ニルヴァーナへの道

究極の悟りを求めて

三島由紀夫の幻の伝記映画 Mishima: A Life In Four Chapters 

2011-03-06 21:09:02 | 三島由紀夫

三島由紀夫の幻の伝記映画 Mishima: A Life In Four Chapters 1

三島由紀夫の幻の伝記映画 Mishima: A Life In Four Chapters 2

三島由紀夫の幻の伝記映画 Mishima: A Life In Four Chapters 3

三島由紀夫の幻の伝記映画 Mishima: A Life In Four Chapters 4

三島由紀夫の幻の伝記映画 Mishima: A Life In Four Chapters 5

映画 Mishima: A Life In Four Chapters 6

三島由紀夫の幻の伝記映画 Mishima: A Life In Four Chapters 7

三島由紀夫の幻の伝記映画 Mishima: A Life In Four Chapters 8

 三島由紀夫の幻の伝記映画 Mishima: A Life In Four Chapters 10

三島由紀夫の幻の伝記映画 Mishima: A Life In Four Chapters 11

三島由紀夫の幻の伝記映画 Mishima: A Life In Four Chapters 12


三島由紀夫が語る言論の自由

2008-04-24 23:29:20 | 三島由紀夫


サピオ最新号の、「サピオズアイ」というコラムで、井沢元彦さんが、最近の映画「YASUKUNI」騒動で、この映画がいかに問題作品であろうと、反日の映画であろうと、日本は言論の自由な社会であるのだから、公開されるべきである、李監督の「表現の自由」は奪ってはならない、と述べて、この騒動のなかで、この映画の公開の場を確保することを訴える緊急声明を出した、映画労連の高橋邦夫中央執行委員長の、

「これは、日本映画史上かつてなかったことで、日本映画界にとって恥ずべき事態である。映画の表現の自由は踏みにじられ、日本映画界の信用は失墜した。また、公開が決まっていた映画が、政治圧力や上映妨害によって圧殺されるという事態は、日本映画に、将来にわたって深刻なダメージを与えるものである。
 日本の映画界、映画人は、いまこそ勇気をもって立ち上がり、踏みにじられた映画の表現の自由と、失墜した信用を取り戻さなければならない。私たち映画労連も、微力ながらともに闘う決意である。」

という声明を紹介ながら、井沢さんは、この声明に対して、「よく言うよ。恥知らずにも程がある!」とお怒りになっておられます。
何故か?
それは、この人たちの過去の言動にあるのです。
10年前映画「プライド 運命の時」が公開される前に、この人を中心とする「映画プライドを批判する会」は、東映に対して、公開中止を申し入れたことがあるからです。
この井沢さんの指摘を呼んで、そういえば、そんなこともあったかな、という記憶がありますが、たしかに、こんなことを言っていたのでれば、今起こっている公開中止騒動にかんして、緊急声明のようなえらそうな内容は言えないはずです。ほんとうに、よく言うよ、ですなあ。ほんまに、恥知らずだ!!
しかし、まあ、考えてみれば、人間というのは、こんなものかも知れないという思いもあります。

三島由紀夫は学生との討論会で言論の自由について、本質的なことを述べております。
少し長いですが、なかなか重要なところだと思いますので、その箇所を引用させてもらいます。

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■場所 早稲田大学大隈講堂
■日時 昭和43年10月3日
■主催 早稲田大学尚史会

