ニルヴァーナへの道

究極の悟りを求めて

憲法九条を世界遺産に?

2006-12-30 15:39:02 | 歴史
爆笑問題の太田光さんが昨日テレビで憲法九条について賛成の立場から論じていた。なかなか面白かった。

中沢新一さんと大田光との共著「憲法九条を世界遺産に」(集英社新書)も売れているようです。かつて、鈴木邦男さんが「天皇制の論じ方」で、なぜ、憲法九
条が改正されないのか、だれもまだ九条を超える理念を打ち出せていないからだ、と書いていたが、なるほど、そういう考え方もあるのかな、と思ったもので
す。

私の現在の立場は、現憲法無効論です。
この説は、弁護士の南出喜久治氏と憲法研究者小山常実氏が唱えています。
なかなか説得力があります。
南出喜久治氏は、現憲法は占領基本法であるのだから、一国の最高法規としての憲法としては無効であり、この憲法は講話条約としての性質として捉えるべきで
ある。であるから、一旦、無効宣言してしまえ、というラディカルなものです。その上で、帝国憲法の改正を行いえばいいのだ、ということです。

この帝国憲法復元改正論は、かつて生長の家などが唱えていました。私はちょっとついていけなかったのですが、最近、小山常実氏の説を聞いたり南出弁護士の
本を読むうちに、なるほど、無効論が最も理に適っていると考えるようになりました。
根本が腐っているものをいくら改正しても、もっともっと悪くなる、ということです。

まずは、小山常実氏の考え方
http://www.youtube.com/watch?v=WkhdTp8nsUs
南出弁護士の考え方を聞いてみてください。
http://www.youtube.com/watch?v=b_yRZD0vb0c&mode=related&search=

伊東乾著「さよなら、サイレント・ネイビー」(集英社)を読む

2006-12-24 04:44:18 | カルト
伊東乾氏の、「さよなら、サイレント・ネイビー」(集英社)を読みました。なかなか刺激的な本で、また、改めて、オウム問題について考える機会を与えられました。それで、日頃考えていることや、今回感じたことなどを書いてみます。

オウムが恐いのは、ゴキブリは殺さないが、人間は場合によっては殺してしまうという倒錯した論理を持っているところにある(あった?)。
仏教修行者として、不殺生の戒を(特に人間に対して)、いかなる場合にも(自分たちが殺されても)、「ヴァジラヤーナ的に」貫徹していれば、地下鉄サリン事件のようなテロは起こらなかっただろうし、現在のような形では、オウムの問題は起こらなかっただろう。

 しかし、オウムは「救済」という名のもとに、地下鉄サリン事件を起こした。地下鉄サリン事件実行犯の一人である豊田亨は、サリン散布は「救済」になると信じ、地下鉄にサリンを散布したが、逮捕され、拘置所で被害者の惨状を聞かされるにつれて、徐々に、ひょっとして、これは「救済」ではないのではないかと疑問を感じ始め、法廷で、自分のグルである麻原のふざけた言葉や立ち振る舞いを聞いたり見たりしていくなかで、最終的に、サリン散布は自分が信じていた「救済」ではなく、単なる殺人犯罪であると思い至り、愕然とし、そして、麻原を切り捨てる。

 善きこと、つまり、「救済」だと信じて自己の宗教生命をかけて敢行したサリン散布は、結局、誰にも利益をもたらさず(他国のテロ志願者には参考になったかもしれないが)、被害者、実行者、そして関係者に苦痛と悲しみをもたらしただけの、凶悪犯罪になってしまたわけだ。グルに騙されたのだ。

 では、なぜ、「グルの騙し」が可能になったのか。それは、実行者が、サリン散布の命令者である自分のグルを、すべてお見通しの「全知者」と信じ、サリン散布が「救済」になると信じたからだ。このグルイズムと救済思想の結びつきの危険性を指摘したのが、インド哲学研究者宮元啓一氏だ。宮元氏は、オウム真理教殺人肯定理論の原型が仏教経典に存在していることを教示されて、次のように述べている。

「ナーガセーナ長老(「ミリンダ王の問い」(東洋文庫))がいっていることは、二千年以上の時を超えて、オウム真理教という大量殺人教団がいってきたこととまったく同じ理屈なのである。それはもう恐ろしいほどである。念のために(前に引用した)ナーガセーナ長老のことばを、ほんの少し変えてみよう。

