ニルヴァーナへの道

究極の悟りを求めて

松本道弘先生が英語でしゃべらナイトに出演

2008-02-24 16:34:58 | 英語

元NHK上級英会話講師の松本道弘先生が、
2月25日のNHKの英語でしゃべらナイトに出演されるそうだ。
英語の早期教育について、専門家との議論が放映される。
松本先生のブログには、今回の出演についていろいろ書かれている。
私も松本先生の著書に影響を受けた一読者、ファンとして、松本先生の
ブログはいつも楽しみに読ませてもらっています。

特に「速読の英語」には大きな影響を受けたものです。
現在、改訂版が出されているが、最初の版には載っていた
「読む英語」を問う! -----プロローグが消えている。
私は、このプロローグには、大いに感銘を受けたものです。
このパワフルなメッセージによって、英語を読むエネルギーを得ることができた。
この文章は私は非常に好きですので、今回、このブログに掲載させてもらいます。

このプロローグの中には、
「達者な英会話を必要とする人は、ごくひとにぎりの日本人でしかない。」
とありますが、この当時からは、かなり環境は変わった。
英会話を必要とする人はごくひとにぎりの日本人でしかない、とはいえなくなってきていますが、
読む英語の重要性はますます高まっていると思います。

ケビン・クローン・越智さんは、「英語リッチと英語プア」(光文社)で、
南京大虐殺や従軍慰安婦のプロパガンダを打ち破りたかったら、
愛国者はまず英語を話せと述べられているが、
これは民族派にとっては、非常に痛いポイントを衝いてこられています。
確かに、そうなんです。
CNNやBBCで日本の民族派の主張を英語で展開されているの見たことがない。
以前、工藤雪枝さんが、CNNで、少し、東京裁判批判を述べられていたのを見たことがありますが、それも、ほんの少しだった。
このケビンの本は、英語難民化によって、日本という社会が世界の下流社会に転落してしまうことにたいする日本人への警告の書であるが、
英語は21世紀の日本の生き残りのためには、是非とも真剣に学ばなければならない言葉だと思います。

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「読む英語」を問う! -----プロローグ

 現在の英語学習ブームは、戦後第何次かの英語ブームと呼ばれているそうだ。英語教材(そのほとんどは英会話)を売る会社が雨後のタケノコのように乱立しているが、それでも結構はやっている。
 「話す英語」を売り物にしていれば採算が合うということであろう。それに、最近しばしばマスコミを賑わしている短期留学専門業者、旅行業者が英会話熱に拍車をかけている。とにかく外国へ行けば自然に英語が巧くなりますよという手合いである。
 これも英語会話に憧れる日本人の弱さにつけ込んだもう一つの商法である。
 ま、それはそれでいい。
 だが、ここに数多くの疑問点がある。
 1. それほど英会話が一般の人たちに必要なものなのか?
 あなたは一年に何度、外人と会い、英語を話さなくてはならないような切羽つまった場面に遭遇するだろうか?
 2. 本当にこうした教材は役に立つものなのか?
「教材英語」でどの程度コミュニケートできるのか?
 3. それに費やした時間と金は回収できるのか? 英会話をつけるのに、現在の教材英語がそれほど効果的か?

読むことより始めよ!