三島
(中略)
国家革新の場合、どんな国家を求めるのか、革新の方法論はどうするのか、そこから考えていかなけれぱ何も出発しないと私は思うわけであります。
それで、最初の言論の自由の問題に戻りますが、言論の自由というものを政治と完全に抵触する概念と考えるか、あるいはそれが政治と調和する概念と考えるか、これが私は問題の分れ目じゃないかと考えます。と申しますのは言論の自由を政治と抵触するとはっきり考えれば、ソヴィエトのやっていることは正しいのであって、チェコを現在圧迫するのは正しい。また言論の自由と調和する政治形態というものを求めた点ではチェコの自由化の方向は正しい、しかし、そんなものははたしてあるだろうか、これが問題であります。そうすれぱ第三の道というのは何であろか。第三の道というのは実に低級なことですが、我々が今、現に言論の自由を享楽している。しかし、考えようによっては完企なアメリカの経済力と軍事力に支えられた形といえるかもしれません。がともかく言論の自由は完全に享楽している。この我我の住んでいるこの国は一体何だろうか。そうすると、言論の自由というのは何によって守られているのか、また言論の自由と我々の国における政治との関係は何なのか。こういう考えが出てきます。
間題提起がちょっと長くなりましたが、この問題をちょっと突っ込んでみますと、いわゆる議会制の、普通選挙制の政治形態というのは、政治というものが必要悪、妥協の産物であって、相対的な技術であって、政治に何ら理想はないのだというところから出発しているのだと私は解釈しております。つまり民主主義に理想を求める、民主主義の行く手に、人民民主主義の理想を追究して現在の民主主義を改良できるという革新の方法は、私には論理的でないと思われる。なぜなら、我々の普通選挙制の議会制民主主義というのは、理想主義とは何ら縁のない政治形態だからであります。この政治形態の中では言論の自由というものは政治と根本的に関係のないものだというふうに考えられる。言論の自由の延長下では政治は必要悪にすぎない。政治の延長下では言論の自由というものは邪魔ものにすぎない。我々はそういうところに生きている。これは我我の住んでいる政治の特徴だと思う。ですから、そろいう政治形態がいいか悪いかについては議論がありましょうが、ファクトとしては我々がここで言論の自由を味わっていることは確かなんです。私がこの壇上で何を言いましても別に手が後ろへまわるわけでもない。諾君が何を言われても、その言論によって諸君の手が後ろへまわるわけでもない。こういう享楽している言論の自由というものは何を意味するのか、それと政治との関係は何なのだろうか、こういうことから私はさらに戦争の問題、平和の問題、その他さまざまの問題に触れていきたいと思います。大体こんなところで-…。

学生A
私は表現の自由の最終的な目標は、簡単なことですけれども、人間の幸福あるいは政治といったようなものを追究するものである。そして、表現の自由の中核は政治に対する批判であると思っております。先ほど三島先生の言われました表現の自由の理想とするものは政治とはかけ離れたものであるというような言い方に対して、表現の自由の最終的な目標が人間の幸福、あるいは政治の追究にあるとするならば、それによって現実に生みだされるものは私たちが営む政治といったものであると思います。そこで表現の自由の追究は政治に対する自分自身の意見を発表するというような問題であるとするならば、政治の実現と表現の自由の終極的な意見は一致するのである。とすれば政治が現実に表現の自由を圧迫するというような事態が
現実に行われているところには、まさに現代のヒズミがあると私は思います。ところが、先ほど言われましたように社会主義におけるチエコ等々の問題があると思いますけれど、それはまさに、直接的な表現の自由圧迫の問題であり、それから現代のよう資本主義下における表現の自由の圧迫といいますのは、ただ単に私たちが自分が思ったことを自由に発表できるじゃないかというのではなくて、私たちが政治に対する自分たちの積極的目標に対する実現をいかに 自分自身の表現をもって行うか、それが現実にはただ単に形式的な、観念的な表現に終っているということなのです。そこにこの現代の体制というものの矛盾がある。とするならば先生は自由の追究と国家とは背反するものであるとおっしゃったけれども、私は一つの理想形態とする国家体制というものは表現の自由と、政治がまさに一体化したものであると思います。
非常に結論的になりましたけれども、先生がどのような観点で問題提起をされたのか、その点にについてお聞きしたいと思います。

