ニルヴァーナへの道

究極の悟りを求めて

建国記念の日に三島由紀夫の文章を味わいながら日本を考える

2007-02-12 14:26:30 | 三島由紀夫
建国記念の日のこの時期に、三島由紀夫の「豊饒の海」第三巻「暁の寺」第二章の中の、本多の「純潔な日本とは何だらうといふ省察」を読みながら、「純粋な日本」とは何か、考えてみるのもいいのではないかと思って、掲載させてもらいます。
この箇所は三島由紀夫の考え方が顕れていて、好きなところです。
あと、仏教の大きな流れを分かりやすく、簡潔に書いていますが、小室直樹さんが三島由紀夫の仏教理解を絶賛しているのもなるほどと思います。

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(前略)
物事の起こり具合を、本多の年齢は、もはや手に入れた幾多の法則の一つにあてはめて、その尺 度で以て読むことができた。天変地変は別として、歴史的生起といふものは、どんなに不意打ちに 見える事柄であつても、実はその前に永い逡巡、いはば愛を受け容れる前の娘のやうな、気の進ま ぬ気配を伴ふのである。こちらの望みにすぐさま応へ、こちらの好みの速度で近づいてくる事柄に は、必ず作り物の匂ひがあつたから、自分の行動を歴史的法則に委ねようとするなら、よろづに気 の進まぬ態度を持するのが一番だつた。欲するものが何一つ手に入らず、意志が悉く無効にをはる 例を、本多はたくさん見すぎていた。ほしがらなければ手に入るものが、欲するが為に手に入らな くなつてしまふのだ。すべては自分の欲求、自分の意志だけにかかつているやうにみえる自殺すら、 勲はそれを完璧に仕遂げるために、一年も獄中で待たねばならなかつた。

 しかし思へば勲の暗殺と自刃は、二・二六事件にいたつて闌干(らんかん)たる星空を展いた夜 の、いはば先駆をつとめた清らかな夕星(ゆうづつ)だつた。たしかにそれらの人々は暁を望んだ のだが、かれらが具現したものは夜であつた。そして今、時代はともかくも夜を脱して、不安な暑 苦しい朝の裡にあるが、これこそはかれらの一人として夢想もしなかつたやうな朝なのであつた。

 日独伊三国同盟は、一部の日本主義者の人たちと、フランスかぶれやアングロ・マニヤを怒らせ はしたけれども、西洋好き、ヨーロッパ好きの大多数の人たちはもちろん、古風なアジア主義者た ちからも喜ばれていた。ヒットラーとではなくゲルマンの森と、ムッソリーニとではなくローマの パンテオンと結婚するのだ。それはゲルマン神話とローマ神話と古事記との同盟であり、男らしく 美しい東西の異教の神々の親交だつたのである。

 本多はもちろんさういふロマンティックな偏見には服しなかつたが、時代が身も慄へるほど何か に熱して、何かを夢見ていることは明らかだつたから、東京を離れてここへ来ると、俄かな休息と 閑暇が却つて疲労を呼び、心がひたすら過去の回想に閉ぢこもらうとするのを禦(ふせ)ぐすべが なかつた。

   はるかむかし、十九歳の清顕と語り合つて主張した、あの「歴史に関はらうとする意志こそ人間 意志の本質だ」といふ考へを、本多はまだ捨ててはいなかつた。だが、十九歳の少年が自分の性格 に対して抱く本能的な危惧は、場合によつてはおそろしく正確な予見になる。そのとき本多は、さ う主張しながら、自分の持つて生まれた意志的な性格に対する絶望を表明していたのである。

この絶望は年を経るにつれて募り、つひには本多の固疾になつたが、それによつて性格は少しも変 らなかつた。彼はむかし月修寺門跡の教へを受けて読んだ二三の仏教書のうちから、わけても「成 実論(じょうじつろん)」の三報業品にある、もつとも怖ろしい一句を心に泛べた。

「悪を行じながらも楽を見るは、悪の未だ熟せざるがためなり」

---従つてここバンコックで、厚いもてなしを受けて、見るもの聞くもの、飲食にいたるまで、 いかにも熱帯風な怠惰な「楽」を見ているからと云つて、自分が五十年にちかい年月に、「悪を行 じ」て来なかつたといふ証拠にはならなかつた。自分の悪は、枝から自然に堕ちる芳醇な果実ほど には、「未だ熟」していないのであらう。

