ニルヴァーナへの道

究極の悟りを求めて

岩井軽著「私が愛した「走る爆弾娘」菊池直子へのラブレター」を読む

2007-02-27 22:05:15 | カルト
「私が愛した「走る爆弾娘」菊池直子へのラブレター」岩井軽著(コアマガジン)は、1996年12月25日に発行されましたが、オウムという集団を考えるために非常に勉強になったと思います。この時期、元オウムサマナの本といえば、高橋英利さんの本ぐらいで、この岩井さんは、以前、オウム事件後、テレビにも出たことがあり、 何故オウムにひきつけられたのか、オウムのサマナとしての生活はいったいどんなものだったのか、などを知るために、多くの情報を提供してくれたと思います。この本は、現在、絶版になっているようですが、ネット上で販売しているところもあるようですし、ネットで古書を購入することもできますね。以下に、かつて、「オウム真理教をホーリスティック(全体論的)にとらえる」という掲示板に紹介した箇所を、ここに掲載します。いま、上祐氏が新しい団体を立ち上げることが話題になっているときに、この岩井さんの本は、現在サマナ、信徒の方たち、オウムに関心を持っている人たちに読んでもらいたいですねえ。そういう願いもこめての紹介です。

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岩井軽著「私が愛した「走る爆弾娘」菊池直子へのラブレター」(コアマガジン)第5章より、

僕が何故オウム歴七年をも数えたのか。

河島英伍の 「天びんばかり」 という歌に、「家の犬は鎖をつながれると、とても自由だ」という意味の節がある が、歌の本意は別としてこの逆説は先の問いのヒントとなろう。

表面だけを撫ぜるように通り過ぎていくかのような世俗的日常(終わり無き毎日)。そしてそれは生きることに対す る根源的な問いすら拒みさえする。そのような状況において、自分自身の存在位置を絶対的な尺度(=鎖)によって 確認できることは、僕にとってある意味でとても幸福なことだった。

しかし、僕はその鎖を引っ張られるのを嫌った。何故なら自己の存在位置を確認する尺度としてのみ、それを必要 としていたからだ。だからこそその鎖は長ければ長い程、緩やかであればあるほど都合が良かった。

そもそも僕は七年間にも及ぶ信徒生活において、何かを達成しようという意志をほとんど抱いたことはなかった。 もちろん建前上、「解脱、悟りを目指します」とか、「全力で救済します」 と発言し、自分自身そう思い込もうとしたこ ともあった。しかし、それは所詮本来の自分にそぐわないものだった。

出家を決意したのも、確たる目標があったわけではなかった。「このまま現世にいても全く意味がないし、どうせハ ルマゲドンが来るんなら・・・・・・」 みたいな極めて消極的な選択だった。

だから僕の信徒生活は、求心力で引っ張ろうとする教団と、遠心力で逃げようとする自分との綱引きの連続だっ た。まさにそれは葛藤と自己矛盾、そして居直りの日々だった。

僕はこれまで三つのスタンダード(基準) を使い分けてきた。

一つは市民社会を拠り所とする生活者としての意識。

二つめは、自己の内側に本当のものを見出そうとする宗教者としての意識。

三つめは、自分という 「主体」 は幻であり、自分という 「主体」 の集合体である社会もまた幻である。したがっ て、この社会におけるいかなる自己主張も無意味であると考えるニヒリストとしての意識。

これら相矛盾する三つの意識をTPOと気分に応じて使い分ける、あるいはこれらの組み合わせによって中間的な 選択をするのが僕のスタイルである。逆に言えば、これら三つのうちいずれにしても完全に吸収されることはないの である。

僕は一部のオウム信者のように、生活者としての意識の規範である市民社会の論理を否定するものではない。む しろ、それは尊重されるべきものであると考えてる。

ここで、地下鉄サリン事件を例に挙げよう。

もし純粋に宗教者としての意識でこの事件を捉えた場合どうであろうか。ヴァジラヤーナの教義には、人々を覚醒 させるためには暴力的手段も辞さないという考え方がある。

もし事件で犠牲になった人達の魂が、彼らが本来転生すべき世界よりも高い世界へ、麻原教祖によってポアされ たのだと、諸々の事実を度外視して信じきることができるなら、地下鉄にサリンを撒いたという行為は肯定されること になる。

またニヒリストの意識で捉えるならどうだろう。「自分」 というものは実体がなく、社会という枠組みは、そこから逃 走しようとする変化のみを本質とする 「自分」 にとって不都合なものでしかないならば、虚無の日常を脱却するた めに、地下鉄にサリンを撒いたところで何の問題もないということになる。

しかし、僕はいかなるテロも肯定するわけにはいかない。それは生活者としての感情が許さないのだ。

犠牲者やその遺族の方々に対する同情の念はもちろんのこと、僕が単に寓話として捉えていたドグマの内容を、 実際に行動に移してしまったという過剰さに対して、非常にグロテスクなものを感じてしまうのだ。

某ビール会社CMのコピー流に言うと、地下鉄サリン事件は 「ほんまにやってどないすんねん」 という感じであ る。

しかしながら、僕は市民社会の論理の限界と一貫性の問題を見過ごすわけにはいかない。

まず第一に、市民社会の論理は 「主体」 と 「存在」、「認識」 と 「客体」、「及び 「生」 と 「死」 という人間 の最も根源的な問題をカバーするものではない。