三島
いま、パリの学生と同じ、非常に熱烈なお言葉を聞きました。私はそのお言葉自体には心を打たれました。そして、私はその気持自体が嫌いではありません。しかし、私はあなた方の倍くらい年取っていいます。そして人間に対して疑い深くなっている。
ですから人間というものに対して、必ず目的追究の果てに一致があるということは、一切信じないことにしている。
いま質問された方の頭の中にあるように言論の自由を目的論的に使うか、あるいは私の言ったように、人間の本性ないし本能のためのやむを得ざるものとして認めるか、この二つの問題があると思いますね。
つまり、チェコの求める言論の自由というものは、いままであまりにも不当な圧迫をこうむって、言論統制をされてきた。お互い、こそこそ、友達の間でも人の少ないことろで政治論をやらなければたちまち引っくくられてしまう。これじゃ、かなわない、何とか人間の最小限の自由な意見が言えるような、最小限の自由が欲しいじゃないか、まあ、隣のおじさんの悪口も言いたい。総理大臣の悪口も言いたい。総理大臣の悪口も隣のおじさんの悪口も同じ次元で言いたい、それは私、ある程度人間の本能だと思います。その本能あるがゆえに言論の自由というものを考える考え方が一つ。
もう一つは、いま質間者が言われたように言論の自由をもっと理想主義的に、目的論的に追究し、言論の自由はそもそも何のためにあるか、それはどういう目的の達成のためにこれがあるのかという考え方。両者は全然違う考え方の筋道だと思うわけです。
さっき申しました民主主義下の言論自由というものは政治と直接、フィットしないように、つまり相互矛盾的関係につくられていると言いましたのは、そういう観点において、民主主義というものは矛盾した形態でノロノロ、グズグズ、ガタガタしながら、何とかコンプロマイズに達するという技術的な発明だと私は申し上げたように記憶します。と申しますのは、もし言論の自由が政治的達成に一直線に開かれている道は、たとえばバリの学生が主張したような直接選挙の形があるでしょ
う。直接選挙が政治形態として果していいのか悪いのか、直接選挙の上に一党独裁というものがもし成立しますと、一党独裁というものがいいのかどうか、これが非常に問題になるわけです。たとえぱいま人間の正義と幸福のためにと、あなたはこう考える。別の人間は正義と幸福というものをまた別なように考える。人間個々人の考えは別々であります。あなた方と、別の人の正義と、そういう声をどうやって完全に等分に実現することができるか。政治が一つの正義を実現すれば、それ
は必ず言論自由の弾圧へ来るんだ、なぜなら一つの正義の実現を一党独裁の形でやろうとすれば、必ずその先には秘密讐察・強制収容所がついてくる、これは人間性としての当然のことと思います。もし強制収容所もない、政治讐察もない、そして正義と幸福が実現される、しかもそれが言論自由の筋道を通って実現される、私はそのようなことを一切信じません。というのは正義というのは一つの妥協の上でしか成立しないようにできているので、もしそれが妥協でない、それだけの形
で実現すれば、必ずそれは言論の自由と衝突する結果になる、つまりあなたの言われたことは、言論の自由による正義の追究は必ず言論の自由の弾圧に終るということを私は言いたいのであります。ですから、言論の自由をそれほど窮屈に考えないである考えが実現するかしないかわからんが、とにかく言いたいだけ言ってやろう、言いたいだけ言ってやることによってそれが微妙な影響を相手に及ぼし、また微妙な影響が来るかもしれないが、それによって徐々に実現していく他はな
いというのが言論自由というもののどうしようもない性質だと考えます。

