ニルヴァーナへの道

究極の悟りを求めて

岩井軽著「私が愛した「走る爆弾娘」菊池直子へのラブレター」を読む

2007-02-27 22:05:15 | カルト
「私が愛した「走る爆弾娘」菊池直子へのラブレター」岩井軽著(コアマガジン)は、1996年12月25日に発行されましたが、オウムという集団を考えるために非常に勉強になったと思います。この時期、元オウムサマナの本といえば、高橋英利さんの本ぐらいで、この岩井さんは、以前、オウム事件後、テレビにも出たことがあり、 何故オウムにひきつけられたのか、オウムのサマナとしての生活はいったいどんなものだったのか、などを知るために、多くの情報を提供してくれたと思います。この本は、現在、絶版になっているようですが、ネット上で販売しているところもあるようですし、ネットで古書を購入することもできますね。以下に、かつて、「オウム真理教をホーリスティック(全体論的)にとらえる」という掲示板に紹介した箇所を、ここに掲載します。いま、上祐氏が新しい団体を立ち上げることが話題になっているときに、この岩井さんの本は、現在サマナ、信徒の方たち、オウムに関心を持っている人たちに読んでもらいたいですねえ。そういう願いもこめての紹介です。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
岩井軽著「私が愛した「走る爆弾娘」菊池直子へのラブレター」(コアマガジン)第5章より、

僕が何故オウム歴七年をも数えたのか。

河島英伍の 「天びんばかり」 という歌に、「家の犬は鎖をつながれると、とても自由だ」という意味の節がある が、歌の本意は別としてこの逆説は先の問いのヒントとなろう。

表面だけを撫ぜるように通り過ぎていくかのような世俗的日常(終わり無き毎日)。そしてそれは生きることに対す る根源的な問いすら拒みさえする。そのような状況において、自分自身の存在位置を絶対的な尺度(=鎖)によって 確認できることは、僕にとってある意味でとても幸福なことだった。

しかし、僕はその鎖を引っ張られるのを嫌った。何故なら自己の存在位置を確認する尺度としてのみ、それを必要 としていたからだ。だからこそその鎖は長ければ長い程、緩やかであればあるほど都合が良かった。

そもそも僕は七年間にも及ぶ信徒生活において、何かを達成しようという意志をほとんど抱いたことはなかった。 もちろん建前上、「解脱、悟りを目指します」とか、「全力で救済します」 と発言し、自分自身そう思い込もうとしたこ ともあった。しかし、それは所詮本来の自分にそぐわないものだった。

出家を決意したのも、確たる目標があったわけではなかった。「このまま現世にいても全く意味がないし、どうせハ ルマゲドンが来るんなら・・・・・・」 みたいな極めて消極的な選択だった。

だから僕の信徒生活は、求心力で引っ張ろうとする教団と、遠心力で逃げようとする自分との綱引きの連続だっ た。まさにそれは葛藤と自己矛盾、そして居直りの日々だった。

僕はこれまで三つのスタンダード(基準) を使い分けてきた。

一つは市民社会を拠り所とする生活者としての意識。

二つめは、自己の内側に本当のものを見出そうとする宗教者としての意識。

三つめは、自分という 「主体」 は幻であり、自分という 「主体」 の集合体である社会もまた幻である。したがっ て、この社会におけるいかなる自己主張も無意味であると考えるニヒリストとしての意識。

これら相矛盾する三つの意識をTPOと気分に応じて使い分ける、あるいはこれらの組み合わせによって中間的な 選択をするのが僕のスタイルである。逆に言えば、これら三つのうちいずれにしても完全に吸収されることはないの である。

僕は一部のオウム信者のように、生活者としての意識の規範である市民社会の論理を否定するものではない。む しろ、それは尊重されるべきものであると考えてる。

ここで、地下鉄サリン事件を例に挙げよう。

もし純粋に宗教者としての意識でこの事件を捉えた場合どうであろうか。ヴァジラヤーナの教義には、人々を覚醒 させるためには暴力的手段も辞さないという考え方がある。

もし事件で犠牲になった人達の魂が、彼らが本来転生すべき世界よりも高い世界へ、麻原教祖によってポアされ たのだと、諸々の事実を度外視して信じきることができるなら、地下鉄にサリンを撒いたという行為は肯定されること になる。

またニヒリストの意識で捉えるならどうだろう。「自分」 というものは実体がなく、社会という枠組みは、そこから逃 走しようとする変化のみを本質とする 「自分」 にとって不都合なものでしかないならば、虚無の日常を脱却するた めに、地下鉄にサリンを撒いたところで何の問題もないということになる。

しかし、僕はいかなるテロも肯定するわけにはいかない。それは生活者としての感情が許さないのだ。

犠牲者やその遺族の方々に対する同情の念はもちろんのこと、僕が単に寓話として捉えていたドグマの内容を、 実際に行動に移してしまったという過剰さに対して、非常にグロテスクなものを感じてしまうのだ。

某ビール会社CMのコピー流に言うと、地下鉄サリン事件は 「ほんまにやってどないすんねん」 という感じであ る。

しかしながら、僕は市民社会の論理の限界と一貫性の問題を見過ごすわけにはいかない。

まず第一に、市民社会の論理は 「主体」 と 「存在」、「認識」 と 「客体」、「及び 「生」 と 「死」 という人間 の最も根源的な問題をカバーするものではない。

また 「人命尊重」 という市民社会における最も重大なテーゼにおいてすら、論理的一貫性は見られない。

例えば法律を市民社会のコンセンサスと見なすなら、日本では条件によっては五ヶ月未満の胎児は殺してもいい ことになっている。それならば、満四ヶ月の胎児と満五ヶ月の胎児の本質的な違いは一体どこにあるのか。
 
その他にも、死刑や安楽死の問題など原則論では割り切れないことが多い。市民社会においては、全体の幸福 の総和という観点から原則論が大幅に制限されている。

しかも、その幸福とは何なのかという基準も極めて曖昧である。

ここに、僕が市民社会の論理とは全く別のスタンダード(基準) を必要とする理由があるのだ。それはまだ、未だ に多くの信者が教団から離れようとしない理由である。

ここで断っておきたいのだが、僕は最早、オウム真理教という組織を肯定しないし、麻原教祖を真のグルであると も認めない。

オウムの教義は他から借りてきた物である。

しかも、それは原始仏教やチベット密教を出自としており、かなり高度に消化している。だからこそ、いずれの既 成宗教も、オウムの教義に深く立ち入って、その矛盾を検証できないのであり、またあれだけの知的エリート達を非 合法活動に動員するだけのパワーを麻原オウムは持ち得たのである。