『信者諸君、もしも地下鉄の乗客たちがサリンで殺されて転生(ポア)しなかったならば、今の状態のままで地獄という果を招く悪業をなして、幾百兆劫もの間、地獄から地獄へと、破滅の所から破滅の所へと行きつつ、多くの苦しみを受けるでありましょう。尊き師(麻原)はそのことを知りつつ、慈悲をたれて、地下鉄の乗客たちをサリンで殺して転生させたのです。「わが願いによってサリンで殺されたならば、地下鉄の乗客たちの苦しみは終わりを告げるであろう」といって慈悲をたれて、重い苦しみを軽くしたのです。』
 
 地下鉄サリン事件をはじめとする、オウム真理教による一連の恐るべき殺人事件は、まさに、ナーガセーナ長老の仏教によって正当化されるのである。」
  (「宮元啓一著「ブッダが考えたこと」(春秋社)104p)

 こういう思想は、オウム以外の人は受け入れがたいであろう。また、オウム信者でも救済としての殺人行為を肯定する人は少ないのではないかと思うが、サリン事件の実行者は、散布する時点においては、少なくとも、「全知者による救済」という観念を信じていたのである。

 しかし、この救済思想は、はなはだ無責任な、自分勝手な理屈だと思う。なぜなら、殺された人は、本当に高い世界に転生したのか、客観的に証明されないからだ。これは、あくまでも、殺人者側の、「主観的な真理」でしかない。

 宮元氏は、この仏教思想に内在する救済思想がはらむ危険性を回避するためには、救済思想を付帯的なものとし、自己責任思想(自業自得)を中心に据える知恵が今こそ必要だと警鐘を鳴らす。つまり、解脱悟りを求める修行者は、他人のことをあれこれ心配するよりも、まず、自分のことに専念しようではないか、ということだと思う。救済ということはいいとしても、少なくとも、最低限の規律として、救済という観念に基付いた殺人行為(アメリカの精神医学者ロバート・リフトンはこのオウムの殺人肯定の考え方を「利他的殺人」と呼んでいる)だけは、絶対に犯してはならないということだ。これは、仏教の不殺生戒を厳守することであり、仏教徒としては当然守らなければならない最も重要な行動規範だと思うが、こんな当たり前のことが、仏教徒を自認するオウムに破られてしまったところにこの教団の恐ろしさがある(あった?)。
 
■マインドコントロール

伊東氏の今回の本のテーマの一つはマインドコントロールだが、カルトのマインドコントロールを論じた本では、元統一協会幹部スティーブン・ハッサンの「マインドコントロールの恐怖」、脳機能学者苫米地英人「洗脳言論」などを読んだが、オウムのマインドコントロールのカラクリというかメカニズムをかなり深層まで解明していると思ったのは苫米地氏の洗脳原論だ。この本の中で、アンカーとトリガーという概念を使って、なぜテロにはしってしまったのか、非常に分かりやすく解説している。

今度の伊東氏の本では、いかに人間という生物がマインドコントロールにかかりやすいか、認知の脳メカニズムの専門家などの説を紹介しながら、日本社会に警鐘を鳴らす。

「耳から入った音情報、特に情動を喚起するような情報は、脳の高次認知が発動するより先に、感情や行動を動かしてしまう、ということです。」

ということだ。人間の脳の認知のメカニズムとして、情動は気ずきに先立つ、感情が先走った人間、例えば恐怖に駆られた人間は思考するより先に行動し、あとで取り返しにつかないこと、をやってしまうのだ。伊東氏の考えでは、豊田はサリン散布時には、まさに、マインドコントロール状況にあり、サリン散布について疑念をさしはさむことができない状況にあり(グルの意思にたいする疑念は煩悩だ、グルの意思に反する行為は地獄におちると幹部になるほど徹底的にたたきこまれたから)、「思考停止」の状態であった。であるから、逮捕されて、正気に戻った豊田は、拘置所の中で、あれは、間違いだったと反省するのだが、殺人を犯してしまっては取り返しがつかない。