三島由紀夫「文化防衛論」(新潮社)より
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1968年という年の世界の状況が伝わってくる討論だと思います。
1988年1月11日号のタイム誌のカバーストーリーは20周年ということもあり、ズバリ「1968年」ですが、この記事を執筆した、その当時のシニア・ライターであるランス・モローは、1968年という年を、「It was a tragedy of change, a struggle between generations, to some extent a war between the past and the future, and even, for a entire society, a violent struggle to grow up.(1968年は、変化という悲劇であり、世代間の闘争であり、いくらかは、過去と未来の間の戦争であり、そして、社会全体にとって、成長のための暴力的な闘争でさえあったのだ。」と形容していますが、何か、世界全体が見えない何物かに衝き動かされていたのではないかという感じがします。
それにしても、三島の質問者の質問の真意を的確に捉えて、自分の考えを分かりやすく伝える言葉を駆使する能力の高さには、ただただ凄いの一言です。
さて、映画労連の高橋委員長らの考え方は、三島のいう、言論の自由を「目的論的」に使おうということ、つまり、自分たちの理想とする社会実現のためには、映画プライドのような思想はけしからんから、こんなものは、公開すらままならぬ、それが、結局は社会のためになるのだ、というものでしょう。
三島は、
「言論の自由による正義の追究は必ず言論の自由の弾圧に終るということ」
と指摘していますが、非常に鋭いところを衝いていると思います。東京裁判を否定するような思想は自分たちの考える正義ではない、これは間違っている、と考えて、相手の言論の発表の機会すらをつぶそうとしたのでしょう。三島が述べているような事態が起こっている。東京裁判を肯定する人たちもこの箇所はしっかりと読んでもらいたいものです。勿論、東京裁判を否定する私も反対の言論の自由は守らなければとは思いますが、そこは、完全な聖人ではない人間には、どうしても、反対側の言論を何の偏見もなしに歓迎しよというようにはならない。場合によっては弾圧しようという行動に出る可能性もある。これは、人間が言論の自由を求めると同時に反対側の言論に対しては自分たちと同じ思想、言論と同じように接することができないエゴを持った動物である以上、仕方がない面もある。そうはいうものの、自分たちの偏見、エゴを自覚しながら、いかにして、自由な言論の社会を作っていくのか、この三島の言葉を読みながら、考えていきたい。
「私はあなたの考えには反対だが、あなたがその考えを発表する自由は、自分の命に代えても守っていきたい。」ということは、理想だが、なかなかできるものではない。しかし、この理想を追求しようとする人が多いほど、言論の自由度の高い社会といえるでしょう。
井沢さんは、この記事の最後に、
「本当にこの人たちは「表現の自由」ということを理解しているのだろうか」と
書いておられますが、頭ではわかっていても、実際の行動には反映されない、つまり、分かっちゃいるけど、止められない、ということでしょうな(苦笑)。
それにしても、井沢氏も指摘しているが、この当時、朝日新聞をはじめ多くのメディアは、この映画プライド公開中止申し入れに対して、言論の自由に対する弾圧だと問題にしなかったことが、不思議でならない。やはり、言論の自由にもダブルスタンダードは過去も、現在も存在するのだ。
人間とは理想を追求する動物でもある。
だから、どうしても、自分の理想に反する思想には警戒し、できれば葬り去りたい気持ちも湧いてくる。これは仕方のないものだと思う。理想を求める熱意が強い人ほど、この傾向は強くなる。共産主義の理想を求める運動が、過去、大量虐殺を生んだのは、人間の理想主義が持つ負の側面だろう。この人間の負の側面を自覚しながら、そして、言論の自由を守りながら、理想社会を追求していくこと、これがいまわれわれに求められていることだろう。



建国記念の日に三島由紀夫の文章を味わいながら日本を考える

2007-02-12 14:26:30 | 三島由紀夫
建国記念の日のこの時期に、三島由紀夫の「豊饒の海」第三巻「暁の寺」第二章の中の、本多の「純潔な日本とは何だらうといふ省察」を読みながら、「純粋な日本」とは何か、考えてみるのもいいのではないかと思って、掲載させてもらいます。
この箇所は三島由紀夫の考え方が顕れていて、好きなところです。
あと、仏教の大きな流れを分かりやすく、簡潔に書いていますが、小室直樹さんが三島由紀夫の仏教理解を絶賛しているのもなるほどと思います。

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(前略)
物事の起こり具合を、本多の年齢は、もはや手に入れた幾多の法則の一つにあてはめて、その尺 度で以て読むことができた。天変地変は別として、歴史的生起といふものは、どんなに不意打ちに 見える事柄であつても、実はその前に永い逡巡、いはば愛を受け容れる前の娘のやうな、気の進ま ぬ気配を伴ふのである。こちらの望みにすぐさま応へ、こちらの好みの速度で近づいてくる事柄に は、必ず作り物の匂ひがあつたから、自分の行動を歴史的法則に委ねようとするなら、よろづに気 の進まぬ態度を持するのが一番だつた。欲するものが何一つ手に入らず、意志が悉く無効にをはる 例を、本多はたくさん見すぎていた。ほしがらなければ手に入るものが、欲するが為に手に入らな くなつてしまふのだ。すべては自分の欲求、自分の意志だけにかかつているやうにみえる自殺すら、 勲はそれを完璧に仕遂げるために、一年も獄中で待たねばならなかつた。