したがって、僕はオウム真理教で仏教を学んだと考えている。

もちろんグルイズムの解釈その他において、新たな疑問が生じていることは確かだし、今後の課題として改めて検 証していかなくてはならない。けれども僕は、あくまで宗教的な立場を仏教におくものであるが、そのバックボーンが オウムで学んだものであるとしても、基本的に不都合はないと思っている。

何故なら再度強調するがオウムの教義は借り物だからだ。

さて、仏教は市民社会の論理のアンチテーゼとしてそのニーズを満たすのだろうか。

まず市民社会の論理が二元論に立脚しているのに対し、仏教は一元の世界観と宇宙の霊的ヒエラルヒー構造を 提起することによって、先の「主体」 と 「存在」、「認識」 と 「客体」、及び「生」 と 「死」 という人間の根源的な 問題に対して解答を与えている。

また仏教の説く 「宇宙の多重性」 は、現代物理学における波動力学やビッグバン理論とも呼応している。

さらに仏教における 「殺生の戒」 を例にとって、論理的一貫性という観点から市民社会の論理と比較してみよ う。

ヒナヤーナ(小乗)及びマハーヤーナ(大乗)においてはいかなる殺生も否定される。もちろん現実生活において、 小さな虫はおろか細菌の類まで殺さないということは不可能である。

しかしこれについては次のように説明される。

もともと人間の世界は、欲六界のたかだか下から四番目に位置し、動物と時空を共有している。これは人間のカル マの限界であり、それ故に、動物を殺生しなければ生きていけない状況が生じている。もしその状況に甘んじて、殺 生を肯定して生きるなら、そのカルマによって未来際においてさらに悲痛へと至るだろう。もし極力殺生を慎み、全て の生き物に慈しみの心を持って接するなら、やがて未来際において殺生のない平安な世界に生まれ変わるだろう、 というのである。

では、ヴァジラヤーナ(金剛乗)はどうか。ヴァジラヤーナにおいては、個体の死を次の生へと至るトランスフォーム 転換)の契機として捉える。したがって、ここに相手のカルマを見極めることのできる聖者がいて、その相手が大悪 業を積もうとしているのを予見した場合、彼が本来行くべき世界よりも、高い世界へ引き上げる(ポアする)ために彼 を殺すことは肯定されるのである。

その際、ポアした本人は、殺生のカルマと相手のカルマを引き受けなければならない。ただし、ヴァジラヤーナにお いても、殺生を肯定しうる場面は極めて限定されており、一連のオウム真理教による凶悪犯罪はその条件を満たし ていないことは明らかである。

このように、ヒナヤーナ、マハーヤーナにおいては殺生は否定され、ヴァジラヤーナにおいては条件によって肯定 される。これは一見矛盾するようだが、この三乗に一貫して存在するのは 「愛」 である。

この愛の概念も、曖昧な社会通念のそれとはかなり異なる。仏教における愛の定義は、無為に相手に苦しみを与 えないこと。そしてさらに、相手の魂を成熟させ、「より高い世界・より光の強い世界」 に導くことである。

すなわち、三乗における差異はアプローチの仕方が違うだけのことだ。

このように、僕の考えでは論理的一貫性という観点に立つなら、仏教の市民社会の論理に対する優越性は揺るぎ ないのである。

ただヒナヤーナ、マハーヤーナは問題ないとしても、ヴァジラヤーナにおけるグルイズムを肯定した場合、果たして グルの真価を、基本的に凡夫である弟子が、一体どうやって判断したらいいのか、という問題が残る。オウムが引 き起こした一連の悲劇も全てこの問題に起因する。

「私が愛した「走る爆弾娘」菊池直子へのラブレター」岩井軽著(コアマガジン)より

■岩井軽氏プロフィール
大阪府生まれ。1990年5月オウム真理教に出家。その直前、菊地直子と共同生活を営む。その後、ニューヨーク生活などを経て、1995年秋、脱会。

森 達也氏の連載「A3 麻原彰晃への新しい視点」

2007-02-24 20:08:20 | カルト
月刊プレイボーイ4月号の森 達也氏の連載第27回「A3 麻原彰晃への新しい視点 」で森氏はマハームドラーについて述べていた。読む記事は、森氏の連載ぐらいなので、立ち読みしてきた。
森氏は、地下鉄サリン事件の実行犯、林泰男、広瀬健一や、早川紀代秀などと手紙のやりとりをしているそうで、今回は、広瀬の手紙の一部の紹介をしていた。広瀬によると、事件の根本的な原因に、オウムのタントラヴァジラヤーナの教義があり、現代人は悪業を積みすぎているので、そのままでは来世は三悪趣へ落ちることは間違いないので、救済のために、相手のカルマを自分に引き受けて、相手が三悪趣に落ちることを防ぐために、相手をポアしてあげるのだというのが、このオウムの独特のヴァジラヤーナの考え方であり、それを自分たちも信じて、地下鉄にサリンを撒いたのだ、というのだ。まあ、なんとも、勝手な理屈だが、かつて、こんな妄想を信じていた人間がいたのだということは記憶しておくべきだろう。
それにしても、事件の実行者が述べているだけに真実味がある。森氏に対して批判めいた言葉を発している人を時々見かけるが、プレイボーイ誌上で、森氏がやりとりしている事件の実行者の手紙を紹介しながら、事件の原因を様々な視点から考察していっていることは、やはり、評価しなければならないと思う。オウム事件に関して、非常に価値のある仕事をされていると思う。素直に、聖称賛しなくっちゃね(笑)。
森氏はこの広瀬の手紙を紹介しながら、このヴァジラヤーナの教義と、もう一つのオウム独特の教義であるマハームドラーという教義が、車の両輪になって凶悪事件を起こしていったのだろうと分析する。そして、この両輪のうち、試練としてのマハームドラーのほうが比重が高かったのではないかと分析している。今後のオウムの行方としては、麻原がああいう状況だから、もうタントラヴァジラヤーナが発動することはないだろうが、マハームドラーのほうは、教祖が死刑になっても、教祖を信じている者にとっては、永久にマハームドラーがかかった状態になるのではないかと危惧する。
まあ、ここらへんになると、どうなのかなと思うが(笑)、信じたい人は、永遠に信じればいいのではないかとも思う。副島隆彦氏も述べていたが、それが信仰というものだろう。

洗脳を解く「新無効論概説・問答編」

2007-02-22 14:04:38 | 東京裁判
【新無効論】講和条約説 「日本国憲法」は憲法として無効です!というブログは非常に分かりやすいですね。
新無効論概説・問答編を転載させてもらいます。
やっぱり国民の洗脳を解くのは、明快な理論です。
この南出弁護士の論理には、洗脳を解く「明快な理論」があります。

http://inosisi80.iza.ne.jp/blog/

新無効論概説・問答編


●そろそろ「日本国憲法」の憲法としての無効確認をしなきゃね。

▲無効にするってなんでそんな必要があるんだよ。

●無効にするんじゃないって、無効であることを確認するんだよ。

▲だからー、無効にするんでしょ?