 小乗仏教のこの国(タイ)は、南伝大蔵経の素朴な因果論の背景に、かつて若い日の本多が感銘 を受けたマヌの法典の因果律が二重写しに泛び、ヒンズーの神々も亦、いたるところにその奇怪な 顔をのぞかせていた。寺々の軒を飾る聖蛇(ナーガ)やガルダは、七世紀のインドの劇曲「ナーガ ーナンダ」の叙述を今に伝へ、ガルダの孝養はヒンズーのヴィシュヌの神の嘉(よみ)するところ であつた。

 この地へ来てから、本多の持ち前の探究癖が頭をもたげ、彼の半生をいつも合理的なものから突 き離す機縁をなしたあの転生の神秘を、小乗仏教はどう解いているかに興味を抱いた。  学者の説くところによれば、印度の宗教哲学は、次のやうな六期に分かたれる。

 第一期はリグヴェーダの時代である。

 第二期は祭壇哲学(ブラフマドナ)の時代である。

 第三期はウパニシャッド(奥義書哲学)の時代で、西暦紀元前八世紀から五世紀に及び、梵と我 (アートマン)の一体を理想とする自我哲学の時代であるが、輪廻(サムサーラ)の思想はこの時 期にはじめて明瞭にあらはれ、これが業(カルマ)の思想と結びついて因果律を与へられ、我(ア ートマン)の思想と結びついて大系化されたのである。

 第四期は諸学派分立時代である。

 第五期は、紀元前三世紀から紀元一世紀にいたる小乗仏教完成時代である。

 第六期はその後五百年に亙る大乗仏教興隆時代である。

 問題はその第五期であつて、本多がむかし親しんで、輪廻転生を法の条文にまでとり入れている ことにおどろいたマヌの法典は、正にこの時期に集大成されたのであるが、同じ業思想でも、仏教 以後の業思想は、ウパニシャッドのそれとは劃然とちがつている。どこがちがつているかといふと、 我(アートマン)が否定されたのである。仏教の本質は正にここにあると謂つてよい。

 仏教を異教と分かつ三特色の一つに、諸法無我印といふのがある。仏教は無我を称へて、生命の 中心主体と考へられた我(アートマン)を否定し、否定の赴くところ、我(アートマン)の来世へ の存続であるところの「霊魂」をも否定した。仏教は霊魂といふものを認めない。生物に霊魂とい ふ中心の実体がなければ、無生物にもそれがない。いや、万有のどこにも固有の実体がないことは、 あたかも骨のない水母(くらげ)のやうである。
One of the three characteristics which differentiate Buddhism from other religions is that of the selflessness of all the dharmas. Buddhism advocated selflessness and denied atman, which had been considered to be the main constituent of life. It followed that Buddhism rejected the idea of "soul", which is the extension of atman into the hereafter. Buddhism does not recognize the soul as such. If there is no core substance called soul in beings, there is, of course, none inorganic matter. Indeed, quite like a jellyfish devoid of bone, there is no innate essence in all of creation.

 しかし、ここに困つたことが起るのは、死んで一切が無に帰するとすれば、悪業によつて悪趣に 堕ち、善業によつて善趣に昇るのは、一体何者なのであるか?我がないとすれば、輪廻転生の主体 はそもそも何なのであらうか?
But then the troublesome question arises: if good acts produce a good subsequent existence and evil acts a bad one, and if, indeed, everything returns to nothingness following death, what then is the transmigrating substance? If we assume there is no self, what is the basis of the birth-and-death cycle to start with?

 仏教が否定した我の思想と、仏教が継受した業の思想との、かういふ矛盾撞着に苦しんで、各派 に分かれて論争しながら、結局整然とした論理的帰結を得なかつたのが、小乗仏教の三百年だと考 へられるのである。

 この問題がみごとな哲学的成果を結ぶには、大乗の唯識を待たねばならないのであるが、小乗の 経量部にいたつて、あたかも香水の香りが衣服に薫(くん)じつくやうに、善悪業の余習が意志に 残つて意志を性格づけ、その性格づけられた力が引果の原因となるといふ、「種子薫習」の概念が 定立せられて、これがのちの唯識の先蹤をなすのだつた。

 今にして本多は、シャムの二王子の絶やさぬ微笑と憂はしい目の裡にあつたものが、何だつたか に思ひ当つた。それはこの燦然たる寺や花々や果実の国で、物憂い陽光に押しひしがれながら、ひ たすら仏を崇め輪廻を信じて、なほ整々たる論理的体系を忌避するところの、黄金(きん)の重い 怠惰と樹下の微風のたゆたひの精神だつた。

   クリッサダ殿下はともかく、英明なパッタナディド殿下は、人をおどろかせるやうな犀利な哲学 者の心を持つていられた。それでものほ、情感のはげしさはそんな究理的な心を押し流し、殿下が 語られたどの言葉よりも、今なほ本多の脳裡に鮮やかなのは、月光姫(ジン・ジャン)の訃音に接 して、夏の終南別業の芝生の椅子に、失神したそのお姿だつた。
(中略)