 しかし思へば勲の暗殺と自刃は、二・二六事件にいたつて闌干(らんかん)たる星空を展いた夜 の、いはば先駆をつとめた清らかな夕星(ゆうづつ)だつた。たしかにそれらの人々は暁を望んだ のだが、かれらが具現したものは夜であつた。そして今、時代はともかくも夜を脱して、不安な暑 苦しい朝の裡にあるが、これこそはかれらの一人として夢想もしなかつたやうな朝なのであつた。

 日独伊三国同盟は、一部の日本主義者の人たちと、フランスかぶれやアングロ・マニヤを怒らせ はしたけれども、西洋好き、ヨーロッパ好きの大多数の人たちはもちろん、古風なアジア主義者た ちからも喜ばれていた。ヒットラーとではなくゲルマンの森と、ムッソリーニとではなくローマの パンテオンと結婚するのだ。それはゲルマン神話とローマ神話と古事記との同盟であり、男らしく 美しい東西の異教の神々の親交だつたのである。

 本多はもちろんさういふロマンティックな偏見には服しなかつたが、時代が身も慄へるほど何か に熱して、何かを夢見ていることは明らかだつたから、東京を離れてここへ来ると、俄かな休息と 閑暇が却つて疲労を呼び、心がひたすら過去の回想に閉ぢこもらうとするのを禦(ふせ)ぐすべが なかつた。

   はるかむかし、十九歳の清顕と語り合つて主張した、あの「歴史に関はらうとする意志こそ人間 意志の本質だ」といふ考へを、本多はまだ捨ててはいなかつた。だが、十九歳の少年が自分の性格 に対して抱く本能的な危惧は、場合によつてはおそろしく正確な予見になる。そのとき本多は、さ う主張しながら、自分の持つて生まれた意志的な性格に対する絶望を表明していたのである。

この絶望は年を経るにつれて募り、つひには本多の固疾になつたが、それによつて性格は少しも変 らなかつた。彼はむかし月修寺門跡の教へを受けて読んだ二三の仏教書のうちから、わけても「成 実論(じょうじつろん)」の三報業品にある、もつとも怖ろしい一句を心に泛べた。

「悪を行じながらも楽を見るは、悪の未だ熟せざるがためなり」

---従つてここバンコックで、厚いもてなしを受けて、見るもの聞くもの、飲食にいたるまで、 いかにも熱帯風な怠惰な「楽」を見ているからと云つて、自分が五十年にちかい年月に、「悪を行 じ」て来なかつたといふ証拠にはならなかつた。自分の悪は、枝から自然に堕ちる芳醇な果実ほど には、「未だ熟」していないのであらう。

 小乗仏教のこの国(タイ)は、南伝大蔵経の素朴な因果論の背景に、かつて若い日の本多が感銘 を受けたマヌの法典の因果律が二重写しに泛び、ヒンズーの神々も亦、いたるところにその奇怪な 顔をのぞかせていた。寺々の軒を飾る聖蛇(ナーガ)やガルダは、七世紀のインドの劇曲「ナーガ ーナンダ」の叙述を今に伝へ、ガルダの孝養はヒンズーのヴィシュヌの神の嘉(よみ)するところ であつた。

 この地へ来てから、本多の持ち前の探究癖が頭をもたげ、彼の半生をいつも合理的なものから突 き離す機縁をなしたあの転生の神秘を、小乗仏教はどう解いているかに興味を抱いた。  学者の説くところによれば、印度の宗教哲学は、次のやうな六期に分かたれる。

 第一期はリグヴェーダの時代である。

 第二期は祭壇哲学(ブラフマドナ)の時代である。

 第三期はウパニシャッド(奥義書哲学)の時代で、西暦紀元前八世紀から五世紀に及び、梵と我 (アートマン)の一体を理想とする自我哲学の時代であるが、輪廻(サムサーラ)の思想はこの時 期にはじめて明瞭にあらはれ、これが業(カルマ)の思想と結びついて因果律を与へられ、我(ア ートマン)の思想と結びついて大系化されたのである。