●「~にする」と「~である」とはちがうでしょ。

▲あ、そうなのか。

●そうだよ。「日本国憲法」は「無効である」から無効確認をするのです。「日本国憲法」を「無効にする」のではありません。

▲なんか、細かいこといってるね。

●だからね、「日本国憲法」は憲法として無効なんだよ。「無効である」状態なんだよ。
▲ん?なーんで?有効じゃん。効いてるじゃん。

●帝国憲法75条違反 と議会審議等立法行為中に日本側の自由意思がまったくなかったから 。法理論 と事実論 と両方からアウトなんだよ。

効いてるって?実効性だけでは有効とは言わないんだよ。

それを無効な憲法がまかりとおると言うんだよ。

実効性+妥当性の両面がそろってはじめて「有効」。

▲そしたら「日本国憲法」が無効だとして、今の法秩序はどうしてくれるの?
●ちがうよ。「日本国憲法」が無効だなんて言ってないさ。「日本国憲法」は憲法として無効だと言ってるんだよ。
「日本国憲法」は有効だけど、憲法としては無効なんだよ。

▲えーっと??わけわからんわ。じゃ、じゃ、現在「日本国憲法」はなんなのさ?どういう意味で有効なの?
●講和条約だよ。これは憲法として無効という意味と両立するんだよ。
▲講和条約なんて「日本国憲法」に書いてないじゃん。公布も憲法としてされているじゃない?
●そりゃそうだよ。そのようにすることが合意の内容、つまり講和という合意の内容だったんだから。
「無効規範の転換と追認」の法律論理を援用しているからね。

▲なにそれ???言ってることがわからん。
●無効な地上権設定契約を賃貸契約に転換するケースがある。当事者の実際の行為内容の実体が地上権設定行為としての瑕疵(キズ)が大きくて無効としかあつかえないけど、見方、レベルを変えて賃貸つまり賃借権設定行為としてなら有効とみることが出来るだけの事実内容がそろっている場合などに使える論理だよ。
ことの原因は「日本国憲法」が憲法としては絶対に無効だということから始まってるの。
存在根拠となる改正もとの帝国憲法に違反していればどう考えても絶対に憲法としては無効であるとするしかないでしょ。
だからといって「日本国憲法」が無効で現実社会の法的安定が保てなければ国民は困るでしょ。
でも憲法としては絶対に法理論から言って有効にすることは不可能。
で、参考になるのが憲法有効論の一種に追認説や法定追認説ってあるでしょ。あれの応用版だよ。
ちがうのは「憲法として追認したとできないのか?」という保身の必要な憲法業者独特の考察の仕方をやめて「憲法以外の他の種類の規範でもいいから有効と出来ないのか?」「実施された事実を素朴にみて規範として認定できるだけの行為の実体は本当になかったのだろうか」「ちょっとまって、講和条約なら転換できる のじゃない?」って発想、少しだけ発展させたもの。
規範が誕生する方式には
1、議会審議による憲法や法律の制定があるでしょ。
2、行政機関などが出す命令ってのもある。
3、複数当事者の合意による場合の契約や条約や講和条約もある。
「日本国憲法」の場合「押し付け憲法」と俗称されるとおり実は行為の当事者が複数・・・・

▲ああああ、ちょっとちょっと、そういえば、政府も帝国議会審議も形式だけやったことになってるだけで実質は占領軍との交渉による合意によって生まれていたようだから、条約や講和条約への転換はなじみそうだね。転換のための事実もそろっているかもよ。そういえば、その後の解釈運用も国際環境、連合国、特に米国の出方に左右されているものね。

●そうだよ。追認で憲法として有効とすることは帝国憲法75条違反を有効とあつかうことになり帝国憲法の自己否定になるけど、講和条約として有効、帝国憲法の下位の規範として有効とみるだけなら帝国憲法75条違反ではないからね。
ほらね、このようにね、最初から講和条約の要件がそろっているから講和条約として成立しているとみているのじゃなくて、あくまで憲法として無効な「日本国憲法」を救済するところ、国民生活の実際の法的安定にも資するための法律論の援用なんだよね。 ところが、 事実側、実は平成7年にようやく秘密にされてきた議事録、実際に改正審議を担った帝国議会内小委員会の議事録が公開されるなど成立過程が明らかになればなるほど議会審議に実体がなく逆に交渉の結果に対応して審議意見を出したり引っ込めたりしていることが判明してきているので法律論の援用というよりも実体そのものといえるほどのものとなってきているのだよ。効

▲なるほど、そういう理由で「新無効論」は、憲法として無効、 講和条約として有効の確認決議をするべき、 やってもなんら社会混乱なんて起こらない、 という主張になるわけだね。その構想ならまったく過激ではない理論ね。

●それにね。実際には戦争は昭和27年4月28日に法的に終結しているわけだけど、そこに至る連合国との手続きってのがあるでしょ。

まず、ポツダム宣言の受諾~降伏文書調印、これって帝国憲法上の行為なんだけどどの権限に基づいているか考えたことある?

▲たしか戦争の条項が帝国憲法にあった・・・・・よね?

●そうだよ。宣戦布告による戦争の開始権限、講和という戦争の終結手続きの権限、それに平常時の条約締結の権限、それら3つをまとめてひとつの条文、13条に「天皇ハ戰ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ條約ヲ締結ス」ってのがあるね。
つまり、ポツダム宣言の受諾も降伏文書の調印もこの13条の講和の権限(講和大権)による国際法上の行為で、さらにはサンフランシスコ講和条約の締結権限もこの13条に求めるしかないんだよ。

昭和20年8月から昭和27年4月28日まで、ずっと戦争を終結させるために相手国と合意しながらの独立回復を目指した条件整備をやっていた期間で、これらは講和大権の連続発動の結果だったんだよ。

講和といえば最終のサンフランシスコ講和条約だけにみえるかもしれないが、「戦争を終結させるための合意」の根拠が13条であるという見方をすればポツダム宣言の受諾からサ講和までの数々の合意、法律行為も事実行為も含めた国家間の合意がこの13条の権限に基づく講和条約群だとわかる。
つまり「日本国憲法」もこの権限に基づく連合国と日本国との合意つまり時期的には中間段階に位置する講和条約だと評価できる実体があるんだよ。
そして独立回復を目指したこの合意は我国が自覚的であれば独立回復時にチャラになっているはずなのだが逆に追認してしまっている状態なんだな。