 五十に近づいた本多の年齢の一得は、もはやあらゆる偏見から自由になつたことだと云へよう。 自ら権威となつたことがあるから権威からも。自ら理知の権化となつたことがあるから理知からも。  すぎし大正はじめの剣道部の精神も、一度もそれに與(あずか)らなかつた本多をも含めて、一 時代を染めなした紺絣の精神だつたから、今となつては本多も自分の記憶の青春を、それに等しな みに包括させることに吝かでなかつた。

 これを更に醇化し、更につきつめた勲の世界にいたつては、本多はそれと青春を共にしたわけで はなく、外側から瞥見しただけだつたが、若い日本精神があれほど孤立した状況で戦ひ自滅して行 つた姿を見ては、「自分をかうして生きのびさせている力こそ、他ならぬ西洋の力であり、外来思 想の力だ」と覚らざるをえなかつた。固有の思想は人を死なせるのだ。  もし生きようと思へば、勲のやうに純潔を固執してはならなかつた。あらゆる退路を絶ち、すべ てを拒否してはならなかつた。

 勲の死ほど、純潔な日本とは何だらうといふ省察を、本多に強ひたものはなかつた。すべてを拒 否すること、現実の日本や日本人をすらすべて拒絶し否定することのほかに、このもつとも生きに くい生き方のほかに、とどのつまりは誰かを殺して自刃することのほかに、真に「日本」と共に生 きる道はないのではなからうか?誰もが怖れてそれを言はないが、勲が身を以て、これを証明した のではなからうか?

 思へば民族のもつとも純粋な要素には必ず血の匂ひがし、野蛮の影が射している筈だつた。世界 中の動物愛護家の非難をものともせず、国技の闘牛を保存したスペインとちがつて、日本は明治の 文明開化で、あらゆる「蛮風」を払拭しようと望んだのである。その結果、民族のもつとも生々し い純粋な魂は地下に隠れ、折々の噴火にその凶暴な力を揮つて、ますます人の忌み怖れるところと なつた。

 いかに恐ろしい面貌であらはれようと、それはもともと純白な魂であつた。タイのやうな国へ来 てみると、祖国の文物の清らかさ、簡素、単純、川底の小石さへ数まへられる川水の澄みやかさ、 神道の儀式の清明などは、いよいよ本多の目に明らかになつた。しかし本多はそれと共に生きるの ではなく、大多数の日本人がさうしているやうに、それを無視し、あたかもないかのやうに振舞つ て、むしろそれからのがれることによつて生きのびて来たのであつた。

あのあまりにも簡勁(かんけい)素朴な第一義的なもの、あの白絹、あの真清水、あの微風に揺れ る幣(しで)の潔白、あの鳥居が区切る単純な空間、あの沖津磐座(おきついはくら)、あの山々、 あの大わたつみ、あの日本刀、その光輝、その純粋、その鋭利から、終始身を躱(かは)して生き て来たのである。本多ばかりでなく、すでに大方の西欧化した日本人は、日本の烈しい元素に耐へ られなくなつていた。

 しかし霊魂を信じた勲が一旦昇天して、それが又、善因善果にはちがひないが、人間に生まれか はつて輪廻に入つたとすると、それは一体何事だらう。

 さう思へばさう思ひなされる兆もあるが、死を決したころの勲は、ひそかに「別の人生」の暗示 に目ざめていたのではないだらうか。一つの生をあまりにも純粋に究極的に生きようとすると、人 はおのづから、別の生の存在の予感に到達するのではなからうか。

 本多はここの暑熱の中では、それを思へ泛べるだけでも額に清水を滴らすやうな感じのする、日 本の神社のたたずまひを心に泛べた。石段をのぼつて近づく参詣者の目には、ゆくての拝殿を囲む 明確な枠組としか見えない鳥居が、参詣をすませて帰る者の目には、青空だけを湛えた額縁と見え るのだ。一つのものがおごそかな神殿と何もない青空とを、表と裏のやうに全的に包含するあのふ しぎ。あの鳥居の形式こそ、勲の魂だつたやうに思はれる。

 少なくとも勲は、最上の、美しい、簡素な、鳥居のやうな明確な枠を生きた。そこでその枠の中 に、不可避的に、青空が湛へられてしまつたのだ。  死にぎはの勲の心が、いかに仏教から遠からうと、このやうな関はり方こそ、日本人の仏教との 関はり方を暗示していると本多には思はれた。それはいはばメナムの濁水を、白絹の漉袋で漉した のである。
(後略)

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