 第四期は諸学派分立時代である。

 第五期は、紀元前三世紀から紀元一世紀にいたる小乗仏教完成時代である。

 第六期はその後五百年に亙る大乗仏教興隆時代である。

 問題はその第五期であつて、本多がむかし親しんで、輪廻転生を法の条文にまでとり入れている ことにおどろいたマヌの法典は、正にこの時期に集大成されたのであるが、同じ業思想でも、仏教 以後の業思想は、ウパニシャッドのそれとは劃然とちがつている。どこがちがつているかといふと、 我(アートマン)が否定されたのである。仏教の本質は正にここにあると謂つてよい。

 仏教を異教と分かつ三特色の一つに、諸法無我印といふのがある。仏教は無我を称へて、生命の 中心主体と考へられた我(アートマン)を否定し、否定の赴くところ、我(アートマン)の来世へ の存続であるところの「霊魂」をも否定した。仏教は霊魂といふものを認めない。生物に霊魂とい ふ中心の実体がなければ、無生物にもそれがない。いや、万有のどこにも固有の実体がないことは、 あたかも骨のない水母(くらげ)のやうである。
One of the three characteristics which differentiate Buddhism from other religions is that of the selflessness of all the dharmas. Buddhism advocated selflessness and denied atman, which had been considered to be the main constituent of life. It followed that Buddhism rejected the idea of "soul", which is the extension of atman into the hereafter. Buddhism does not recognize the soul as such. If there is no core substance called soul in beings, there is, of course, none inorganic matter. Indeed, quite like a jellyfish devoid of bone, there is no innate essence in all of creation.

 しかし、ここに困つたことが起るのは、死んで一切が無に帰するとすれば、悪業によつて悪趣に 堕ち、善業によつて善趣に昇るのは、一体何者なのであるか?我がないとすれば、輪廻転生の主体 はそもそも何なのであらうか?
But then the troublesome question arises: if good acts produce a good subsequent existence and evil acts a bad one, and if, indeed, everything returns to nothingness following death, what then is the transmigrating substance? If we assume there is no self, what is the basis of the birth-and-death cycle to start with?

 仏教が否定した我の思想と、仏教が継受した業の思想との、かういふ矛盾撞着に苦しんで、各派 に分かれて論争しながら、結局整然とした論理的帰結を得なかつたのが、小乗仏教の三百年だと考 へられるのである。

 この問題がみごとな哲学的成果を結ぶには、大乗の唯識を待たねばならないのであるが、小乗の 経量部にいたつて、あたかも香水の香りが衣服に薫(くん)じつくやうに、善悪業の余習が意志に 残つて意志を性格づけ、その性格づけられた力が引果の原因となるといふ、「種子薫習」の概念が 定立せられて、これがのちの唯識の先蹤をなすのだつた。

 今にして本多は、シャムの二王子の絶やさぬ微笑と憂はしい目の裡にあつたものが、何だつたか に思ひ当つた。それはこの燦然たる寺や花々や果実の国で、物憂い陽光に押しひしがれながら、ひ たすら仏を崇め輪廻を信じて、なほ整々たる論理的体系を忌避するところの、黄金(きん)の重い 怠惰と樹下の微風のたゆたひの精神だつた。

   クリッサダ殿下はともかく、英明なパッタナディド殿下は、人をおどろかせるやうな犀利な哲学 者の心を持つていられた。それでものほ、情感のはげしさはそんな究理的な心を押し流し、殿下が 語られたどの言葉よりも、今なほ本多の脳裡に鮮やかなのは、月光姫(ジン・ジャン)の訃音に接 して、夏の終南別業の芝生の椅子に、失神したそのお姿だつた。
(中略)

 五十に近づいた本多の年齢の一得は、もはやあらゆる偏見から自由になつたことだと云へよう。 自ら権威となつたことがあるから権威からも。自ら理知の権化となつたことがあるから理知からも。  すぎし大正はじめの剣道部の精神も、一度もそれに與(あずか)らなかつた本多をも含めて、一 時代を染めなした紺絣の精神だつたから、今となつては本多も自分の記憶の青春を、それに等しな みに包括させることに吝かでなかつた。