▲なるほど、帝国憲法13条の講和大権にもとづく「日本国憲法」という名称の講和条約が、戦後空間にまで引き伸ばし継続されていると考えるんだね。

●そうだよ。この論理が広がらないのは、憲法学者が自分の保身と営業の為に「日本国憲法」を憲法として有効にしなければならないという私的な制限と業界利権に縛られているからなんだよ。

無効論と名のつく論理にはレッテルを貼って無効論はクーデターでも起こさないと無理とか、50年以上続けてきた法秩序を全て無にしてしまうことになる暴論だなどと私的動機から国民を錯覚に陥れて強迫観念をうえつけているんだよ。

憲法業者の営業のために政治家も国民も踊らされているわけさ。迷惑な話だね。

一般的には、破棄論も廃止論も無効論もあまり論理の区別がつかないからね。名前だけで過激に聞こえるからね。
ところで憲法学者が一番やりたいことは何かといえば、自己の業界の地盤、商売道具の効力を強固に安定させたいということ。

つまり憲法を法理論上有効にできない今となっては代りに国民を共犯者にすることだよ。

国民を共犯者にする一番てっとりばやい方法は、敵は護憲派だということにして9条だけでも改正条項を使って変えさせること、そうすれば、日本史上ここで初めて国民が「日本国憲法」に関与したことになるよね。

「日本国憲法」を憲法として扱うという帝国憲法破りの真の戦争犯罪行為者の地位を憲法業界だけでなく国民とともに共有できるってわけだね。

我国では業界利益のために正統憲法の破壊を率先してやっている法匪が憲法学者を名乗っているんだよね。くだらないでしょ。
▲ふーん。よごれてるね。



英語でインド哲学を学ぶ(3)

2007-02-20 18:50:35 | 英語

samsara (輪廻転生)
In Buddhism and Hinduism, the endless round of birth, death, and rebirth to which all conditioned beings are subject.


仏教やヒンドゥー教において、すべての条件付けられた生き物が支配下に置かれている、終わりのない、誕生、死、そして再生の連続。

Samsara is conceived as having no perceptible beginning or end. The particulars of an individual's wanderings in samsara are determined by karma. In Hinduism, moksha is release from samsara. In Buddhism, samsara is transcended by the attainment of nirvana. The range of samsara stretches from the lowliest insect (sometimes the vegetable and mineral kingdoms are included) to Brahma, the highest of the gods, for they also are involved in transmigration.


輪廻転生は、認知できる始まりも終わりもないと考えられている。サムサーラの中にいる個人の転生先はカルマによって決定される。ヒンドゥー教においては、モクシャがサムサーラからの解放である。仏教においては、ニルヴァーナの達成によってサムサーラは超越される。輪廻転生の範囲は、最も低い昆虫(時には植物界や鉱物界も含まれることがある)から神々の中で最高のブラフマーまでである。というのは、神々も又輪廻の中にいるからである。
http://www.britannica.com/ebc/article-9377626
【文法・語彙】
be subject to:~の支配下にある、~に服従する
particularは、[複数形で] (事の)詳細, てんまつ, 明細 〔of〕という意味がありますから、私はここでは「転生先」と訳しました。
wanderingは、[複数形で] 散歩, 放浪, 遍歴, 漫遊.

”the endless round of birth, death, and rebirth to which all conditioned beings are subject.” この文の関係代名詞whichの先行詞は、その直前のrebirthではなく、”the endless round of birth, death, and rebirth” ですね。案外間違いやすいところですから、気をつけたいものです。whichが何を受けるかは自由度が高く、必ずしも、代名詞・名詞とは限らず、この場合は内容で考える必要があるというわけです。関係代名詞をなくしてしまうと、In Buddhism and Hinduism,   all conditioned beings are subject to the endless round of birth, death, and rebirth. という文章になりますね。「仏教やヒンドゥー教において、すべての条件付けられた生き物は、終わりのない、誕生、死、そして再生の連続という制約の下にいるのである。」という意味になるのでしょうか。そして、仏教やヒンドゥー教の目的は、この輪廻からの脱出、解放を目指すものであり、自分の存在が条件付けられなくなったときが、モークシャでありニルヴァーナということなのですね。さあ、エウアンゲリオンテスバシレイアスをお聞きになっている視聴者の皆さん、じゃあないですね(笑)。
このブログを読んでおられる皆さん、わたしたちも、輪廻からの解放を目指そうではありませんか。私はエウアンゲリオンテスバシレイアスという放送を視聴したことが、インド哲学に関心を持つきっかけになりましたから、この放送が占める部分は、私の人生においては、非常に大きいのです。


英語の達人からのアドバイス(2)

2007-02-18 23:26:03 | 英語
英語ほど手っとり早いものはない

 したがって私が結論としてくりかえしたい点は、情報化時代においてはみずからを情報化できる民族のみが存続しうるのだということ、そしてそういう情報化能力の必要性を日本人が認識し、それを意識的に涵養してゆくことこそが、日本にとって最大の安全褒章であるということです。そのためには、いうまでもなく、国際語としての英語の運用能力がどうしても強く求められています。
 安全保障とは、何も戦闘機や潜水艦の保有量をふやすことではありません。それ以上に、みずからの意図を世界の人々に対してはっきりわかるような形で説明しうる能力をもつことが、より大きな安全保障であるということができるのです。
 
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

これは、「英語の話し方ーー国際英語のすすめーー」という、かつてベストセラーになって、現代において、日本人が英語を学ぶとはいかなる意味を持っているのか、という英語学習の根本的な意義を問うた、「英語の神様」とかつて称された国弘正雄先生の本からの引用です。
この本は、日本人の英語を学ぶ姿勢に大きなインパクトを与えたと思いますし、現在においても、国弘先生の提唱された国際英語という概念は大きな影響を及ぼしていると思っています。
かつて、コソヴォ紛争の時に、CNNやフォックスニュースで、アルバニア系の人たちとセルビア系の人たちが、自分たちこそ正しいのだと自分たちの言い分を世界の視聴者に知ってもらうべく、それぞれの国の訛りをもった英語で、喧々諤々と闘論していました。こういうときに重要なのは、少々ブロークンでも、いかなるメッセージがその発言に含まれているのか、ということですね。
今、日本には、歴史認識において、世界中に間違った情報が垂れ流されている状況をどのようにしてただしていくのかという重い課題が課せられている。かつて、西尾幹二氏は、21世紀においては、どのような歴史認識を持つのかによって、国益が左右されるだろうと語っていましたが、いま、それが現実のものとなろうとしている。この間違った認識を何とかしてただしていく必要があると思っていますが、かなり苦しいです(苦笑)。

英語でインド哲学を学ぶ(2)

2007-02-18 07:04:21 | 英語

Brahman(ブラフマン)

In the Upanishads, the eternal, infinite, and omnipresent spiritual source of the finite and changing universe.