伊東氏は、豊田被告の裁判に関して、オウムのマインドコントロールは詐欺の側面を強く持っていたのだから、必ずしも、マインドコントロールされた実行犯がすべて責任を負うべきではないのではないか、裁かれるべきものの一つとしては、マインドコントロールの実体もあるのではないか、と述べる。オレオレ詐欺、ワンクリック詐欺の被害者と、騙される側の脳認知メカニズムは同じだというのだ。信じてしまったカルト信者の自己責任を全面的の問えるのだろうか、というのだ。ただ、この議論に関しては、反論もあろう。いくら、脳認知メカニズムが同じだといっても、カルト信者のマインドコントロール下の犯罪と一般の詐欺犯罪を同列に論じられないだろうという意見が強い。そもそも、カルト信者はある時点においては自発的にカルトの教義を信じ、受け入れたのだろう。その主体的な責任はどうするのか、ということだ。しかし、伊東氏は、オウムの教義を信じてしまって、オウムの巧妙で、破壊的なマインドコントロールを受けてしまった豊田が全面的に悪いとは言えないのではなかろうかと主張する。

「豊田という一人の優秀な人物が、閉塞しきった社会の実情に直面し、絶望して「出家」し、薬物利用を含めさまざまな洗脳やマインドコントロールを受けて犯罪を犯させられた。そこまで追いやった原因の99%以上、大学含めこっち側の社会に責任がある。同じ構造要因は、決して裁判では明らかにされないから、ずっと残り、明日もあさっても、別の豊田が別のオウムに出家し続けて当然なのだ。」(222p)

99%はどうかと思うが、やはり、責任の一端は、マインドコントロールや、こちら側の社会にある、と考えて、オウム事件を考えていかなければ、根本的な解決につながらないだろう。そして、日本社会がオウム事件を契機として、普通の人間がいかに巧妙にマインドコントロールされて、社会に害悪を及ぼしてしまうのか、そのメカニズムを徹底的に解明し、再発を防止する智慧やシステムを獲得していくことこそ、社会全体の利益になるのだ、と述べる。そもそも解脱悟りを求めたオウム信者の受け皿になるべき日本仏教界も、オウム信者に無視された事実を重く受け止めなければならない。そういう反省がない限り、現代人の精神的求めに応じられない日本仏教界はジリ貧状態になってしまい、再興など、夢のまた夢の話になってしまうだろう。いや、今まで通り、葬式仏教に徹して気くれていればそれでいいのだ、余計なことはすべきではない、滅びるときがくれば滅びればいいのだ、という醒めた意見もあるが・・・・。又、伊東氏は、こうも述べている。

「オウム事犯が罪を償わなければならないのは当然だ。しかし、豊田に最高刑を言い渡す重要なポイントとして、<自分の意思で出家し>、<真の宗教心ではない、教祖にみとめられたいというよこしまで利己的な動機>(一審、検察側論告)で犯罪をなした、とあるのは、裁判という形式を進めるために書き下ろされた推断、あえて言うなら「フィクション」に過ぎない。その「フィクション」で真実に蓋をしてしまうから、同じ過ちを繰り返すのではないか。もっと深い根があることは、誰の目に明らかだろう。それは何なのか?」(228p)

伊東氏の考えでは、そもそも日本社会には宗教を真剣に語り合う共通の土俵が存在しないのだから、無宗教国家なのだ。そういう日本社会を代表する裁判所において、判決を下すさいに、「真の宗教心」など使うべきでないと伊東は言う。そして、もっと深い根とは、どのような人間でも陥る可能性のある現代の巧妙なマインドコントールの実体だろう。これを暴いて、それを裁判に反映させ、社会に警鐘を鳴らし、啓発していかなければならない、それこそが、サリンという大量破壊兵器によるオウム事件に対して、本来あるべき裁判の姿勢ではないか、と伊東は言う。確かに、この考え方には、共鳴するものがある。

そして、伊東氏は、アメリカ連邦裁判所が、9・11同時多発テロ唯一の実行犯生存者とされる人物を、終生、情報源として活用できるよう死刑にせず、終身刑にしたことを紹介し、刑法学者団藤重光先生の意見を紹介する。

「本当にわれわれが秩序を回復して、また、いい社会にもっていこうとするためには、もう少し人間的なものを持ち込んだ、ヒューマニスティックな犯罪政策、刑事政策が必要ではないかと思うのです。・・・・米国の裁判所は大変ふところが深く感心することがある。」

