まれてきた果であります。

人間降世より約六万年と聖訓にあります。

人生百年ですから、まともに人間に生まれても都合六百回はこの地上に顔見せしている勘定になります。

動物や虫・魚類になりますと、寿命がずっと短くなりますからそれを含めると、何千回地獄と人間界を往復してきたかわかりません。

人間として百年間の人生に数多くの因果関係を結んでいます。

それが何百回の転生の間に、縦横に、前後に、いかに因縁を結んだかはかり知れません。

こうした複雑な因果は、波紋が広がるように幾重にもわれわれを囲み、左右前後に網目のような関連性をもって溺(から)み繞(まつわ)っているありさまであります。

運命や環境は皆そこから織りなす結果であって、心の作用によって聖賢仙仏智成、悪魔・夜叉の霊とも変じてしまいます。

心霊を修め、修行することがいかに貴重な問題であるか、それは天国と地獄にわかれていく重要性を帯びているのです。

「差は毫厘(ごうりん)なれどこれ千里に遠し」という諺にありますが、迷いと悟りの違い、修煉するかしないかの違いによって、今後永遠にその人と、子孫に対して禍か福をもたらすものであります。

麗しい本性に立ち戻って物事を行うなら、万事に欠け余りもなく多方面に和して成さざるものはありません。

物事が不明なのは、天性が明らかでないためであり、妙智慧の輝きがない故です。

人間界に生まれ、この肉体に霊気が流れて、「心」と変化してしまいます。

本より性・心・身は一体であり、この三つが組み合わされ始めて一個人の生命が成り立つのであります。

孟子様は「性は本善なり」と主張して「本性は相近づくものであるが、習性になると相遠ざかるものである。」といわれました。

官能の赴くままの心は後天的なもので、性命、すなわち霊魂は上天、老〇様(ラウム)の与え給うもので皆一様であります。

「天性」とは、「上天の与え給うた霊性」という意味で、人間を主宰し、絶対善的存在であり、純善無垢の透明体であり、一点の悪のまじり気もない姿であります。

ところが当初は遮ることのできない霊明な光彩があっても、天性が一旦肉体に流れ入りますと、喜怒哀楽を含む心と変じてしまいます。

心は身体の発達に従って、欲求の度合いが強くなってまいります。

眼・耳・鼻・舌・身・意が六根で、これが色・声・香・味・触・法という身外の物象に牽引され偏り、染まり、放蕩化してしまいます。

もともとの心は天性の使官であり、天性にかわって身体に発令し、正しい行動を左右するものであります。

つまり天性は本体であり、心はその用であります。

続く


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済渡の心構え 応用 六

2024-01-01 21:26:45 | 済渡の心構え

六、伝道は天授なる唯一の神職なりと自覚すべし。

凡事は本業に非ず。

伝法は慰安に非ず、趣味に非ず、片手間にあらず、定職なり。

一切衆生に賦与されし平等なる職責なり。

光栄なる職責なり。

光栄なる職名なり。

之を行使する者は久遠に栄え、之を放棄する人は永劫に亡ぶ。

続く


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性理題釋~四十八、天譴雷誅(てんけんらいちゅう)の誓い

2024-01-01 21:25:09 | 性理題釋

四八、天譴雷誅(てんけんらいちゅう)の誓い

俗言の五雷轟身(ごらいこうしん)という言葉を天譴雷誅といって、天の譴(とが)めを雷で罰する事を申したのでありますが、雷とは陽の鋼(鋼)であり、五雷とは天雷・地雷・陽雷・陰雷・法雷を申すのであります。

天雷が発すれば霾霧(ばいむ:危険性のある気象現象)が頓消し、地雷が発すれば万物が萠動(ぼうどう:草木が芽吹き始める)し、陽雷が発すれば邪気が殄滅(てんめつ:滅び絶えること)し、陰雷が発すれば群類が歛形(かんけい:引き締め集める)し、法雷が発すれば大道が昌明するのであります。

それは僅かに霹靂(へきれき:かみなり。いかずち)の一声を聞いてから、聾(ろう)と盲を開ける事が出来るので、ちょうど雷を受けたと同様に申したのであります。

即ち一身は五雷を具備(ぐび)せぬ事はありません。

羞(はじ)を含み憤(いきどおり)を逞(たくま)しくして耳を赤くし顔を真赤に熱するが如きは、天雷の発動と言わなければなりません。

行為が不正で、前に進もうと思っても進めぬのは、地雷の発動と申さなければならず、礼を越え分を犯して心胆に驚きと恐れを持つ事は、陽雷の発動に触れたと申すべきであります。

陰謀し暗で打算して坐しても臥しても安らかならざるは、陰雷の発動に触れたと申さなければなりません。

その他種々の不法に心思を乱し、夢の中で魂を顛倒(てんとう)して苦しむ事は法雷の激発と言えないでしょうか。

五雷の発動する際は、つまりちょうど理と慾の交戦している状態の時であり、その時にもし心を翻(ひるが)えして悔い改め、天雷を敬い畏(おそ)れるならば我が天門を開き、地雷を驚き恐れるならば我が地の戸を閉じ、陽雷を怕(おそ)れ慎むならば我が元気を保ち、陰雷を戒めるならば我が真精を固め、法雷を拳々(けんけん)とするならば我が神霊を鎮め輔(たす)けるのであるから、三宝(三花)が聚(あつ)まり五気が凝固(凝固)するので、和が本来の面目に還るのも容易であり、永く清静を享(う)けることが出来るのであります。

孔子様は故に風雷の変を作(おこ)し、周公は風雷の感を致したのもこのためであります。

もしそうしなければその精を揺(うご)かし、気を散らし、神を労して、その魄を奪い、その魂を驚かし、容貌はやせ衰えて疾病(疾病)が叢(むらが)り起こり、将(まさ)に死ぬ所も知らない訳であります。

続く


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24万年間在位していた8人のシュメール王の正体…人類史を覆す謎多き超古代文明で起こった驚愕の真実とは

2024-01-01 12:32:24 | 道を求める聖なる物語(人・日本・世・宇宙)

24万年間在位していた8人のシュメール王の正体…人類史を覆す謎多き超古代文明で起こった驚愕の真実とは


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