ウパニシャッドにおいて、有限で変化する宇宙の、永遠で、無限で、偏在する精神的源泉。

The schools of Vedanta differ in interpreting Brahman. According to the Advaita school , Brahman is categorically different from anything phenomenal, and human perceptions of differentiation are illusively projected on this realty. The Bhedabheda school maintains that Brahman is not different from the world it produces. The Visistadvaita school holds that phenomenality is a glorious manifestation of Brahman. The Dvaita school maintains that both soul and matter are separate from and dependent on Brahman.


ヴェーダーンタ各学派によって、ブラフマンの解釈はそれぞれ異なる。アドヴァイタ(不二一元論)学派によれば、ブラフマンは、いかなる現象とも絶対的に異なり、人間の差別化する認識が錯誤的にこの現実の上に投影されている。
ベーダアベーダ(差別無差別)学派は、ブラフマンと、ブラフマンが創った現象世界は異なるものではない、と主張する。
ヴィシシュタアドヴァイタ(制限不二論)学派は現象世界をブラフマンの光輝ある顕現だと考える。
ドヴァイタ(二元論)学派は魂と物質は両方ともブラフマンから分離しており、そして、ブラフマンに依存していると主張する。
http://concise.britannica.com/ebc/article-9357909/Brahman


インド哲学の主流であるヴェーダーンタ学派の二千年以上にわたる歴史を通して、中心問題であったブラフマンについて、この短い解説では、なかなか分かりつらいと思いますので、より詳しく理解していこうと思ったらやはりインド哲学の本で学んでいくのがいいのではないかと思います。立川武蔵著「はじめてのインド哲学」(講談社現代新書)、前田専学著「インド哲学へのいざない」(NHKライブラリー)などは非常分かりやすい参考書だと思います。私も、これらの本は座右の書にして、この日本語訳をしています。訳していくなかで、自分のあいまいな箇所がわかってくるので、訳すのは知識を整理するのに非常にいいですね。



英語の達人からのアドバイス(1)

2007-02-17 05:00:46 | 英語
「知的生活の方法」の著者であり、英語学の研究者である、上智大学名誉教授の渡部昇一先生は、元NHKテレビ英語会話上級講師松本道弘先生との対談「英語の学び方」で、次のように述べている。

「英語を読む根本は、ボキャブラリーだということを、ぼくはもっと早く気つくべきだった。ぼくはボキャブラリーを甘く見ていた。考えてみたら、日本ではボキャブラリーは大学入試以来意識に上らないのですよ。大学入試までは、単語を知らなきゃ入試問題ができないから憶える。大学に入っちゃうと、知らない単語はいつでも引けるという感じなんです。先生自身も、単語はいつでも引けるものと教えるんです。 ところが、土壇場になると単語力なんだね。タイムは知らない単語がドタドタ出たらもう読めない。長い単語が考えるひまなくわかるぐらいでないといけない。」

英語力とは何か、といえば、やはり語彙力だ、ということなのでしょう。国語力のある人というのは、やはり語彙の豊富な人ですよね。このブログでも、この渡部先生のアドバイスを肝に銘じながら、英語の語彙の増強をはかっていきたいと思っています。

英語でインド哲学を学ぶ(1)

2007-02-16 03:35:30 | 英語
上祐さんのところで、インド哲学を説法されているようなので、それに刺激を受けて(笑)、インド哲学の基本的な思想を、ブリタニカのサイトを利用させてもらいながら、学んでいきたいと思います。コンサイスの解説は無料で読めますので、それをここに訳していきますので、英語と一緒にインド哲学の基本を理解するための参考になればと思っています。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

atman(アートマン) (Sanskrit: “breath” or “self”)
Basic concept in Hindu philosophy, describing that eternal core of the
personality that survives death and transmigrates to a new life or is
released from the bonds of existence.

(サンスクリット:気息又は自己)ヒンドゥー哲学における基本的な概念であるアートマンは、死後も存続し新しい生命へと転生するかあるいは存在の束縛から解き放たれる人間の内なる不滅の核である。

Atman became a central philosophical concept in the Upanishads. It
underlies all aspects of personality, as Brahman underlies the working
of the universe. The schools of Samkhya, Yoga, and Vedanta are
particularly concerned with atman.

アートマンはウパニシャッドにおいて中心的な哲学上の概念となった。ブラフマンが宇宙の働きの根源であるように、アートマンは人間のすべての側面の根源である。サーンキヤ学派、ヨーガ学派、ヴェーダーンタ学派の諸学派は特にアートマンという概念に関心を持っている。

http://concise.britannica.com/ebc/article-9356072/atman



【語彙】今回は、transmigrateという単語に注目してみよう。移動、移住する、転生する、などの意味がある。名詞は、transmigration:輪廻転生、移住である。
このtransは、AからBへの移動、あるいは、Aという状態からBという状態への移行などを表す接頭語です。migrateは移動する意味ですので、transmigrateは、移住する、転生などの意味になるのが分かる。 それでは、このさい、transという接頭語を持つ単語を、覚えてしまおう。

transform:変形する
transplant:移植する
transfer:移す、転任させる
transgress:違反する
transmit:伝える、送る
transport:輸送する、流刑に処する
transact:取引する
transcend:超越する
transient:はかない、一時の
transit:通過、通行
transparent:透明な、分かりやすい
translucent:半透明な
transpose:入れ替える
transfuse:注ぎ移す、輸血する

日本建国の理想

2007-02-12 20:28:48 | 歴史
建国記念の日は、やはり、どこかで、同じ思いを持つ人たちと一緒に祝いたい気持ちを抑えることができないので、毎年、この日は、日本会議が開催する奉祝行事に参加することにしている。
毎年参加して感じるのだが、若い人が少ない、ということです(笑)。
本当に、老人が多い、という印象を毎年受けるのです。
まあ、日本は急速に高齢化社会になっているのだから、別に、高齢の人が多いからといって驚くこともないと思うですが、それにしても、ちょっと、老人の人が多いなあ、これから、日本は大丈夫なのだろうか、と一抹の不安も起こってきます。
まあ、それはともかく、「建国記念の日」の意義とは何なのでしょうか。
私は、なぜ、この日本という国がこの地球という惑星に存在するのかという意味を確認するためだと思っています。
では、日本という国が存在することの意味、意義、とは何なのか。