確かに、そうなのだ。硬直した裁判、世論に迎合した裁判によって、本当に日本社会は進歩していくのか。そうではないだろう、もっと賢明になりましょうよ、と伊東氏は訴える。もう豊田被告にはあまり時間が残されていない。なんとかして、豊田の死刑を回避して、貴重なマインドコントロールの実体解明のための財産として活用しなければならないのだ。そのためには、最高裁判所さん、死刑判決だけは避けてもらいたい、と伊東氏は、最高裁判所の、より大きな視点に立った賢明な判断を切望する。

■再発防止

この本のもう一つのテーマである再発防止のためにはどうすればいいのか。伊藤氏は、「失敗学」という概念を紹介している。

「一度犯した失敗は、そのメカニズムを含めてすべてを明らかにすること。責任の追求にあたって、真実を隠蔽する方向に当事者が動かないようなシステムを作ること。起きてしまった事故などのありのままを、出来る限り公正に残すこと。・・・・・無用な価値判断をせず、すべて記録し、分析すること。これらを徹底することで、事故や失敗は、それを繰り返す危険から私たちを遠ざけてくれる限りなく貴重な知識になる、というものである。現在の日本の司法制度には、失敗学の叡智の導入はいかせないのだろうか。」(246p)

オウムのような宗教思想に基付いた大量破壊兵器による破壊活動は、今後、決して、繰り返させてはならないが、そのためにも、この失敗学の裁判への導入の提言は、貴重な意見だと思う。果たして、裁判所に、それだけの柔軟性を期待できるのか。もし、われわれが本気で再発防止を考えているならば、こういう意見を、裁判所へ訴えていく必要があるだろう。

そして、この21世紀現代日本において、高度な、巧妙なマインドコントロールにさらされているわれわれはどうすればいいのか。伊東氏は、次のように提言する。

「結局、最初にしなければならないことも、最後に帰ってくるべきところも、「個人」の自覚を促すこと。行為の当事者本人が、自覚できるかどうか、再発防止のすべてはここにかかっている。」(288p)

「オウムに騙されやすい芽は、ほかの誰でもない、自分自身の中にある。それを日々、疑い、的確に判断して、危険を避け続けなければならない。それが「テロ対策特別警戒」で、個人にできる「最強絶対」の対策だと私は思う。」(293p)

自分は、マインドコントロールなんかには、絶対かからない、という油断は禁物だということだ。どんな人でも、マインドコントロールにはかかるのだ。抑止力としての核武装論議にすら嫌悪感を持つ人たちは、ひょっとして、マインドコントロールされているのではないか、そう疑ってみる謙虚な姿勢が求められると思う。そのためには、まず、マインドコントロールの実体を知ることだと思う。マインドコントロールや洗脳の専門家の本で学ぶことだ。

オウム、アーレフ問題理解のために(3)

2006-12-02 20:56:58 | カルト
ケン・ウィルバーの「眼には眼を」という本の中の、第八章、「新宗教における正当性、本格性、権威性」で、宗教社会学者ディック・アンソニーが提唱している三種類の判定基準を採用しながら、アメリカの新興宗教を論じている。この中で、オウム問題を考える上で、非常に参考になる箇所が、「問題のないグループ」である。

ここで、ウィルバーは、問題を起こしにくいグループを見分けるための五つの「基準」を掲げている。特に、4と5は、重要だと思いますので、全文を引用しておきます。

1.前合理的でなく、超合理的。

2.正当性がひとつの伝統に根差していること。

3.段階-特定的権威性を持っていること。・・・・・・導師とは案内人、先生、あるいは医者であり、王や大統領やトーテム・マスターではない。

4. 完璧なマスターに率いられていないこと。

 完璧さとは、唯一、超越的本質において存在するものであり、顕在した存在に現れるものではない。ところが、信奉者の多くはそのマスターをあらゆる意味で、「完璧な」究極の導師と見る。どんな場合であれ、これは問題を引き起こす兆候である。本質と外的存在を混同することによって、信奉者は自分自身の古代的、自己愛的、全能的空想を「完璧な」導師に投影しがちだからである。こうして、あらゆる種類の古代的、魔術的、一時過程的認識が再活性化され、導師にはなんでもできる、導師は偉大だ、選ばれた自分もまた偉大だ、ということになる。これは極端に自己愛的な立場である。