また 「人命尊重」 という市民社会における最も重大なテーゼにおいてすら、論理的一貫性は見られない。

例えば法律を市民社会のコンセンサスと見なすなら、日本では条件によっては五ヶ月未満の胎児は殺してもいい ことになっている。それならば、満四ヶ月の胎児と満五ヶ月の胎児の本質的な違いは一体どこにあるのか。
 
その他にも、死刑や安楽死の問題など原則論では割り切れないことが多い。市民社会においては、全体の幸福 の総和という観点から原則論が大幅に制限されている。

しかも、その幸福とは何なのかという基準も極めて曖昧である。

ここに、僕が市民社会の論理とは全く別のスタンダード(基準) を必要とする理由があるのだ。それはまだ、未だ に多くの信者が教団から離れようとしない理由である。

ここで断っておきたいのだが、僕は最早、オウム真理教という組織を肯定しないし、麻原教祖を真のグルであると も認めない。

オウムの教義は他から借りてきた物である。

しかも、それは原始仏教やチベット密教を出自としており、かなり高度に消化している。だからこそ、いずれの既 成宗教も、オウムの教義に深く立ち入って、その矛盾を検証できないのであり、またあれだけの知的エリート達を非 合法活動に動員するだけのパワーを麻原オウムは持ち得たのである。

したがって、僕はオウム真理教で仏教を学んだと考えている。

もちろんグルイズムの解釈その他において、新たな疑問が生じていることは確かだし、今後の課題として改めて検 証していかなくてはならない。けれども僕は、あくまで宗教的な立場を仏教におくものであるが、そのバックボーンが オウムで学んだものであるとしても、基本的に不都合はないと思っている。

何故なら再度強調するがオウムの教義は借り物だからだ。

さて、仏教は市民社会の論理のアンチテーゼとしてそのニーズを満たすのだろうか。

まず市民社会の論理が二元論に立脚しているのに対し、仏教は一元の世界観と宇宙の霊的ヒエラルヒー構造を 提起することによって、先の「主体」 と 「存在」、「認識」 と 「客体」、及び「生」 と 「死」 という人間の根源的な 問題に対して解答を与えている。

また仏教の説く 「宇宙の多重性」 は、現代物理学における波動力学やビッグバン理論とも呼応している。

さらに仏教における 「殺生の戒」 を例にとって、論理的一貫性という観点から市民社会の論理と比較してみよ う。

ヒナヤーナ(小乗)及びマハーヤーナ(大乗)においてはいかなる殺生も否定される。もちろん現実生活において、 小さな虫はおろか細菌の類まで殺さないということは不可能である。

しかしこれについては次のように説明される。

もともと人間の世界は、欲六界のたかだか下から四番目に位置し、動物と時空を共有している。これは人間のカル マの限界であり、それ故に、動物を殺生しなければ生きていけない状況が生じている。もしその状況に甘んじて、殺 生を肯定して生きるなら、そのカルマによって未来際においてさらに悲痛へと至るだろう。もし極力殺生を慎み、全て の生き物に慈しみの心を持って接するなら、やがて未来際において殺生のない平安な世界に生まれ変わるだろう、 というのである。

では、ヴァジラヤーナ(金剛乗)はどうか。ヴァジラヤーナにおいては、個体の死を次の生へと至るトランスフォーム 転換)の契機として捉える。したがって、ここに相手のカルマを見極めることのできる聖者がいて、その相手が大悪 業を積もうとしているのを予見した場合、彼が本来行くべき世界よりも、高い世界へ引き上げる(ポアする)ために彼 を殺すことは肯定されるのである。

その際、ポアした本人は、殺生のカルマと相手のカルマを引き受けなければならない。ただし、ヴァジラヤーナにお いても、殺生を肯定しうる場面は極めて限定されており、一連のオウム真理教による凶悪犯罪はその条件を満たし ていないことは明らかである。

このように、ヒナヤーナ、マハーヤーナにおいては殺生は否定され、ヴァジラヤーナにおいては条件によって肯定 される。これは一見矛盾するようだが、この三乗に一貫して存在するのは 「愛」 である。

この愛の概念も、曖昧な社会通念のそれとはかなり異なる。仏教における愛の定義は、無為に相手に苦しみを与 えないこと。そしてさらに、相手の魂を成熟させ、「より高い世界・より光の強い世界」 に導くことである。

すなわち、三乗における差異はアプローチの仕方が違うだけのことだ。

このように、僕の考えでは論理的一貫性という観点に立つなら、仏教の市民社会の論理に対する優越性は揺るぎ ないのである。

ただヒナヤーナ、マハーヤーナは問題ないとしても、ヴァジラヤーナにおけるグルイズムを肯定した場合、果たして グルの真価を、基本的に凡夫である弟子が、一体どうやって判断したらいいのか、という問題が残る。オウムが引 き起こした一連の悲劇も全てこの問題に起因する。

「私が愛した「走る爆弾娘」菊池直子へのラブレター」岩井軽著(コアマガジン)より

■岩井軽氏プロフィール
大阪府生まれ。1990年5月オウム真理教に出家。その直前、菊地直子と共同生活を営む。その後、ニューヨーク生活などを経て、1995年秋、脱会。

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