私は、高校生の時に、生長の家の練成会を受けて、講師の方々の熱烈な愛国の講義を受けたり、創始者の谷口雅春先生の愛国の書を読んで、大きな影響を受けました。三島由紀夫がかつて、十代の頃に感銘を受けた教育に帰郷(ハイムケール)していくと語っていましたが、私にとっても、高校時代に学んだ谷口雅春先生の教えが、魂の故郷だな、と最近ますます痛感するようになってきました。

谷口雅春先生は「君民同治の神示」で、

「人間生命が神より生まれたる神聖なるものであるという自覚がその外延であるところの国をも神より生まれたる国であるとの神聖性を要求するのである。この要求が神によってその国が造られたのであるとの神話を創造するのである。」

と述べられていますが、この自己の神聖性の無意識的自覚の集合である民族的無意識が日本神話を生んだのではないかなと思っています。これはユングの集合的無意識の理論からヒントを得たのですが・・・・・。

日本書紀曰く、

「上(かみ)は即ち乾霊(あまつかみ)の国を授けたまう徳(うつくしび)に答え、下(しも)は皇孫(すめみま)、正しきを養いたまう心(みこころ)を弘めん。然(しか)して後に六合(りくごう)を兼ねて以て都を開き、八紘(あめのした)をおおいて宇(いえ)と為(せ)んこと、亦可(よ)からずや。」

谷口師はこの箇所を解釈して次のように述べられる。
「天皇はその国を私有のものとみられないで、天の大神より国を授けられ、それを治めるように預けられたものであるという敬虔なお気持ちがあらわれているのであって、武力で先住民族を征服して国土を奪取したというような考えが微塵もないことに注目しなければならいのである。・・・・・
「下(しも)は皇孫(すめみま)、正しきを養いたまう心(みこころ)を弘めん。」というお言葉は、キリストの「先ず神の国と神の義(ただしき)を求めよ。その余のものは汝らに加えらるべし」という教訓とまったく同じ精神なのである。神の国の正義を自己の内に養い、修養して、よろこべば喜び来るの原理にしたがって、慶び積み、心を明るくして神の光を自己に受信し得る波長を心に起こすのである。そうすると、自然に「その余のことは汝らに加えらるべし」である。だから、「然(しか)して後に六合(りくごう)を兼ねて以て都を開き、八紘(あめのした)をおおいて宇(いえ)と為(なさ)ん」であって、「この然(しか)して後に」の語には千鈞の重みがあるのである。暴力や詭計や武力を背景としての強制力によってかくならしめるというのではなく、神の国の秩序であるところの「正しきを養い、慶びを積み、ひかりを重ねて」来たならば、自然に実相が顕現してそのようになるというのが「しかして後に」であるのである。
 したがって、「しかして後に」来るところの、「然(しか)して後に六合(りくごう)を兼ねて以て都を開き、八紘(あめのした)をおおいて宇(いえ)と為(なさ)ん」ということは決して侵略精神ではにのである。・・・・・六合(りくごう)とは天地四方であり、あらゆる方角の国々にもそれぞれ独立国としての都は現存するけれども、更にそれを総合する世界連邦政府の都を兼ねて開くというのであって、神武天皇の時代にこのような世界連邦の構想を建国の理想に掲げられたことは、神武天皇の霊感の素晴らしさを物語るものである。そしてそれが世界連邦の構想であるということが解れば、「八紘為宇(はっこういう)」ということも決して侵略精神ではないことが理解できるのである。元来、紘とは冠の紐のことである。「紐」は「緒」ともいうのであるが、「緒」は「玉の緒」すなわち「魂」をあらわすのであり、お公卿さんがかむる冠の緒を顎の下で一つに結び合わすように、世界各国各民族の魂を仲よく結び合わせて、それを一つの家庭の如くするというのである。」

私も、この谷口雅春先生の神話解釈に同感である。
私は、日本の歴史とは、つまるところ、この神武建国の国家理想というものを実現させるべく歩んできた、追求の過程だと思う。日本民族の最も深奥の、比較しがたい、個性的存在になろうという欲求こそ、ユング心理学のいう個性化の過程であり、日本の歴史を動かしてきた原動力だと思う。そういう視点から、日本の歴史を眺めてみると、なぜアジア民族解放のための大東亜戦争を闘わなければならなかったか、より深い意義が理解できてくるのではないだろうか。そして、今後の日本の使命というものの方向性も見えてくるのではないだろうか。渡部昇一さんは、イギリスの歴史家オーウェン・バーフィールドの言葉を借りて、民族の歴史とはそれぞれの民族の虹(理想)を描いたものであると語っているが、日本の歴史もまさに、試行錯誤を述べながらも、日本の理想を描いたものでなければならないと思う。


それでは、御皇室の弥栄と日本国の隆昌を祈念して、
アインシュタインが語ったと言われている(最近、別の人間が語ったという説が有力になっているが)予言を、掲載させてもらいます。
この予言はいろんな人の琴線に触れるのか、ほうぼうで、よく引用されています。

「近代日本の発達ほど 世界を驚かしたものはない
この驚異的な発展には 他の国と異なる何もかがなくてはならない
果たせるからこの国の 三千年の歴史がそれであった
この長い歴史を通して 一系の天皇をいただいているということが
今日の日本をあらせしめたのである
私はこのような尊い国が 世界に一ヶ所位なくてはならないと考えていた
なぜなら世界の未来は進むだけ進み
その間幾度か戦いは繰り返されて 最後には戦いに疲れる時がくる
その時人類はまことの平和を求めて 世界的な盟主を挙げねばならない
この世界の盟主なるものは 武力や金力ではなく
あらゆる国の歴史を抜き越えた 最も古くまた尊い家柄でなくてはならぬ
世界の文化はアジアに始まって アジアに帰る
それはアジアの高峰 日本に立ち戻らねばならない
我々は神に感謝する
我々に日本という尊い国を 作っておいてくれたことを・・・・・」