 これを更に醇化し、更につきつめた勲の世界にいたつては、本多はそれと青春を共にしたわけで はなく、外側から瞥見しただけだつたが、若い日本精神があれほど孤立した状況で戦ひ自滅して行 つた姿を見ては、「自分をかうして生きのびさせている力こそ、他ならぬ西洋の力であり、外来思 想の力だ」と覚らざるをえなかつた。固有の思想は人を死なせるのだ。  もし生きようと思へば、勲のやうに純潔を固執してはならなかつた。あらゆる退路を絶ち、すべ てを拒否してはならなかつた。

 勲の死ほど、純潔な日本とは何だらうといふ省察を、本多に強ひたものはなかつた。すべてを拒 否すること、現実の日本や日本人をすらすべて拒絶し否定することのほかに、このもつとも生きに くい生き方のほかに、とどのつまりは誰かを殺して自刃することのほかに、真に「日本」と共に生 きる道はないのではなからうか?誰もが怖れてそれを言はないが、勲が身を以て、これを証明した のではなからうか?

 思へば民族のもつとも純粋な要素には必ず血の匂ひがし、野蛮の影が射している筈だつた。世界 中の動物愛護家の非難をものともせず、国技の闘牛を保存したスペインとちがつて、日本は明治の 文明開化で、あらゆる「蛮風」を払拭しようと望んだのである。その結果、民族のもつとも生々し い純粋な魂は地下に隠れ、折々の噴火にその凶暴な力を揮つて、ますます人の忌み怖れるところと なつた。

 いかに恐ろしい面貌であらはれようと、それはもともと純白な魂であつた。タイのやうな国へ来 てみると、祖国の文物の清らかさ、簡素、単純、川底の小石さへ数まへられる川水の澄みやかさ、 神道の儀式の清明などは、いよいよ本多の目に明らかになつた。しかし本多はそれと共に生きるの ではなく、大多数の日本人がさうしているやうに、それを無視し、あたかもないかのやうに振舞つ て、むしろそれからのがれることによつて生きのびて来たのであつた。

あのあまりにも簡勁(かんけい)素朴な第一義的なもの、あの白絹、あの真清水、あの微風に揺れ る幣(しで)の潔白、あの鳥居が区切る単純な空間、あの沖津磐座(おきついはくら)、あの山々、 あの大わたつみ、あの日本刀、その光輝、その純粋、その鋭利から、終始身を躱(かは)して生き て来たのである。本多ばかりでなく、すでに大方の西欧化した日本人は、日本の烈しい元素に耐へ られなくなつていた。

 しかし霊魂を信じた勲が一旦昇天して、それが又、善因善果にはちがひないが、人間に生まれか はつて輪廻に入つたとすると、それは一体何事だらう。

 さう思へばさう思ひなされる兆もあるが、死を決したころの勲は、ひそかに「別の人生」の暗示 に目ざめていたのではないだらうか。一つの生をあまりにも純粋に究極的に生きようとすると、人 はおのづから、別の生の存在の予感に到達するのではなからうか。

 本多はここの暑熱の中では、それを思へ泛べるだけでも額に清水を滴らすやうな感じのする、日 本の神社のたたずまひを心に泛べた。石段をのぼつて近づく参詣者の目には、ゆくての拝殿を囲む 明確な枠組としか見えない鳥居が、参詣をすませて帰る者の目には、青空だけを湛えた額縁と見え るのだ。一つのものがおごそかな神殿と何もない青空とを、表と裏のやうに全的に包含するあのふ しぎ。あの鳥居の形式こそ、勲の魂だつたやうに思はれる。

 少なくとも勲は、最上の、美しい、簡素な、鳥居のやうな明確な枠を生きた。そこでその枠の中 に、不可避的に、青空が湛へられてしまつたのだ。  死にぎはの勲の心が、いかに仏教から遠からうと、このやうな関はり方こそ、日本人の仏教との 関はり方を暗示していると本多には思はれた。それはいはばメナムの濁水を、白絹の漉袋で漉した のである。
(後略)