 以上、三点の疑問に答えてみたい。
 1. 達者な英会話を必要とする人は、ごくひとにぎりの日本人でしかない。
 年に一度や二度外人と会い、二言、三言挨拶を交わすだけなら、高校までの英語テキストをおさらいするだけで充分である。
 一般の人に必要な英語は、もっと別なものだと考える。一つには、人の生活領域での行動と思考を広げる手段で、とりわけビジネス面では貴重な武器となりうる。英語そのものがコミュニケーションのための手段であるということだけでなく、他のさらに広い、そして新鮮で刺激的なインプットを行う有効な手段であるという事実がそれに加わるのだ。
 第二に、英語は「学習の電動工具」と喝破したのが、『ライフワークの見つけ方』での井上富雄氏であったが、改めていうまでもなく、英語は、自分の未知な分野を切り拓く、有効でかつ効果的な電動工具である。英語を自家薬籠中の物としたからこそ、「Intellectual Life」をもとに渡部昇一氏は『知的生活の方法』を生むきっかけをつかむことができた。これは一例にすぎない。
 第三に、海外の情報を積極的に直接手に入れるのに欠かせない強力な手段である。
 海外の新聞や雑誌から最新の経済や景気の情報をいち早く仕入れ、それを自らの生活の場で--学習に、ビジネスに--活かすその頼りになる手段が英語だとしたら、「情報を入手する英語」「読む英語」の方が、はるかに重要なはずである。
 はたして、英語教材テキストが、このニーズを満たしてくれるだろうか。答えはノウである。
 「僕は中学、高校時代に英文和訳は得意だったから、読むのには自信がありますよ」という人がいる。
 しかし、誤解してもらっては困る。
 「訳読をする」のと「読む」こととはまったく次元が違う。それに、中学、高校の英語は人工的に作られた英語だ。つまり、英文法の理解のため、あるいは英単語の語彙を自然に増やすために人工的に手が加えられたものである。そんなもので英語が読める、などというのは英語に対して失礼である。生きた英語というのは、タイムやニューズウィークの英語である。つまり妥協のない英米人が、英米人のために書いた英語なのだ。ところが、日本の大学では、それらを「時事英語」と呼び、リーディングの中でも異端児扱いをして比較的低い評価しか与えていないようだ。
 なにやら深刻な顔をして、シェイクスピアやディケンズを読む。それがリーディングの本道であり、またそれだけで十分読む力は養われたように錯覚している人が意外に多い。
 このあたりで、「読む」ということについての発想の転換が必要であるし、「読む英語」をもう一度見直すべき時期に来ているように思う。
 読む英語と話す英語、いわゆる英会話とが別物であるように思っている人も多い。しかし、それは違う。日本で読む英語としての対象に扱われている英語が、一般の人たちの生活から離れすぎているからである。ディケンズの英語、これは日本の文学作品でいえば、19世紀の擬古文であるということになろう。これを使って80年代の日常会話はできない。読む英語(正確には読んで来た英語)と英会話にへだたりがあると感じるのは当然であろう。しかし、タイムやニューズウィーク、リーダーズ・ダイジェストなどの英語は十分、日常会話の使用に耐えるのである。タイム、ニューズウィークを手にした時のむずかしさは、一つには、読んできた英語と読む英語のへだたりでもある。
 発想の転換が必要なのだ。日本人で海外生活の長い人が、よく日本語の日常会話がおかしくなって帰ってきたりする。しかし、日本の新聞や雑誌などを常々かなりの量読んでいれば、そんなことはおこらない(井原西鶴や、近松門左衛門などばかり読んでいるとそういうことになるかもしれない)。逆に英語を学ぶ日本人が、タイムやニューズウィーク、ビジネスウィークやリーダーズ・ダイジェストを読んでいれば、会話の上達も加速的に早くなるということだ。私がここで触れる読む英語は、英会話、そしてヒアリング、英作文にまで通じる力を持った「読む」英語である。

2.教材英語は実践向きでない

 「教材英語」は、野球でいえば真ん中高目、打ちごろのストレートである。だが、実際には、インコースやアウトコースに剛速球やシュートやフォークボールが投げ込まれる。
 「教材英語」の練達の士は、いつも何百回、何千回と同じフォームで打ちごろのストライクを打つ練習をしている。だから真中高目がくればホームランも出る。ところがちょっとボールがはずれれば、もう空振りの三振というタイプである。
(中略)
 ここで考えてみたい。
 真中高目が必ずホームラン、というわけにもいかないが、それ以外のくせ球も、どうにかこなせるという練習方法はないか?
 ある・・・・・。
 それにはまずボールに慣れることである。フォームに気をとらわれずに、とにかく数多くのボールに慣れることである。
 変化球にくっついていく方法ーーそれが速読の英語だ!!
 英語の洪水に打たれることである。
 タイム、ニューズウィークを読む。それが英会話上達のもう一つの効果的な道であり、私が現実にたどった道でもある。

3.「教材英語」から英会話を学んでも、知的活動を促進させることにはならない

 「教材英語」から始める人は、自分の頭にフォームだけを詰め込み、出合いがしらの好球を待っているーー「教材英語」の英語が使われる外人との出合いの場を夢想しているーー人たちである。来るべき日のために、日夜、架空の会話を繰り返す。なんと空しい日々。何万円もの投資をして手に入れた教材を途中で投げ出す人が多い。それは、たいていの人がその空しさに耐えられないからだ。当然のことである。自分は長続きのしない人間だ、と悲観する必要はない。むしろ、その方が、人間として自然なのだ。私は不自然は好まない。オウムのように空しい内容の英語を暗誦しても、満たされない。そこには知的刺激がまったくないからだ。
 ところが、タイム、ニューズウィークの中には、自分の興味の対象、たとえば、ビジネス、文学、音楽、映画、政治、医学、教育なのの話題がつまっている。それらをインプットする作業は優れて知的である。
 発展を求めよ。疑問がわく。わからない。自分の興味を持つ対象についてもっと知りたい、ということで次の雑誌、他の雑誌を見る。批判的思考も身に付く。そうして外人と出合ったとき、自分のうちに蓄積されたものを話題にし、時にはディベートすることができる。知的好奇心が活性化される。その人の人生は、英語を通じで、思ってもみなかったほど豊かなものとなる。ただ単に英語そのものをエンジョイするのではなく、英語とともに人生をエンジョイすることができるのである。私はこれを「英語読書道」と呼ぶ。後述するが、英語学習を「道」と考えた場合、足元から始めなければならない。
 道においては、実践を離れた理論はありえない。
ーーまず読むことより始めよ!!