建国記念の日に三島由紀夫の文章を味わいながら日本を考える

2007-02-12 14:26:30 | 三島由紀夫
建国記念の日のこの時期に、三島由紀夫の「豊饒の海」第三巻「暁の寺」第二章の中の、本多の「純潔な日本とは何だらうといふ省察」を読みながら、「純粋な日本」とは何か、考えてみるのもいいのではないかと思って、掲載させてもらいます。
この箇所は三島由紀夫の考え方が顕れていて、好きなところです。
あと、仏教の大きな流れを分かりやすく、簡潔に書いていますが、小室直樹さんが三島由紀夫の仏教理解を絶賛しているのもなるほどと思います。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
(前略)
物事の起こり具合を、本多の年齢は、もはや手に入れた幾多の法則の一つにあてはめて、その尺 度で以て読むことができた。天変地変は別として、歴史的生起といふものは、どんなに不意打ちに 見える事柄であつても、実はその前に永い逡巡、いはば愛を受け容れる前の娘のやうな、気の進ま ぬ気配を伴ふのである。こちらの望みにすぐさま応へ、こちらの好みの速度で近づいてくる事柄に は、必ず作り物の匂ひがあつたから、自分の行動を歴史的法則に委ねようとするなら、よろづに気 の進まぬ態度を持するのが一番だつた。欲するものが何一つ手に入らず、意志が悉く無効にをはる 例を、本多はたくさん見すぎていた。ほしがらなければ手に入るものが、欲するが為に手に入らな くなつてしまふのだ。すべては自分の欲求、自分の意志だけにかかつているやうにみえる自殺すら、 勲はそれを完璧に仕遂げるために、一年も獄中で待たねばならなかつた。

 しかし思へば勲の暗殺と自刃は、二・二六事件にいたつて闌干(らんかん)たる星空を展いた夜 の、いはば先駆をつとめた清らかな夕星(ゆうづつ)だつた。たしかにそれらの人々は暁を望んだ のだが、かれらが具現したものは夜であつた。そして今、時代はともかくも夜を脱して、不安な暑 苦しい朝の裡にあるが、これこそはかれらの一人として夢想もしなかつたやうな朝なのであつた。

 日独伊三国同盟は、一部の日本主義者の人たちと、フランスかぶれやアングロ・マニヤを怒らせ はしたけれども、西洋好き、ヨーロッパ好きの大多数の人たちはもちろん、古風なアジア主義者た ちからも喜ばれていた。ヒットラーとではなくゲルマンの森と、ムッソリーニとではなくローマの パンテオンと結婚するのだ。それはゲルマン神話とローマ神話と古事記との同盟であり、男らしく 美しい東西の異教の神々の親交だつたのである。

 本多はもちろんさういふロマンティックな偏見には服しなかつたが、時代が身も慄へるほど何か に熱して、何かを夢見ていることは明らかだつたから、東京を離れてここへ来ると、俄かな休息と 閑暇が却つて疲労を呼び、心がひたすら過去の回想に閉ぢこもらうとするのを禦(ふせ)ぐすべが なかつた。

   はるかむかし、十九歳の清顕と語り合つて主張した、あの「歴史に関はらうとする意志こそ人間 意志の本質だ」といふ考へを、本多はまだ捨ててはいなかつた。だが、十九歳の少年が自分の性格 に対して抱く本能的な危惧は、場合によつてはおそろしく正確な予見になる。そのとき本多は、さ う主張しながら、自分の持つて生まれた意志的な性格に対する絶望を表明していたのである。

この絶望は年を経るにつれて募り、つひには本多の固疾になつたが、それによつて性格は少しも変 らなかつた。彼はむかし月修寺門跡の教へを受けて読んだ二三の仏教書のうちから、わけても「成 実論(じょうじつろん)」の三報業品にある、もつとも怖ろしい一句を心に泛べた。

「悪を行じながらも楽を見るは、悪の未だ熟せざるがためなり」

---従つてここバンコックで、厚いもてなしを受けて、見るもの聞くもの、飲食にいたるまで、 いかにも熱帯風な怠惰な「楽」を見ているからと云つて、自分が五十年にちかい年月に、「悪を行 じ」て来なかつたといふ証拠にはならなかつた。自分の悪は、枝から自然に堕ちる芳醇な果実ほど には、「未だ熟」していないのであらう。

 小乗仏教のこの国(タイ)は、南伝大蔵経の素朴な因果論の背景に、かつて若い日の本多が感銘 を受けたマヌの法典の因果律が二重写しに泛び、ヒンズーの神々も亦、いたるところにその奇怪な 顔をのぞかせていた。寺々の軒を飾る聖蛇(ナーガ)やガルダは、七世紀のインドの劇曲「ナーガ ーナンダ」の叙述を今に伝へ、ガルダの孝養はヒンズーのヴィシュヌの神の嘉(よみ)するところ であつた。

 この地へ来てから、本多の持ち前の探究癖が頭をもたげ、彼の半生をいつも合理的なものから突 き離す機縁をなしたあの転生の神秘を、小乗仏教はどう解いているかに興味を抱いた。  学者の説くところによれば、印度の宗教哲学は、次のやうな六期に分かたれる。

 第一期はリグヴェーダの時代である。

 第二期は祭壇哲学(ブラフマドナ)の時代である。

 第三期はウパニシャッド(奥義書哲学)の時代で、西暦紀元前八世紀から五世紀に及び、梵と我 (アートマン)の一体を理想とする自我哲学の時代であるが、輪廻(サムサーラ)の思想はこの時 期にはじめて明瞭にあらはれ、これが業(カルマ)の思想と結びついて因果律を与へられ、我(ア ートマン)の思想と結びついて大系化されたのである。

 第四期は諸学派分立時代である。

 第五期は、紀元前三世紀から紀元一世紀にいたる小乗仏教完成時代である。

 第六期はその後五百年に亙る大乗仏教興隆時代である。

 問題はその第五期であつて、本多がむかし親しんで、輪廻転生を法の条文にまでとり入れている ことにおどろいたマヌの法典は、正にこの時期に集大成されたのであるが、同じ業思想でも、仏教 以後の業思想は、ウパニシャッドのそれとは劃然とちがつている。どこがちがつているかといふと、 我(アートマン)が否定されたのである。仏教の本質は正にここにあると謂つてよい。

 仏教を異教と分かつ三特色の一つに、諸法無我印といふのがある。仏教は無我を称へて、生命の 中心主体と考へられた我(アートマン)を否定し、否定の赴くところ、我(アートマン)の来世へ の存続であるところの「霊魂」をも否定した。仏教は霊魂といふものを認めない。生物に霊魂とい ふ中心の実体がなければ、無生物にもそれがない。いや、万有のどこにも固有の実体がないことは、 あたかも骨のない水母(くらげ)のやうである。
One of the three characteristics which differentiate Buddhism from other religions is that of the selflessness of all the dharmas. Buddhism advocated selflessness and denied atman, which had been considered to be the main constituent of life. It followed that Buddhism rejected the idea of "soul", which is the extension of atman into the hereafter. Buddhism does not recognize the soul as such. If there is no core substance called soul in beings, there is, of course, none inorganic matter. Indeed, quite like a jellyfish devoid of bone, there is no innate essence in all of creation.