 だが、当然(神の恩寵)、導師も結局は当人の人間的側面をさらすことになる。すると、信奉者はショックを受け、幻滅し、打ちひしがれる。そうなると、信奉者は、導師はもはや自分の自己愛的陶酔を支えてくれないために、そのグループを去るか、導師の行動を正当化する。「酔っぱらったて?導師が酔っぱらったて?いやそれは彼が、ただ酒の悪さを身をもって強調していただけさ。」 トゥルンパに関連した有名な事件があるーーー生徒を裸にし、ののしったのである。このトゥルンパに関して、さまざまな弟子があるゆる種類の高等な説明を施したが、どれも正しくはなかった。トゥルンパは言語道断かつ言い訳のたたないまったく馬鹿げたまちがいをしでかしたのである。

 良い導師とは、もちろん、神聖ではあるが、同時に、人間でもある。キリストさえもふたつの性質(人間と神性)を備えたひとりの人物(ジーザス)であったと言われている。さらに、導師が魂と精神の徹底的訓練を受けているという事実は、心身も同じように徹底的に訓練されているという意味ではない。いまだかつてわたしは導師が「完璧な身体」で、一マイルを四分で走るのを見たことはないし、「完璧な心」で、アインシュタインの特殊相対性理論を説明するのを見たこともない。導師もまた人類に根差しているのであり、人類ーーー勿論、森羅万象ーーが最上位の完璧な状態へと進化しない限り、完璧な導師の出現は不可能である。そのときまでは、完璧さは、唯一、超越のうちにあり、顕在のうちにはない。つまり、「完璧な導師」には気をつけたほうがいいのである。

 この帰結として、次のことがいえる。

5. 世界を救おうとしないこと。問題のあるグループに所属する人の多くが、最初、他人を助け、世界をよくしたいという利他的な理想主義にかられて参加していることは、しばしば指摘される事実である。だが、その「理想主義」は、「完璧な導師」のそれーー古代的で自己愛的ーーに類似した構造を持っている。その根底には、「わたしとグループが世界を変える」という衝動があり、「わたし」のほうに力点が置かれている。さらに、その自己愛的核心は、その姿勢そのものの傲慢さに見ることができるーーわれわれは唯一の(最善の)方法をもっており、世界を変えるのはわれわれである。つまり、無知で、あわれな人たちに自分たちの考えを押し付けるのである。もちろん、彼らはそういう言い方はしないであろう。だが、彼らは実際にはそう感じているにちがいない。頼まれもしないのに、誰かを助けようと考えるのは、相手が助けを求めており(劣っている)、自分にその能力があると思っているのである。
 
 この自己愛的な「利他主義」は、いかに高尚な「理想主義」をもってしても、覆い隠すことのできない伝道熱や異様な改宗の勧誘などに現れてくる。こうした強迫観念的衝動は、つねに問題がつきまとっている。少なくとも、自分たちが極め付きの方法をもっているという思い込みは、実質的には聖戦をも含むあらゆる方法を正当化することができるからである。聖戦は罪でもなければ殺人でもない。人を救うために自分が殺している相手は人間ではなく異端者だからだ。

◆ケン・ウィルバー著「眼には眼を」(青土社)第八章、「新宗教における正当性、本格性、権威性」より
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オウム問題の解明に、このウィルバーの分析が非常に参考になる。
4の「完璧なマスターに率いられていないこと。」
これは、オウムの極端なグルイズムに端的に当てはまります(ましたか?)。尊師はなんでもお見通し、という観念の元で、一連のオウム事件が引き起こされたことは間違いないでしょう。これほど、外部の人間にとって恐いものはない。
勿論、利他的な世界を救おうとする熱意を否定してはならないと思うが、肥大化した「世界救済」「人類救済」という観念と、尊師はなんでもお見通しという観念が結合したとき、とんでもない事件が起こることは地下鉄サリン事件で証明された。

アーレフの上祐氏は、来年、新団体を立ち上げるそうだが、かつてのオウム教団内の問題に対して、どのような総括をしたのか、その再発防止策とは、どのようなものか、外部社会に、明確に公表しなければならないと思う。

ところで、このウィルバーの「眼には眼を」は、1987年出版である。オウムを立ち上げて、これから伸びていこうとする時期だった。今、この本は絶版で、なかなか古書店でも見つからない。