 しかし、ここに困つたことが起るのは、死んで一切が無に帰するとすれば、悪業によつて悪趣に 堕ち、善業によつて善趣に昇るのは、一体何者なのであるか?我がないとすれば、輪廻転生の主体 はそもそも何なのであらうか?
But then the troublesome question arises: if good acts produce a good subsequent existence and evil acts a bad one, and if, indeed, everything returns to nothingness following death, what then is the transmigrating substance? If we assume there is no self, what is the basis of the birth-and-death cycle to start with?

 仏教が否定した我の思想と、仏教が継受した業の思想との、かういふ矛盾撞着に苦しんで、各派 に分かれて論争しながら、結局整然とした論理的帰結を得なかつたのが、小乗仏教の三百年だと考 へられるのである。

 この問題がみごとな哲学的成果を結ぶには、大乗の唯識を待たねばならないのであるが、小乗の 経量部にいたつて、あたかも香水の香りが衣服に薫(くん)じつくやうに、善悪業の余習が意志に 残つて意志を性格づけ、その性格づけられた力が引果の原因となるといふ、「種子薫習」の概念が 定立せられて、これがのちの唯識の先蹤をなすのだつた。

 今にして本多は、シャムの二王子の絶やさぬ微笑と憂はしい目の裡にあつたものが、何だつたか に思ひ当つた。それはこの燦然たる寺や花々や果実の国で、物憂い陽光に押しひしがれながら、ひ たすら仏を崇め輪廻を信じて、なほ整々たる論理的体系を忌避するところの、黄金(きん)の重い 怠惰と樹下の微風のたゆたひの精神だつた。

   クリッサダ殿下はともかく、英明なパッタナディド殿下は、人をおどろかせるやうな犀利な哲学 者の心を持つていられた。それでものほ、情感のはげしさはそんな究理的な心を押し流し、殿下が 語られたどの言葉よりも、今なほ本多の脳裡に鮮やかなのは、月光姫(ジン・ジャン)の訃音に接 して、夏の終南別業の芝生の椅子に、失神したそのお姿だつた。
(中略)

 五十に近づいた本多の年齢の一得は、もはやあらゆる偏見から自由になつたことだと云へよう。 自ら権威となつたことがあるから権威からも。自ら理知の権化となつたことがあるから理知からも。  すぎし大正はじめの剣道部の精神も、一度もそれに與(あずか)らなかつた本多をも含めて、一 時代を染めなした紺絣の精神だつたから、今となつては本多も自分の記憶の青春を、それに等しな みに包括させることに吝かでなかつた。

 これを更に醇化し、更につきつめた勲の世界にいたつては、本多はそれと青春を共にしたわけで はなく、外側から瞥見しただけだつたが、若い日本精神があれほど孤立した状況で戦ひ自滅して行 つた姿を見ては、「自分をかうして生きのびさせている力こそ、他ならぬ西洋の力であり、外来思 想の力だ」と覚らざるをえなかつた。固有の思想は人を死なせるのだ。  もし生きようと思へば、勲のやうに純潔を固執してはならなかつた。あらゆる退路を絶ち、すべ てを拒否してはならなかつた。

 勲の死ほど、純潔な日本とは何だらうといふ省察を、本多に強ひたものはなかつた。すべてを拒 否すること、現実の日本や日本人をすらすべて拒絶し否定することのほかに、このもつとも生きに くい生き方のほかに、とどのつまりは誰かを殺して自刃することのほかに、真に「日本」と共に生 きる道はないのではなからうか?誰もが怖れてそれを言はないが、勲が身を以て、これを証明した のではなからうか?

 思へば民族のもつとも純粋な要素には必ず血の匂ひがし、野蛮の影が射している筈だつた。世界 中の動物愛護家の非難をものともせず、国技の闘牛を保存したスペインとちがつて、日本は明治の 文明開化で、あらゆる「蛮風」を払拭しようと望んだのである。その結果、民族のもつとも生々し い純粋な魂は地下に隠れ、折々の噴火にその凶暴な力を揮つて、ますます人の忌み怖れるところと なつた。

 いかに恐ろしい面貌であらはれようと、それはもともと純白な魂であつた。タイのやうな国へ来 てみると、祖国の文物の清らかさ、簡素、単純、川底の小石さへ数まへられる川水の澄みやかさ、 神道の儀式の清明などは、いよいよ本多の目に明らかになつた。しかし本多はそれと共に生きるの ではなく、大多数の日本人がさうしているやうに、それを無視し、あたかもないかのやうに振舞つ て、むしろそれからのがれることによつて生きのびて来たのであつた。

あのあまりにも簡勁(かんけい)素朴な第一義的なもの、あの白絹、あの真清水、あの微風に揺れ る幣(しで)の潔白、あの鳥居が区切る単純な空間、あの沖津磐座(おきついはくら)、あの山々、 あの大わたつみ、あの日本刀、その光輝、その純粋、その鋭利から、終始身を躱(かは)して生き て来たのである。本多ばかりでなく、すでに大方の西欧化した日本人は、日本の烈しい元素に耐へ られなくなつていた。

 しかし霊魂を信じた勲が一旦昇天して、それが又、善因善果にはちがひないが、人間に生まれか はつて輪廻に入つたとすると、それは一体何事だらう。

 さう思へばさう思ひなされる兆もあるが、死を決したころの勲は、ひそかに「別の人生」の暗示 に目ざめていたのではないだらうか。一つの生をあまりにも純粋に究極的に生きようとすると、人 はおのづから、別の生の存在の予感に到達するのではなからうか。

 本多はここの暑熱の中では、それを思へ泛べるだけでも額に清水を滴らすやうな感じのする、日 本の神社のたたずまひを心に泛べた。石段をのぼつて近づく参詣者の目には、ゆくての拝殿を囲む 明確な枠組としか見えない鳥居が、参詣をすませて帰る者の目には、青空だけを湛えた額縁と見え るのだ。一つのものがおごそかな神殿と何もない青空とを、表と裏のやうに全的に包含するあのふ しぎ。あの鳥居の形式こそ、勲の魂だつたやうに思はれる。

 少なくとも勲は、最上の、美しい、簡素な、鳥居のやうな明確な枠を生きた。そこでその枠の中 に、不可避的に、青空が湛へられてしまつたのだ。  死にぎはの勲の心が、いかに仏教から遠からうと、このやうな関はり方こそ、日本人の仏教との 関はり方を暗示していると本多には思はれた。それはいはばメナムの濁水を、白絹の漉袋で漉した のである。
(後略)